沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩509 この国が琉球沖縄に対してしていること 5

2014年03月21日 17時38分50秒 | 政治論

 この国が琉球沖縄に対してしていることは、本質的基本的停滞的に、かつ、なし崩しに為す同一国民、同一人種、同一民族に対する構造的差別行為と言われる。上記、同一性について、「民族」に関しては若干の違和感があり、ここに移住した者の感触からすると、この地域の極めて顕著な文化的特異性、従って独自性とかアイデンティテイとかいわれる実体を恐らくは認めないわけにいかない。そもそも「民族」の概念は定義的にも微妙な問題性を孕んでおり、例えば本土に住していた頃筆者の琉球沖縄に対する印象は(琉球異民族視から)少なからずこの地域を自然に、一段と低レベルに特殊視する傾向にあった。しかし、これは根拠のない言いがかり(人種論的にも)にすぎず、むしろ、この国がこの地に対してしてきた歴史的政治的行為の累積から愚かにも培った浅はかな偏見にほかならないのだ。そして一般に日本の本土に住する国民の多くはこの偏見において国家行為を遠巻きに眺めるという姿勢に流れたのだった。多くの場合、沖縄問題は徐々に関心こそ持たれていっているが相変わらず僻遠の地の小さな出来事程度にしか、本土人には見られてない。この、国民こぞって無意識に取っている態度は、この国がこの地域に対して為さんとする多くの国家施策における「構造的差別行為」類似の行為をやりやすくしている。とりわけて、差別の現状を端的に示す日米安全保障条約体制が持つ「全体性」(全国民的な問題性)に関する国民レベルの関心の薄弱さは、一層この地を差別的状況に嵌め込んでしまっているといえるだろう。

 ハンナ・アーレントが洞察したように、国家機能というのは、意思決定に携わる最高権力府を頂点としてその末端に至るまで種々の縦糸横糸を通じ系統化し指揮命令下達が徹底される。そこに実行機関の基本的な意思表示が国家方針に逆らうほどの効力を持つことはない。つまり国家意思はほぼ滞りなくその通りに実行されるし、むしろこれを如何に効率的計画的機能的に実現するかに全ては集中されるのである。「我が闘争」に開陳されたヒトラーの国家主義は、驚くべき忠実さでその披瀝した彼の構想通りに実践された。ユダヤ人に対するホロコーストが彼の与り知らぬところで機械的に行われた、などということはありえない。彼を弁護しあまつさえ評価さえしようという試みの無意味さは、この事実に対して反論できない。彼に対し特筆すべきは、この稀代の悪行が、ある程度順調といえる運びで成功した、ということだ。その末路はともかくその点ではその政治行為はナポレオンの軍事的成功に匹敵するだろう。当時のドイツが彼を待望していたわけでないのに何故ドイツ人はこの狂気を受け入れ熱狂さえしたのか。そこにあらゆる国家主義的全体主義の持つ結果的に顕現するおぞましい病根が垣間見られる。国家が必要とするのは黙従であり機械的処理能力であり、何事にも忠実な「仕事人間」だ。この従業する人々は、当然ながら殺人でさえ冷静にし遂げる。軍隊はこの種の人間を養成する専門機関であり、在沖海兵隊はまさに特殊殺人専門部隊としてのみ機能するものだ。水も漏らさぬ真空地帯にあらゆる「疑念」「疑問」の根を絶やし、反射的に敵を倒す訓練に明け暮れる。ところが彼らは皆、このような属性を排除すれば恐らく普通の平凡な市民以外のものではない。一方、ナチス裁判でアーレントが指摘するところは、国家が企図すれば、それがいかなる悪法と結託し、目に見えて犯罪性に満ちたものであったとしても、一旦実践機関へ伝達を開始すればたちどころに支配的な現実を出現させ、あらゆる種類の市民のなかでも最も温和にして善良な部分において「誠実に」職務遂行され、我々に有無言わさず襲い掛かるをためらわない、ということだった。

 国家主義、全体主義の最大の悪弊である。現今安倍政権では一種の国家主義がその触手を縦横に伸ばし、琉球沖縄はじめ日本国全体に人為的な捕獲網を打ち込んでいる。彼の脳髄の中にしかないその復古主義が21世紀の日本国に具体的に相貌を現したとき、人はその醜悪さに辟易するだろうか。(つづく)