沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩397 沖縄からの沖縄移住者のメッセージ 20

2013年01月21日 16時49分20秒 | 政治論
 ヒルティの「幸福論」もアランもラッセルも筆者は知らない。小林秀雄並みに「幸福とは幸福感のことだ(敗北とは敗北感のことだ)」と言われて即座に納得してしまうほど、幸福について考えたことはない。
 その相対的な性格からして、その個人的な分化を予感するのだが、例えば「日本で一番いい県ランキング」(寺島実郎監修日本総合研究所編集)の意味は(そんな分析余計なお世話だという意見も当然あるだろうが)その55の分析諸表(基準)にこそ答えがあるので、結果的表象(順位)がどうこうの問題でないのは明らかだ。
 面白いのは「わが」沖縄県が最下位であったことで、その点がこの分析に一定の評価が与えられるところだ。つまり最低所得最低賃金最低学力おまけに最低持久力まで含め、沖縄県が全国に示すその総合的競争力の欠如は、さながら昭和30、40年代の本土の心象風景を彷彿させる(あの頃は本土も心豊かだった!!?)。
 周知のように、沖縄県は「アメリカー世(米軍政府支配の限定的自治)」において戦後暫くはむしろ物質的潤沢状態におかれたので、本土の所謂「所得倍増」「高度経済成長」路線の経験がない唯一の例外である。ここから自ずと先の調査結果は導かれるので、本土との一般的な数量的指標比較において「幸福度」を計算するのはいささかアンフェアなわけで、逆に言えば別に負け惜しみでないが、数量的比較に載らない部分での質的検証をすれば、本来の意味での実質的な「幸福度」が推し量られよう。
 但し「幸福とは何か」という哲学的アプローチなしにそれを論じる興味本位な累計というのは、どんな場合も浅はかな機械的仕分けになるので、その研究の目指すものが何かを明らかにしなければ、ついに反面教師以外の積極的意味合いは薄れてしまう。
 あらゆる人間的事業には二面性多面性があり、角度を変えれば全く逆の回答を引き出すこともある。例えば日米両外相会談で「辺野古推進」が確認された、というようなニュースに触れると、途端に沖縄県民は「ああまたか」という嘆息、諦め、嘲笑が口を突き、第三者が見れば明らかに「不幸な」瞬間を垣間見せる。
 本土の政府がアメリカが、このように県民の意思主張抗議を平然と無視し、神経を逆なでする発言を繰り返すことは、地方自治にとって明らかに「不幸な」できごとである。だがこれは一般論にすぎない。
 沖縄は地方自治としての「不幸」を甘受しているのではなく、一度として県民の中で過半数の容認意見に集約したことがないのにかかわらず、本土政府の懐柔により強制された行政府の首長ただひとりの容認だけを根拠にして「辺野古推進」に固執し、しかも今やその首長たちさえ一致して「県内移設」に反対しているというのに、何事もなかったかのように馬鹿の一つ覚えを繰り返す、この異常さを横行させる日本という国が問題なのだ。
 その根本は日米安保体制にほかならない。海兵隊の掃き溜めと化した、この軍事同盟の実質的被害者である沖縄は、日本国内74%の米軍専用軍事施設を押し付けられ、「県外移設」は受け入れ県がないというのを理由にただそれだけのために、自ら受け入れたわけでない基地を更に大規模に新設しようと辺野古に進軍するアメリカと、その傀儡日本政府の封建的横暴の嵐に曝され、日々それらと闘っている。
 現在、彼等日米国家国民が滅亡しない限り、沖縄は彼らの繰り出す馬鹿の一つ覚えの「沖縄いじめ」に対し折れそうな心との格闘と言う、原則的な、人間的な人権獲得の行為に生きているのであり、待っていても実現しない、憲法が唱導する「基本的人権」「幸福追求権」への不断な追求の径を踏んでいるってえわけさ。(中断)/div>