沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩397 沖縄からの沖縄移住者のメッセージ 19

2013年01月19日 10時25分14秒 | 政治論
 マハトマ=ガンディの「非暴力主義」は力なき「無抵抗主義」ではない。沖縄におけるアメリカ合衆国の植民地主義(矢内原忠雄によれば植民地の定義に軍事植民地という分類があるという、施政権返還に伴って沖縄が置かれた不如意な米国軍事基地温存実態はそれに該当する)及び日本政府の差別政策(当然人種的民族的差別というよりは日本人独特の異種境遇人群への差別的待遇癖乃至優越感...差別、アイヌ、アジア一般、中国朝鮮へのそれも同質と思われる)との人民闘争の基本は「非暴力不服従」理念にあるのだろうが、琉球処分以降の沖縄県における「同化策」、あるいは「非武の邦」たる県民性に反する旧日本帝国軍隊への強制的同流化、「皇民化教育」への無批判無抵抗な服従は、集団強制死をはじめとする多くの悲惨な戦争犠牲者を生んだ一因と言える(沖縄戦全戦死者18万8136人のうち県民の援護法適用戦争協力者5万5246人、一般住民3万8754人、軍人軍属2万8228人)。
 この厖大な数の無残な死は、その一つ一つが様々な声を生きているものに聞かせようとする、聞く者の想像力の深浅多寡に従って。それは現代の日本人の一人ひとりの心に静かにあるいは激しく問いかける。
 東京裁判で裁かれたA級戦犯たちはナチス並みの「犯罪的」共同謀議もしなかったし(市ヶ谷で初見同士の容疑者もいたらしい)、キーナンが侮蔑と嘲笑をもって報いるほど東条はあくどい人物でなかったし、原爆で数十万の無辜の民を殺戮したアメリカほどには旧日本軍は南京で中国人を殺さなかったらしいし、むき出しの憎悪を示したフィリッピンの検事に一種の感情的違和感を覚えるし、アジア各地の即決裁判で殺された1000人のBC級戦犯全員に、死を持って贖うべき重大な個人的責任(命令下達遂行や戦時感性)があったとも思えないし、「復讐性」の強いこの司法的偏向裁判の結果をもってして一切を収束させたことには、人間性において果たしてその十分な理念的検証がされたのかどうか甚だ怪しまれる側面を見逃すわけにはいかない。
 だが、戦争を惹起した指導者たちの責任は重い。又戦争を口実に、無用な殺戮を許したひとりひとりの兵隊たちにも、自身で省みるべき時間を持つ必要がある。
 現今日本の所謂「右傾化」軍団にあるのは、著しく心理的な性格(近現代日本史を自虐史観と見る見方)に彩られた一点突破(憲法改悪)的な偏向思潮にほかならないが、いずれにしても為政者に求められるのは、バランスの取れた外交姿勢(協調外交)であり政治感覚(党派によらない)であり、文民統制力の効いた国家方針の模索(当然それは軍国化の否定だ)である。
 かの歴史的痕跡をざっと見ただけでも、このバランス感覚が失われたとき軍部の独走があり、一億玉砕精神があり、言わずもがなの戦陣訓があった。と同時に、戦前戦中通してあった戰爭回避の意見が、何故あれ程に日本人には脆弱だったのかを見ていかねばならない。
 日清日露戦役での偶然の勝利に酔った国民的昂揚が、日進月歩で進歩する近代科学的戰爭実質から乖離する方向へ誘ったことも否定できないし、国際政治状況に居所を見出す努力を放棄した(国連脱退)「アジアの盟主」に、欧米帝国主義列強からのアジアの解放という大事業は、自身が自国の民を犠牲にする以外には所詮務まる実力も兵糧もなかった。
 かといって国際連合や連盟に国際紛争を実質的に解決するだけの客観的効力など恐らく今後共期待はできない(戦勝国主体の独占企業にどんな保障性を見るのか)。
 一方、国連さえ無視しうるアメリカ合衆国にコバンザメさながらくっついている日本の保守政治には、損得勘定はあっても有効投資を真摯に企図する未来はない。
 今やアメリカ合衆国は自国の安全保障防共主義一辺倒であり、その功罪が全て日米同盟とそれを担保する沖縄米軍基地に集約し、沖縄県は故のないツケを払わされ続けている。
 「コザ騒動」は米兵の車両に放火するという「実力行使」だが、これはもともと国家安全保障などに責任があろうはずもない住民にあって、「怒り」という力点を使って「権力」に抵抗した唯一の例だ。たった一度である。米兵に対し「不売運動」を実行したことがあるのだろうか、米兵に酒類提供拒否する酒場はあるのか。基地労働者の考え方には沖縄の経済を悪くしているのが米軍基地の存在だという自覚はあるのか。
 (中断)


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