沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩449 傀儡国家 4

2013年08月30日 08時39分07秒 | 政治論

 明治維新を全面否定する必要はないのだが、昭和の戦争時代と敗戦、延いては甚だ偏頗な戦後民主主義がどこから来たのかと問えば、明らかに、明治政府が強力に推し進めた富国強兵殖産興業欧化策という、急激な資本主義の欧米風帝国主義的成長がその因源であることは言うを俟たない。

 何故この頭でっかちな進歩主義が文民統制を伴わずに(あるいは極めて脆弱なものとして)突進することになったのかと言えば、しかも軍部の「天皇奉戴神格化」という猛然とした欺瞞性を全国民レベルででっち上げ、「尽忠報国」を旗印に私事を一切顧みない「献身的犠牲」を強い、凡そ「近代化」に相応しくない前時代的封建的遺制に大衆を縛りつけ、抗えない全体主義に狂熱的に巻き込んだあの忌まわしい戦時体制を生み出すことになったのかと言えば、英国風立憲君主制を押し立てたといえば聞こえはいいが、世界史上の「近代化」といったところで、あの明治維新は所詮支配階級の下層部分(従ってその生活的不如意は精神をすら圧迫していたであろう)が凋落気味の出身階級に大政奉還させ「古代天皇制の復活」をして新たな支配構造を構築し直したということに過ぎないわけで、その後の「近代化」の歩みが一部の選良たちの「効率主義」や「愚民策(この最たるものが大震災時の隠蔽工作や戦時中の大本営発表だ)」を基本に、超国家的抽象的大東亜主義へ独善的にのめり込んだ結果ということになる。

 この見方は竹内好の「近代化とは何か(中国と日本の場合)」に拠るが、更に言うなら、この国の敗戦、敗北は彼ら支配階級において根本的に生じた彼ら自身の限定的な敗北であり、言ってみれば恐らくこの絶望的な状況に関わらず、「民衆」という、根にしろ胚珠にしろ、必ずそれはどこかに息づいていると言うことなのであろう。従って、我々は、識者たちが屡々陥る短絡的な個別的な「絶望」感に対して、深いところでそうではないと言い続けることになる。(つづく)



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