沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩353 沖縄から見た日本という国 5

2012年05月25日 10時18分19秒 | 政治論
 米軍基地・日米安保同盟に関する限り、沖縄から見た日本という国は、堪え難いほどに醜悪で、嫌悪をもってしか語れないものになり了したが、それは結局沖縄自身の自己嫌悪にほかならないということも、自家中毒に近いことも十分納得済みで言えることらしい。
 かつては、半ば被害妄想的に受け止めていた「日本人に対する沖縄人の感情」が、これに纏わる本土的事実を知るにつれ益々不愉快になるほど現実味を帯びて、と同時に、自身のなかで燻っていた不満憤懣などの感情が同質の被害感情となって迸出し、「本土」では気がつかなかった、この国に対する現実的な絶望感を目の当たりにすることとなった。
 これは具体的には、民主政権交代劇から始まって鳩山陥落に極まった国政における対沖縄失政が原因だが、実はそれより以前、6年前に遡る移住生活端緒の頃に、不勉強ながら遅ればせに触れた沖縄問題に関わる資料図書から何気に準備はされていた。
 簡単に言うと、こうした後発の沖縄認知は、多くの知識人を含め、恐らく一般的な市民レベルで、「本土」の日本人に現実的に捕捉されてはいないはずだ。
 そこで当然ながら、”彼ら”の論議の焦点は、この国がその明かな歴史的誤謬に基づいて採用した、西側世界の防共同盟思想に基づく日米安保体制の運用において展開する、対中・対北朝鮮軍事戦略の実効性というものに究極する。
 しかしながら、「沖縄問題」をもって論議されてきたこの国の防衛問題は、”彼ら”により真摯にかつまともに扱われたことはかつてなかったということも事実なのだ。
 日米安保運用のためにのみ、沖縄にこうした問題の本質をいかにして押し付けきるかが論じられてきた。「朝生」の、ほぼ愚劣極まりない"彼ら"の談論を垣間見る限り、この事態は沖縄にとっては絶望的な、本土識者における理念喪失実態として認知しておかねばならない。否、もしかすると「本土」自体が、何気に"彼ら"の戦後的病弊にはまってしまったということかもしれない。
 沖縄にあっては現在、モロッコで墜落事故を起しながら、その原因究明さえされてない危険な軍用機オスプレイを、ほかならぬ普天間に配備しようというアメリカのいうがままに、これを受け入れようという政府の方針に触れ、全県あげて反対している。
 ここにも、自国のオリジナルな防衛思想を有しないこの国の、本末転倒な国意なるものを見るが、多くの「沖縄問題」は実は、この国が本気で自国を防衛しようとしない怠慢とていたらくにこそ原因があるということになろう。
 その堕落の基軸たる日米安保が、所詮幻想的軍事同盟という実態にあり、外交上敗戦国と戦勝国の関係性によってのみ機能する、対米追随国家に成り下がったこの国の、いわばマザーコンプレクス状態を造り出しているといえる。
 そして日米安保堅持を金科玉条に、下手なその場しのぎの学級委員会を楽しんでいるこの国の馬鹿な知識人どもには、万死に値する理念的責任があろう、ということだ。(中断)


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