沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩631 沖縄を生きるということ、とは 5

2017年09月16日 08時56分46秒 | 政治論

 堀川恵子著「永山則夫」 封印された鑑定記録 2013年岩波書店

 「無知の涙」以下永山氏が著した作物を筆者は恐らく全く読んだことはない、恐らく、というのは記憶が曖昧で、読んだはずの印象もほとんどないからだ。ジャン・ジュネもフランソワ・ヴィヨンも刑法罰を受けながら文学的才能を開花させたヨーロッパの詩人作家だが、永山氏もまたある意味、そういった時代を超える才能を抱えた深刻な魂の生き方を示したのであろうか。

 生まれてより非情な運命は柔かいひだを成す彼の精神に殆ど何らの容赦もなく襲いかかってきた。石川精神科医の鑑定と録音テープは我々に、こうした運命に対する人間の強烈な無力感と、悲運に見舞われる者の完全な脱力感を伝える。そして彼に悲劇的に起こった4件の殺人という究極の行為は丁度「異邦人」のムルソーを連想させる不条理性に始る。「金欲しさ」も怨恨もそこになく、ただ殆ど偶然に立ち現れた排除すべき「敵」と見做された対象に彼は銃弾を浴びせる。但し明らかに殺すことが目的であり数発の銃弾(一発でなく)がその事実を立証する。そして警官と見誤った対象に第二の殺人が行われる。要は、ほぼ偶然に手にしてしまった拳銃と銃弾が、これまで彼を苦しめ不幸にして止まない彼の中にある弱さや無力感を躊躇いもなく撃ち殺したのだった。金貸しのばあさんを斧で抹殺したラスコリニコフのように(永山はそのとき偶然に「罪と罰」第一巻を読み終えていた)自らおのれの精神に手を下したということ。しかし、その後の二つの殺人に最早偶発性はなく、......

 堀川氏は永山事件の真相を永山の家庭問題や家族関係に究極させたが、その見方は皮相である。そこに極まると途端にどこか矮小化されたありきたりの虞犯性に堕す。確かに二つの殺人は「兄弟家族への当てつけ」という言い回しが適当するような印象を与える。(又故意に避けられているのか常識的な意味での社会問題性は一度も俎上に挙がってない)しかしそこに象徴されているのは誰かに対する憾みや憎しみ、愛憎半ばする複相心理よりも、それ以前の殺人によって恐らく完全に閉塞し終結した彼自身の生に対する決定的な自棄意思であろう。自殺行為としての殺人、あるいは死刑以外何も望まぬ者としての行為の最終決着。最近世間を騒がしている若者による無差別的動機なき殺害行為に通底する何かがある。

 彼らはその殺害行為によっておのれの生に決着を付けている。自ら社会やその常識を抹殺することで当の社会や常識の手で反対に抹殺されることを望むという、一種の他力本願、自殺より他殺を要求する奇妙な倒錯性、あるいは「甘え」。

 不図筆者は連想した。この安倍晋三一派やヒトラーナチスに見る野放図な右翼的思潮が持つ玉砕的似非美学には一種の他力依存性(米国頼み)、究極的「甘え」(恣意的な個人的野心)があり、自殺する勇気(敗戦国としての永遠的な武装放棄)がない代わりに他殺的環境造出に至る戦争誘発行為(北朝鮮、中国への異常な牽制)を旨とし、これらが「様々なる意匠」を凝らして今日本全体を一つの方向へ引きずって行っていると。

 つまりこれが永山事件の社会的問題性なのだ。



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