沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩578 日本国の現実 25 国政及び沖縄

2015年03月09日 22時47分59秒 | 政治論

 まる4年を経過しようという大震災と放射能被害の2011.3.11祈念日は目前に迫っている。その日2011年3月11日筆者の家族は10日前に沖縄移住を果たした義母(我々夫婦は既に2006年12月名護市の仮住まいに移住を終えていた)の、遅れてきた荷物の紐を解いて2日目を迎えていた。義母の残してきた自宅は福島県西白河郡矢吹町(震度6弱)にあって屋根瓦の落下やブロック塀の半壊、その他の屋内損壊被害に遭っていた(その年の6月に現地に行き不動産売買の契約をした)。しかし農協共済火災保険が地震保険を付帯していたため被害総額の全額がおりることとなり、義母にとって大震災の被害はほぼ皆無だったと言える。

 あの日筆者は今帰仁村の新居で、刻々伝わる震災の情報に文字通り「対岸の火事」状態で接していたのであろう。轟然たる巨大津波に呑み込まれ窒息死していった人たちが万を超えていたことを想像する。3月初めの海水は様々な塵埃を含みながら冷たい侵入者として被害者の肉体に致命的な機能不全を喚起していたはずだ。泥土と破壊された建造物の瓦礫の中に虚しく埋もれたそれを見ることは、如何に「対岸の火事」状態にあろうとも決して忘れることができない印象を残している。

 基地の島沖縄本島に来て、移住者として小さくない個人的経緯を辿りつつ筆者が身に受けた、おおきな世界のカラクリにまつわるとんでもない新情報は、あの震災生起とともに還暦後のふつつかな私的晩年になにかしら避けがたい、人生的で人間的な煩悶のようなものを付加した。

 今帰仁村(国頭郡今帰仁村)は本島北部、やんばる(山原)と呼ばれる地域の東シナ海に面したのどかな村落である。ここにはこれといった近接する米軍基地はない。ここから程遠からぬ伊江島という島にはオスプレイが離着陸訓練する飛行場がある(その元は米軍が戦後強引に接収した旧日本軍の飛行場とその周辺の民地だった)。そして現在この国とアメリカが新しく軍事基地を作ろうとしている辺野古崎は、ここから車で40分程度の太平洋側に存在するのだがそれもやはりこの村落に重大な影を落とすほどには近接しない。ここには琉球王府北山時代に王が居を構えた今帰仁城(ナキジングスク)という世界遺産(単独にでなく「琉球王国グスクと関連遺跡群」として)がある。筆者が沖縄県に物件としての土地を見出したころは未だ団塊の世代が定年前ということもあって周辺に新しい住宅が軒を連ねる、というような光景は殆ど見かけなかったのだが、最近は新築する家がそこかしこに見られ、いかにも都市化が進んでいる状況をみるようになり、環境の変化が齎す何らかの別種な感慨が生じ始めていることを認めないわけにはいかない。

 大きな世界のカラクリ、はあの震災でこの国が露呈したところから敷衍して、関連するかのように沖縄基地問題にも直結していった。福島第一原子力発電所における地震又は津波を因とする大爆発によるメルトダウンと放射能汚染、汚染水処理実態、核廃棄物処理能力の欠如、といった「カラクリ」の暴露は、当然国民にとって許しがたい状況の認知という「寝耳に水」であったし、その後のこの国の「再稼働」傾向は「あってはならぬ」政治的傾向であり、勿論一国の首相による「原発セールス」など気違い沙汰だったことについて誰しも異論はあるまい。

 そのカラクリはまさしく戦後政界のみならずこの国の命運自体を牛耳ってきた自民党系保守王国が構築したものであることは論を待たない。即ちこの政権党の本体と周辺乃至影響範囲の一切に関わる人群集団組織(政財官学)において形成し来った「原子力ムラ」こそ、あの原発カタストロフィーを生起した張本人だということが明るみに出たのだ。ところが、その後のこの国の歩みは大事故を教訓として方向づけられず、もう一度以前の体制に舞い戻ることに決しつつある。それはこうした体制の明らかな責任母体たる自民党他「原子力ムラ」に対する責任追及が全くなされないでしまった、ということが大きく原因している。このことは先の大戦に対する国民的コンセンサスが得られてないこととも関連する(安倍晋三の一連の言動にもこれが歴然として表れている)。

 久しくこの国の為政者乃至政権保持集団が、任を責める役割の完遂という実質から遠い在り様を示してきたのは、むしろ天皇制国家において、重大な責任所在の具体的結節点を有しない(天皇大権の神格化、非在化)性格によるものと思われ、従って戦後処理における天皇不訴追も日米間の司法取引的妥結を見て完成したわけだが、朝河貫一によればこれはむしろ日本国民族の民族的習性というものに由来するものらしい。

 欧米的価値観からはこうした日本民族の非論理性又は逆転論理性は決して評価されないものである。世界史上の近代化とは一方で市民レベルにおける合理的精神の確立だった。(つづく)

 

 

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。