沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩632 日米政府と沖縄の在り様 25

2018年05月19日 16時17分56秒 | 政治論

 「沖縄からは本土内地ヤマトゥの在り様がよく見える」とは言うが、だからと言ってこれを見る我々には少しも本土内地ヤマトゥの「良い物」は見えてこない。よく見えるかもしれないが何一つ「良い物」は見えない。一方移住者だから必然本土内地ヤマトゥを振り返って見るのだが、逆に言えば沖縄の人は本土内地ヤマトゥではなく、まさに沖縄をこそ見るわけで、自分とのこの違いはある意味決定的かもしれず、10年ほど沖縄にありながら何とも収まり具合の悪い内面生活が、続いているという実感だ。

 心のどこかには、此処、琉球沖縄は波路遥か遠い離島(空路なら2時間程度だが)であり、本土内地ヤマトゥと呼ばれるもう一つの日本国とは一線を画した、南国の人々の自由な精神の動きが何となく予感され、其処に我知らず安心立命する自分がいるともいえる。この安心立命なる精神状態というのは、本土内地ヤマトゥに対する移住者の、最早二度と取り返せない絶望感が然らしめているのだとも思われる。

 さてその本土内地ヤマトゥに対する絶望感だが、一つには、本土内地ヤマトゥ自体へのそれと、もう一つは、琉球沖縄において本土内地ヤマトゥが然らしめるそれとがあり、両すくみでジワリ、のそりと浸みだし、移住者の収まり具合の悪い内面生活をいよいよ故知らず苦しめる。自分はウチナンチュか、それともナイチャ(クサリナイチャ)か、この宙ぶらりんな立ち位置を何とか持ち堪えながら、錯綜し交錯する言葉の綾取りに筋を付けようと奮闘する毎日だ。

 沖縄から見ると、国と対等に物申せない境遇!が人々の気持ちを萎えさせ、同時に宗主国日本?が植民地琉球沖縄を圧政的に支配しているという構図がはっきりと見えてくる。そしてこれはこの国の現代世界理念上の(国民自身を含めた)国家的犯罪実質であり、如何に誤魔化しても、如何に(不公平不平等な基地負担に関し)「これからもご負担をおかけします」と心にもなくぬけぬけと言われても、冗談じゃないと反発する気持ちだけがわじわじいとしてついて回る。移住者である筆者は、元本土の住人としての自分の中の偽善性に突き戻される。在沖だから免罪されるとも思えない。これ(本土内地ヤマトゥの日本国民にとって)は、確かに何気なくある、どう見ても「未必の故意」的な犯罪だ。しかし、恐らくは、未だに安倍内閣支持率3割を下回らない本土内地ヤマトゥの在り様を遠望するかぎり、沖縄から何を言い募っても何の効果もないことは最早はっきりしている。そしてそのことは、この国の終わったことを何となく予感させる。

 この国の終わりは「民主制」の終わりだが、かといって所謂「国家主義」が正当にその地位を占め始めた、ということではない。この「国家主義」が正当に自己主張しようというならまず第一に「国家」の自在性、自律的稼働、正確には国家の独立性を確保しなければならない。我々の常識は、この国が主にアメリカ合衆国に拠ってそのほぼ全ての国家的機能を稼働してきた、ということを認める。その初めは吉田ドクトリン(軽負担経済第一主義)であり、日本国憲法に違背する逆コースの選択、だった。当然占領下の日本は「民主化」を目指し、米国主導で国家を再編する方向へ舵を切ったが、講和発効、高度経済成長とその反動のバブル崩壊、そして冷戦構造の終結、という時代変移の中で、変わることなくこのアメリカ依存を持続する施策に血道を上げた。つまり、国家の独立性は、アメリカに従うことでしか機能しない、稼働しない実質をその身に固定した。自民改憲草案の「似非国家主義」とか安倍晋三一派の「普通の国」目途は、残念ながら何の意味もない空威張りに過ぎない。独立性がない国に、国民が納得する「国家主義」あるいは「全体主義」がその道筋をつける論理的必然はないのである。

 安倍一派は明らかにこの国を駄目にする全体主義の走りであるブルジョア「モップ」にすぎず、その狂奔的政治は一切をクズ同然の無価値なものに貶める。それを眺める我々は、この国が負った対米従属の枷を思い、抜け出しがたい軛として、ついにズタボロの日本を憂えながら拱手傍観するのみだ。琉球は独立すべきであろう。というより、静かに袂を分かつのがよい。滅び行く国に相携えて共倒れすることはない。(つづく)

 

 

 

 

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。