沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩438 危うい日本

2013年08月20日 06時45分40秒 | 政治論

 何故安倍晋三は敗戦の日に、これまでになかった「アジアへの配慮」を欠く式辞をわざわざ述べたか、答えは一目瞭然なのだが、実を言えばこのことはその肝心のアジアが騒ぐほど意味深いものはないし、彼がその日靖国参拝を避けたことも取ってつけたつまらない理由に拠っていることは誰でも知っている。

 我々はそこに、この国の保守の牙城が戦前の体質そのままに、敗戦の痛手も一過性の災難に受け止められ、何らの悔いもない戦後をどうにか生き延びてきた政治的鵺(ぬえ)たちの、「小手先」民主主義を垣間見るわけだ。

 彼らの度し難い、根本的な歴史的誤謬はここに披瀝するまでもないが、彼らが鎮座する舞台には我々もともすれば安易に相乗りしているわけで、彼らが自ら安全弁を彼ら自身のためにのみ用意し、一方適当な所で容易に籠絡されている大衆は、己の拠って来る安全保障を喪失した状態で天災人災に見舞われ国に捨てられ、路頭に迷い、又適当な所で籠絡されもとの木阿弥に舞い戻る繰り返しを戦後ずっとしてきたのだった。

 見よ、あの大震災あの原発事故こそこの国を根本的に見直す絶好の機会と目論んだのは全くの空手形であった。これもまたあの敗戦同様に実に一過性そのものの、あと数百年はまずないだろうと踏んだ彼らの「何事もなかったかのように」済ますべき一事件にすぎなかった。

 ここに彼らの、彼ら自身見落としている重大な歴史的誤謬がある。彼らが現状を維持し同時に復古的戦前回帰をするということは、「リセット」という意味では有り得ないことでもないが、たまさか単純すぎる国家基準の執行(それが戦後の日本が寄りかかった柱である)ということならば結局同じことの繰り返し、同じ過ちの再現にしかならないだろう。そこに大衆がいない国家第一主義なるものが、世界史上にすんなり通用させられるには官民打ち揃って発狂でもするしかないって話だ。(つづく)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。