「常識」と「非常識」の境は実は極めて微妙な線上にあると思われるが、かつてcommon sense(米国トマス・ペインの造語)のプロパガンダが目指したのは、人々の中で一般に共通する感覚、感じ方、考え方においてある理念的傾向に対する、一つの判断材料となる指針呈示、これの示唆であった。つまりは、ある意味現実には元々少数派であるしかない微妙な理念的定見を現実に効果的に生かすためには、現象的に逆の価値観が旺盛を極めるときこれに抗して人々の中の共通的意識をはっきりと覚醒させ言語化することでしか可能とならない、ということでもあろう。
社会によって常識は異なるため、ある社会の常識が他の社会の非常識となることも珍しくない。これは文化摩擦などとして表面化することもある(Wikipedia)
沖縄では、主に沖縄戦の体験を強烈な心的動機、教訓として(非武の邦という文化的伝統も加味される)、非戦、避戦、厭戦、反戦、反軍を、まさに常識的に、つまりは県民共通のコモンセンスとして持っていると確実に言える。この事実は公的には選挙結果や世論調査上に数値的に証明されている。特に本土内地のそれと、傾向として画然と差別される事実だ(例えば日米安保について沖縄は8割が否定的である一方、本土内地では逆に過半が肯定的だ)。
しかしながらこの国のコモンセンスが核武装・国軍創成・軍拡・同盟軍加担といった安倍の積極的軍国主義の方に何気に向いているとは到底思えない。多くは9条が代表する平和憲法による非戦状態をよしとしている、と我々は何となく理解している(だから安倍の改憲、国民投票は決して意のごとくは成就し得ないだろう、つまりは国会は無駄な論議に国税を費消する方向へ行こうとしている)。それが戦後72年を経過し、馴化し常識化した国民感情、感性、と理解している。つまり、非戦、避戦、厭戦、反戦、反軍という沖縄常識は、プロパガンダとしては本土内地の日本人の中のこの微妙な常識を覚醒させ、沖縄に倣って非戦、避戦、厭戦、反戦、反軍を言語化させるべく働きかける、という位置にある。
トマス・ペインのプロパガンダはアメリカ植民地独立運動(イギリス本国からの)のためのものであり、当然ながら沖縄の場合もこうしたなんらかの全国的糾合を目指すことになる。そのとき最も卑近な明確な対象として辺野古新基地建設反対の市民運動のことがある。そのほか、オスプレイ、嘉手納普天間爆音訴訟や米軍属沖縄婦女強姦殺人死体遺棄事件など、明らかに沖縄を苦しめている米軍基地問題がある。つまりは全国民的に望まれる常識こそこの米軍基地に関する沖縄常識であり、その全国化がプロパガンダの対象常識となる。
ここで明確な指針というのは「沖縄独立闘争」のことであろうか。しかし独立の事まで行くとこの常識は沖縄だけに留まって全国化しないのはわかりきったことだ。現在辺野古で沖縄が闘う相手は沖縄防衛局なのだが、実質的には座り込み抗議する市民をほぼ力づくで排除する機動隊との、あるいは海上活動の市民を乱暴に排除する海保との闘いである。つまり工事当事者の前に立ちはだかって工事を遅らせ、監視座り込み抗議活動によって目に見えないプレッシャーをかけ、彼等の作業内時間を市民側に奪取し(工事を直接的に止められるわけではないが)、現場で起こる種々の問題を拡大拡散し偏在化させ全国区とし世界化する、結果的に国に工事現場から退散させる、といったところであろう。
だがその闘いは極めてなし崩しに市民側が不利な弱体性を強いられている。県の行政さえ手続き上の体制加担を止むなくさせられているし、現場では「承認撤回」に踏み切らない県知事の態度に業を煮やしている。大方の見方は機動隊や海保の在り方に不当性、不法性を論うのだが、現行安倍政権下、よく言われるのが「ヒラメ裁判官」や三権非分立状態のことだ。県民国民の味方であるべき司法がその任にないという、極めて非常識な国家権力実態にあるわけだ。だが被害感情が希薄な本土内地の日本人にこの非常識は何気に看過される。今次衆議院選結果にはこうした日本国民の奇怪な性格が安倍再選という愚にもつかぬていたらくを示した。我々は唖然として開いた口が塞がらない。
この辺野古の新基地が沖縄常識(非戦、避戦、厭戦、反戦、反軍)に完全に敵対する許容し得ない軍拡行為だということは間違いないのだが、かかる非常識を強行する日本の国家政府あるいは米国政府というのは一体何を牙城にこれができるのか、だ。そこに、その背後の国民の無知、無関心、「対岸の火事」視、が大いに関係しているのは常識的に見て取れよう。(つづく)