卑弥呼、邪馬台国の痕跡が見つかっていない。
3世紀後半に築造されたとみられる箸墓古墳(奈良県桜井市)が卑弥呼の墓だとするが、卑弥呼の没年の時期に重なるというだけで何の証拠もない。
記紀にも他の歴史書にも記載はない。
「魏志倭人伝」について、邪馬台国の九州説、畿内説と議論はされていたが、「魏志倭人伝」を額面通り信用していたわけではないだろう。
ところが、日本の歴史に主役として登場するのは、敗戦後、GHQによって「記紀の神話」が教科書の検閲によって排除されてからである。
戦後の歴史家が「魏志倭人伝」の卑弥呼/邪馬台国に飛びついた格好である。
学者も人の子、「記紀の神話は作り話」と偉い先生が唱えると片方の「支那の話」が本当の歴史になる。
逆に「支那の話は作り話」と偉い先生が宣うと、「記紀の神話」が本当のことになるのかも。
仮に卑弥呼/邪馬台国が事実だったとして、九州の一部の国々を代表して朝鮮半島の支那の出先に朝貢していたかもしれないが、いまだに痕跡が見つかっていないというところをみると、地方の有力な勢力だったにすぎず、わが国の歴史に影響を及ぼすほどの存在ではなかったのだろう。
一方、神話は単なる創作ではなく、事実に結び付いている歴史か。
「国譲り」に関連する事実らしきものが次々に出雲から出土している。
●荒神谷遺跡(こうじんだに)では、昭和59-昭和60年の発掘調査で、弥生時代の銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。
●近くの加茂岩倉遺跡では平成8年、39口の弥生時代の銅鐸が出土した。
●平成12年、巨大な柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘された。古代社殿の柱ではなかったが、過去に何度も倒壊した記録もあり、16丈説(高さ48メートル)を想像させる。
神話は神々の物語である。
わが国では、神々は人々である。
祖先の人々の物語である。
誰が全くの作り話を延々と子子孫孫に伝えようとするだろうか。
3世紀後半に築造されたとみられる箸墓古墳(奈良県桜井市)が卑弥呼の墓だとするが、卑弥呼の没年の時期に重なるというだけで何の証拠もない。
記紀にも他の歴史書にも記載はない。
「魏志倭人伝」について、邪馬台国の九州説、畿内説と議論はされていたが、「魏志倭人伝」を額面通り信用していたわけではないだろう。
ところが、日本の歴史に主役として登場するのは、敗戦後、GHQによって「記紀の神話」が教科書の検閲によって排除されてからである。
戦後の歴史家が「魏志倭人伝」の卑弥呼/邪馬台国に飛びついた格好である。
学者も人の子、「記紀の神話は作り話」と偉い先生が唱えると片方の「支那の話」が本当の歴史になる。
逆に「支那の話は作り話」と偉い先生が宣うと、「記紀の神話」が本当のことになるのかも。
仮に卑弥呼/邪馬台国が事実だったとして、九州の一部の国々を代表して朝鮮半島の支那の出先に朝貢していたかもしれないが、いまだに痕跡が見つかっていないというところをみると、地方の有力な勢力だったにすぎず、わが国の歴史に影響を及ぼすほどの存在ではなかったのだろう。
一方、神話は単なる創作ではなく、事実に結び付いている歴史か。
「国譲り」に関連する事実らしきものが次々に出雲から出土している。
●荒神谷遺跡(こうじんだに)では、昭和59-昭和60年の発掘調査で、弥生時代の銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。
●近くの加茂岩倉遺跡では平成8年、39口の弥生時代の銅鐸が出土した。
●平成12年、巨大な柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘された。古代社殿の柱ではなかったが、過去に何度も倒壊した記録もあり、16丈説(高さ48メートル)を想像させる。
神話は神々の物語である。
わが国では、神々は人々である。
祖先の人々の物語である。
誰が全くの作り話を延々と子子孫孫に伝えようとするだろうか。