犀川の河川整備を考える会

犀川の辰巳ダム建設を契機に河川整備を考え、公共土木事業のあり方について問題提起をするブログ。

【能登半島地震】能登半島地震災害で受けた支援を振り返る(その1)

2024年09月04日 | 能登半島地震
 能登半島地震発生から8カ月。
 テレビ、新聞などの報道では、復旧が遅々としていることが報じられていることが多い。
 そして、「国は何もしてくれない、」などと不満を述べる被災者の声が大きく載せられている。
 マスコミは、批判することが役割と認識しているらしく、どうしても結論が「社会が悪い、国が悪い、○○が悪い、、、」となりがちのようだ。
 当方の経験から、これまでの経緯の一端を振り返ってみることにした。

 令和六年元旦の午後4時過ぎ。
 能登半島の先端、珠洲市を震源とする地震が発生。
 それから、1年の3分の2が過ぎた。
 いろいろな方々から支援を受けた。

 七十有余年の人生でいまだかって経験したことのない揺れにおそわれた(震度6強)。
 揺れは一分ほども続いたろうか。
 それまで、地震の揺れは無数に経験していたが、大体は数秒のことだ。
 グラグラときて、何事だと驚く間もなく収まる。
 ところが、今度は揺れが続き、棚のものはガサガサ落ちる、何なんだと驚くばかり、そのうちおさまった。
 二人でお茶を飲みくつろいでいた時で幸い、家内もケガはなかったが、周りは散乱したもので足の踏み場もない状態、茫然自失。

 幸い、建屋は壊れず、一部損壊あるいは準半壊といったところだった。
 だが、電気も途絶え、通信も不通(デジタル電話は不通、わが家のアナログ電話は生きていた!)で一週間ほどは原始生活。
 正月用に用意していたので食料はあった、炊事は薪ストーブ、山の水が水源の水道、下水道は使えなかったが、山野の一軒家なので野糞。
 地震直後は、道路も寸断、状況もわからず、安易に動くのは危険と、とにかく身の回りの片付けだけ、冬で日が短いので片付けも進まない。

 そのうち、金沢の娘夫婦が心配して、金沢で避難場所を見つけてくれたので、被災地の社会インフラ(電気、インターネット通信、生活道路など)が仮復旧するまで避難することにした。
 被災後の1週間後の1月6日、平生は、2時間程度でたどり着くところを4時間半ほどかかって、無償で提供された住宅(仮設みなし住宅か)へ移動。
 約2カ月間、金沢で避難生活を送った。(つづく)

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