犀川の河川整備を考える会

犀川の辰巳ダム建設を契機に河川整備を考え、公共土木事業のあり方について問題提起をするブログ。

【日々是好日なり】自由、平等、民主主義の受け取り方もいろいろ(その1)

2022年09月03日 | 日々是好日なり
 戦後、アメリカ様の価値観を強制されて日本国民はあたふたし、いまだに至るところで混乱している。
 身近なところでは。

 村の集まりで、各家庭、一律の負担金千円でなくて、老人一人家庭は無料にしたらという提案に対して、「平等でない。みんなから千円集めるべきだ」という意見が通り、一律千円あつめることにしたそうだ。
 →「平等」は単に同じにするという意味ではない。各家庭の経済的負担能力も勘案することは、相互扶助ということであり、徴収金額が違っても「平等」の概念に反しない。

 ある家庭の話。お母さんが家族みんなに「ニンジンが嫌いな長女にあわせてみんなニンジンなしカレーを食べるのが平等よ」といって夕食は「ニンジン無しカレーライス」になった。
 ニンジン無しカレーが食べたかった次女は、
「ニンジンが嫌ならニンジンをよけ食べればいいし、好きな人はニンジンカレーを食べれるのが、平等でないの」と抗弁して母親に嫌がられた。
 →長女の御機嫌取りに「平等」を言い訳にされただけ。カレーにニンジンが入れようが入れまいが「平等」に無関係で、全員に食事を提供することは、一応「平等」かな。こんな場面で「平等」なんていわれるとオチオチカレーが喉を通らない。

 銭湯で周りの迷惑もかえりみず、「我が子を泳がせるのは自由だ」とのたまう親がいる。
 →湯舟で泳ぐことに、国民の自由権を主張されてルソーもびっくりだろう。

 など。もう少し、考えてみよう。 
 フランス革命やアメリカ独立からの概念で、おおきみ/おおみたからの日本では、もともと必要ない概念ではないとも思うが。
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