(新基準でカバー率の概念を消去したのも問題だ!)
もともと、カバー率の名称がよくなかった。2つの考え方が含まれていたが、一方の考え方だけを表現しているとされたからである。
旧基準(p.16)では、基本高水の決定の項で「カバー率」について、
①統計上の科学的要素(「ハイドログラフ群の中から、中位数以上のもの」)と
②他河川との比較上の社会的要素(「ハイドログラフ群の中のどの程度を充足するかを示す割合」がある。
新基準では、②の要素だけと断定して、①の要素は無視しているが、旧基準の「基本高水決定の手法」の項でカバー率50%値の記載があり、決定のための目安にしていたことは明白である。辰巳ダム裁判のS証人も「カバー率50%の値が統計上の中央値を意味していることについて異論はありません」(乙214号証、佐合証言p.34)と述べている。
前者は、科学的な合理性のもとに一義的に決められるものである。後者は、全国の河川の整備を同等なレベルにするために財政的な見地から裁量で決まるといえるもので一義的に決められるものではない。一義的にきめづらい要素を基準から消去したということである。このため、全国的な水準を揃えるという社会的要素を考慮する部分がなくなってしまった。
上記の意義から、カバー率という考え方は2つの要素を明確に区分して残しておくべきだった。いずれにせよ、名称がよくなかったかもしれない。カバーできないところが残る、カバー率50%は半分だけしかカバーできない、となる。科学的要素と社会的要素がごっちゃになっている。科学的要素としては、カバー率50%値は求める真値であるのに対して、社会的要素としてのカバー率50%値は求める真値ではない。カバーできないという社会的要素で科学的要素を駆逐する。
たどり着いた結論が、「全ハイドログラフ群のピーク流量をどの程度充足しているかを結果として算出しているもので大して意味無い指標だというものどころか、誤った指標だ。」であり、「カバー率50%値であれば、半分がカバーできない危険な計画になる。」である。
(カバー率50%値は半分はカバーできない危険な計画か)
「平均値を取る方法」は、別の言い方では、カバー率50%値で決めることであるが、この方法は、半分はカバーできない危険な計画になると指摘するのである。
辰巳ダム裁判の証人S氏はつぎのように証言する。
「カバー率50%値により基本高水ピーク流量を決定することについて合理的な考え方であるとは思いません。それどころか、このような考え方により、基本高水ピーク流量を決定すると、流域住民の暮らしや安全を確保できない危険性すら内包することになります。」(乙214号証、陳述書p.32-35)
S証人の考え方が採用されて、辰巳ダム裁判の判決では、「カバー率50パーセントの数値を基本高水ピーク流量に選定すると、確率分布モデルによる合理的推論に基づき、生起可能性が認められた降雨波形の半数を考慮せずに河川計画等が策定されることとなり、安全な河川計画等の策定に支障を来す可能性があるといわざるを得ない。」(p.115-116)となった。
しかし、カバー率50%値の確率水文量の超過確率が1/100であり、カバー率100%値のそれが1/500とすれば、カバー率50%値がカバー率100%値よりも危険な計画であるという当たり前のことをいっているにすぎない。
別の言い方をすると、計画規模が1/100であれば、1/100を超える洪水をカバーできない計画であると言っているにすぎない、「危険な計画」であるかどうかは、相対的な判断で、1/100は1/50よりは安全で、1/200よりは危険ということにすぎない。
もともと、カバー率の名称がよくなかった。2つの考え方が含まれていたが、一方の考え方だけを表現しているとされたからである。
旧基準(p.16)では、基本高水の決定の項で「カバー率」について、
①統計上の科学的要素(「ハイドログラフ群の中から、中位数以上のもの」)と
②他河川との比較上の社会的要素(「ハイドログラフ群の中のどの程度を充足するかを示す割合」がある。
新基準では、②の要素だけと断定して、①の要素は無視しているが、旧基準の「基本高水決定の手法」の項でカバー率50%値の記載があり、決定のための目安にしていたことは明白である。辰巳ダム裁判のS証人も「カバー率50%の値が統計上の中央値を意味していることについて異論はありません」(乙214号証、佐合証言p.34)と述べている。
前者は、科学的な合理性のもとに一義的に決められるものである。後者は、全国の河川の整備を同等なレベルにするために財政的な見地から裁量で決まるといえるもので一義的に決められるものではない。一義的にきめづらい要素を基準から消去したということである。このため、全国的な水準を揃えるという社会的要素を考慮する部分がなくなってしまった。
上記の意義から、カバー率という考え方は2つの要素を明確に区分して残しておくべきだった。いずれにせよ、名称がよくなかったかもしれない。カバーできないところが残る、カバー率50%は半分だけしかカバーできない、となる。科学的要素と社会的要素がごっちゃになっている。科学的要素としては、カバー率50%値は求める真値であるのに対して、社会的要素としてのカバー率50%値は求める真値ではない。カバーできないという社会的要素で科学的要素を駆逐する。
たどり着いた結論が、「全ハイドログラフ群のピーク流量をどの程度充足しているかを結果として算出しているもので大して意味無い指標だというものどころか、誤った指標だ。」であり、「カバー率50%値であれば、半分がカバーできない危険な計画になる。」である。
(カバー率50%値は半分はカバーできない危険な計画か)
「平均値を取る方法」は、別の言い方では、カバー率50%値で決めることであるが、この方法は、半分はカバーできない危険な計画になると指摘するのである。
辰巳ダム裁判の証人S氏はつぎのように証言する。
「カバー率50%値により基本高水ピーク流量を決定することについて合理的な考え方であるとは思いません。それどころか、このような考え方により、基本高水ピーク流量を決定すると、流域住民の暮らしや安全を確保できない危険性すら内包することになります。」(乙214号証、陳述書p.32-35)
S証人の考え方が採用されて、辰巳ダム裁判の判決では、「カバー率50パーセントの数値を基本高水ピーク流量に選定すると、確率分布モデルによる合理的推論に基づき、生起可能性が認められた降雨波形の半数を考慮せずに河川計画等が策定されることとなり、安全な河川計画等の策定に支障を来す可能性があるといわざるを得ない。」(p.115-116)となった。
しかし、カバー率50%値の確率水文量の超過確率が1/100であり、カバー率100%値のそれが1/500とすれば、カバー率50%値がカバー率100%値よりも危険な計画であるという当たり前のことをいっているにすぎない。
別の言い方をすると、計画規模が1/100であれば、1/100を超える洪水をカバーできない計画であると言っているにすぎない、「危険な計画」であるかどうかは、相対的な判断で、1/100は1/50よりは安全で、1/200よりは危険ということにすぎない。