平成25年4月5日、金沢地方裁判所において、浅野川水害被害住民70名(吉島聖和原告団長、中村正紀弁護団長)が石川県と金沢市に対して、損害賠償を求めた訴訟の裁決がなされた。2009年に提訴して、4年あまりで和解が成立した。同様の水害裁判では、画期的な早さでなされたという。
浅野川水害は、2008年7月28日早朝5時から8時にかけて、浅野川上流で3時間251ミリメートルの記録的な豪雨が発生し、浅野川流域で約2000棟の浸水家屋被害があった。昭和28年(1953)にも同じような洪水氾濫があったが、それ以来、55年ぶりのことであった。
コンクリート堤防の切れ目を塞ぐ石川県の対応が遅れたり、金沢市が管理する水門を閉めなかった支流から逆流したりするなど、管理責任を果たしていないという理由で、石川県と金沢市に対して、1億6900万円の損害賠償請求したものである。
石川県は、「未曾有の自然災害で予見できなかった。」、金沢市は、「水門を操作するのは危険で不可能だった。」などと、それぞれの責任を否定した。
これに対して、金沢地方裁判所(源孝治裁判長)の判断は、記録的な集中豪雨で発生したとし、行政側の過失は明示せず、今後の治水対策に万全を期するようにとの付記がなされただけで、責任は問われていない。しかし、実害を1億2000万円と認定、和解金4700万円(石川県3500万円、金沢市1200万円)支払いの裁決をした。実質的には、住民の訴えを妥当と認めた裁決であり、両方の面子をたてた大岡裁きというところだろう。
金沢市長は、「訴訟の早期解決を望んでいた。水害の教訓を踏まえ、災害対策に万全を期していく。」と述べた。石川県知事は、「経験のない記録的な豪雨水害が原因だったという県の主張が認められた。今後も治水対策に努める。」と語った。
原告や弁護団は、「和解という決着だが、実質原告勝訴だ。責任は認めなかったが、実害の約4割の賠償金額であるので実質、責任は認めたということだ。」と話した。
過失は明らかなので、当初から人災ということ明白だった。ほとんどの水害裁判では、管理者の責任は問われず、住民敗訴となることが多いので、今回のような常識的には明らかな人災に対して、裁判所がどのような判断をくだすか、関心が集まった。
これまでの裁判所の一つの判断は、計画高水位(想定した洪水の水位)の超えない時に起きた水害は管理者の責任、これを超える水位で水害が起きた場合は管理者の責任は問わない、である。
懸案の浅野川中流の計画高水位は、コンクリート堤防(約1m)を取り除いた高さである。上記の判断からすると、水門から逆流した洪水に関しては高水水位以下の地域の水害に対しては管理者責任が問われる。一方、コンクリート堤防の切れ目からの洪水に対しては責任を問われないことになる。このことも大きな判断の目安となっているはずであり、裁決で行政側の過失を明示できなかった理由だろう。
裁判では、明確な争点とはなっていないだろうが、犀川の河川管理者である石川県の明らかな過失がある。昭和28年の洪水を契機に浅野川治水の抜本的な対策がなされ、内川ダムと浅野川放水路のセットで昭和49年度(1974)に完成している。2008水害の34年前である。浅野川洪水対策の切り札である。この切り札を切り損なったのである。浅野川放水路の水門を全開けておけば、訴訟住民の沿川では計画高水位を超えることはなく、被害は発生しなかったのである。
水門を半開にしていた最大の理由は、辰巳ダム建設(2012年完成)である。辰巳ダムが完成して犀川の整備が完了しないと犀川に負担をかけることはできない、浅野川の洪水を浅野川放水路を通じて犀川に放流できないという理由である。犀川流域住民を人質にして浅野川放水路の水門を半開にしていたのである。内川ダムと浅野川放水路を建設した時点では、浅野川の負担は内川ダム建設で解消されていたのであるから、水門を全開しても犀川への負担はゼロだったので、昭和49年時点で浅野川放水路の水門を全開するべきであったのである。
この行政判断の誤りは闇に葬られ、あたかも管理者の責任はないという主張を続けてきた石川県であるが、負い目があるのは間違いない。この裁決を受け入れたこともそのことを立証しているのではないだろうか。
浅野川水害は、2008年7月28日早朝5時から8時にかけて、浅野川上流で3時間251ミリメートルの記録的な豪雨が発生し、浅野川流域で約2000棟の浸水家屋被害があった。昭和28年(1953)にも同じような洪水氾濫があったが、それ以来、55年ぶりのことであった。
コンクリート堤防の切れ目を塞ぐ石川県の対応が遅れたり、金沢市が管理する水門を閉めなかった支流から逆流したりするなど、管理責任を果たしていないという理由で、石川県と金沢市に対して、1億6900万円の損害賠償請求したものである。
石川県は、「未曾有の自然災害で予見できなかった。」、金沢市は、「水門を操作するのは危険で不可能だった。」などと、それぞれの責任を否定した。
これに対して、金沢地方裁判所(源孝治裁判長)の判断は、記録的な集中豪雨で発生したとし、行政側の過失は明示せず、今後の治水対策に万全を期するようにとの付記がなされただけで、責任は問われていない。しかし、実害を1億2000万円と認定、和解金4700万円(石川県3500万円、金沢市1200万円)支払いの裁決をした。実質的には、住民の訴えを妥当と認めた裁決であり、両方の面子をたてた大岡裁きというところだろう。
金沢市長は、「訴訟の早期解決を望んでいた。水害の教訓を踏まえ、災害対策に万全を期していく。」と述べた。石川県知事は、「経験のない記録的な豪雨水害が原因だったという県の主張が認められた。今後も治水対策に努める。」と語った。
原告や弁護団は、「和解という決着だが、実質原告勝訴だ。責任は認めなかったが、実害の約4割の賠償金額であるので実質、責任は認めたということだ。」と話した。
過失は明らかなので、当初から人災ということ明白だった。ほとんどの水害裁判では、管理者の責任は問われず、住民敗訴となることが多いので、今回のような常識的には明らかな人災に対して、裁判所がどのような判断をくだすか、関心が集まった。
これまでの裁判所の一つの判断は、計画高水位(想定した洪水の水位)の超えない時に起きた水害は管理者の責任、これを超える水位で水害が起きた場合は管理者の責任は問わない、である。
懸案の浅野川中流の計画高水位は、コンクリート堤防(約1m)を取り除いた高さである。上記の判断からすると、水門から逆流した洪水に関しては高水水位以下の地域の水害に対しては管理者責任が問われる。一方、コンクリート堤防の切れ目からの洪水に対しては責任を問われないことになる。このことも大きな判断の目安となっているはずであり、裁決で行政側の過失を明示できなかった理由だろう。
裁判では、明確な争点とはなっていないだろうが、犀川の河川管理者である石川県の明らかな過失がある。昭和28年の洪水を契機に浅野川治水の抜本的な対策がなされ、内川ダムと浅野川放水路のセットで昭和49年度(1974)に完成している。2008水害の34年前である。浅野川洪水対策の切り札である。この切り札を切り損なったのである。浅野川放水路の水門を全開けておけば、訴訟住民の沿川では計画高水位を超えることはなく、被害は発生しなかったのである。
水門を半開にしていた最大の理由は、辰巳ダム建設(2012年完成)である。辰巳ダムが完成して犀川の整備が完了しないと犀川に負担をかけることはできない、浅野川の洪水を浅野川放水路を通じて犀川に放流できないという理由である。犀川流域住民を人質にして浅野川放水路の水門を半開にしていたのである。内川ダムと浅野川放水路を建設した時点では、浅野川の負担は内川ダム建設で解消されていたのであるから、水門を全開しても犀川への負担はゼロだったので、昭和49年時点で浅野川放水路の水門を全開するべきであったのである。
この行政判断の誤りは闇に葬られ、あたかも管理者の責任はないという主張を続けてきた石川県であるが、負い目があるのは間違いない。この裁決を受け入れたこともそのことを立証しているのではないだろうか。