【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

HG

2012-03-20 18:04:19 | Weblog

 「H・G・ウェルズ」の「H・G・」って何の略か、考えたことがあります?(実は私はありませんでした)

【ただいま読書中】『白壁の緑の扉』H・G・ウェルズ 著、 J・L・ボルヘス編纂・序文、小野寺健 訳、 国書刊行会、1988年、1800円

目次:「白壁の緑の扉」「プラットナー先生奇譚」「亡きエルヴシャム氏の物語」「水晶の卵」「魔法屋」
 「白壁の緑の扉」……5歳の時に特別な扉を通ったら、そこは不思議な幸福感に満ちた「庭」だった、というウォーレスの思い出話を聞かされた友人の語りです。学業優秀で出世街道を驀進して国会議員から閣僚にまでなったウォーレスですが、人生の節目節目になぜか「白壁の緑の扉」の前を出会います。そのたびにその内部に(幸福感に)憧れを感じ扉に手をかけたいと思うのですが、時間や名誉に追われて通りすぎてしまいます。功成り名を遂げて、しかし満足感のない人生。ウォーレスは「扉」を求めて夜の町を徘徊することになってしまいます。そして……
 「扉」は一つのシンボルでしょう。人生の選択、もしかしたらあり得たかもしれない多重宇宙、壺中の天地。「灰色の現実」の中で成功しているからこそ「扉の向こう」に憧れを感じてしまうのは皮肉です。しかし、そうやって“揺れる”のも、また人間なんですよね。
 「プラットナー先生奇譚」……「人体は左右対称ではない」を元ネタとした短編です。いや、それだけの話なんですけど、奇怪な読後感に襲われます。ここでは著者本人の教師体験が生かされていますね。
 「亡きエルヴシャム氏の物語」……これは……何を書いてもネタバレになりそうです。老人と若者に関する怪談、と言ったらいいかな。それもとっても皮肉な味付けの。
 「水晶の卵」……こちらには当時の光学の知識が生かされています。剥製や骨董を扱うケイヴ氏が大切にしていた“売り物”の水晶の卵、それは不思議な光を発していました。それをある角度から見ると、不思議な風景が見えます。地球とは違う風景が。ただし、夜空の星座は同じですから、おそらく太陽系のどこかです。おや、小さな月が二つ。……ここは、火星? するとそこで動いているのは……火星人?
 「魔法屋」……いや、英語だと看板はふつうに「Magic Shop」なんでしょうね。しかしそのお店の中では……この不思議とユーモアと恐怖感の混淆を読んでいて、私はブラッドベリのテイストを思い出していました。

 自分の人生の断片や当時の科学の最先端の知見など、「一つの材料」を上手に“料理”して“美味しい”短編に仕上げてあります。タイムマシンや透明人間とはちょっと違ったテイストを味わいたい人には、お勧めします。



電池の交換

2012-03-19 19:03:00 | Weblog

 もう4年目に入っているMacBook(現在家内の専用機)が突然シャットダウンしました。あれ?と思って調べると、裏側が一部不自然に膨れています。アップルのサービスに電話して相談すると、電池が膨れたのだろう、とのことで、外してみると確かに中央部が端よりも3mmくらい分厚くなっています。ソニーの場合には“ソニータイマー”が切れたら形は変わらずに突然パソコンの電池が死にましたが、アップルの場合は頑張って頑張ってから死んだ、ということのようです。
 古いしもう買い換えようか、でも予算がぁ、と思っていると、新品の電池は約9000円。面白いのは、「リサイクル」なので、新品を持って行くヤマト運輸に古い電池を渡してくれ、とのこと。それではお願いします、と言ったら、23時間後にはもう持ってきてくれました。箱から新品を出して、それに古い電池を入れて託します。で、MacBookに電池を入れて充電をしたら、まるで何もなかったかのように立ち上がりました。
 そういえば私の愛機MacBookProももう3年目だ、と思って本体をひっくり返してみました。あらら、MacBookはコイン一枚でバッテリー交換ができるようになっていましたが、Proの方は底面がのぺっとしていて簡単には交換ができる雰囲気ではありません。これだと電池が膨らんでもわからないなあ。交換も素人には難しそう。壊れないことをひたすら祈ることにします。

【ただいま読書中】『ダンケルクの奇跡』A・J・バーカー 著、 小城正 訳、 早川書房、1980年、1600円

 ポーランド侵攻に続いて、ヒトラーはベルギーとオランダに奇襲をかけました。連合国もその攻撃は想定していて計画通りすぐに反撃に出ますが、ベルギー奥を目指して急ぎ北上する連合国軍の背後に大きな空隙が生じてしまいました。実は北は“おとり”で、ドイツ軍主力は“突破不能”のアルデンヌの森を抜け“通過不能”なミューズ川を越えてその“オープンスペース”に突然登場したのです。打ち破られた連合国軍は全線にわたって後退します。情報が錯綜し、軍集団司令部は矛盾した命令を次々出しますが、英軍派遣司令官ゴート将軍は“上官”のフランス軍将軍の命令を無視することにします。全滅よりも撤退して少しでも救えるものを救う、と。
 ドイツのグデーリアン指揮官(「電撃作戦」の立案者)は一挙に海岸線まで連合国軍を追い落とすことを希望しますが、司令部はあまりに突出して側面を突かれることを恐れてブレーキをかけます。その間に、無防備だったカレーにイギリスの増援が到着。グデーリアンは目標をカレーからダンケルクに変更します。ダンケルク占領の絶好機が訪れたかに見えた瞬間、「全軍停止」の命令が。ヒトラーは、フランス進撃のために戦車部隊を温存し、空軍に手柄を与えようと思った……らしいのです。
 連合国軍でも「兵力を結集して大反撃」の幻想を抱く人によって動きが制限されてしまいます。現実的に残された選択肢は「降伏」「撤退」「全滅」のどれかで「勝利」はなかったのですが。夢見ることは、人としては当然の行為ですが、指揮官が戦場で間違った夢を見るとより多くの人が死ぬことになるのです。1940年5月26日当時、ダンケルクに集結した英仏軍将兵は約50万人でした。ゴート将軍はそれらの人命に“責任”を持たされていたのです。
 英政府は、大型の船だけではなくて、小型レジャーボートの所有者全員にボートの提供を求めます。フランスが陸軍兵士を大量に移動させるのにパリ中のタクシーを使ったことがありましたが、使えるものは何でも活用する、ということなんですね。(中には、手こぎのボートに数名の兵士を乗せて海峡を何度か往復した人もいたそうです)
 それから数年後、こんどはドイツがバルト海で赤軍に追いつめられて(のちの)西ドイツ領に使える船を全部使って大量に脱出したことを私は思い出します。
 かくして「ダイナモ作戦」が発動します。砲撃と爆撃でダンケルクの波止場は炎上していました。そこへ、対空砲火の弾幕を張りながら船が入港します。まず乗船するのは傷病者。恐ろしいくらい時間がかかります。英本土から空軍もやって来ますが、圧倒的とは言えません。海には機雷が敷設され、潜水艦もいて魚雷攻撃をしてきます。そこを船員は不眠不休で、ドーヴァーとダンケルクの間を往復し続けます。
 9日間で総計33万8226名が救出されました。約12万がフランス軍将兵で残りのほとんどはイギリス軍です。この“戦力”と「ダンケルクからの撤退に成功したこと」の精神的意味が、のちに戦争で“効く”ことになります。
 撤退戦は、ふつうは高く評価されません。負け戦ですから。撤退戦を評価することは「負け」も見つめることになるから、できたら知らんぷりをしたいのが人情です。しかし、撤退戦の中にも、いや、極限状態であるからこそ、そこには“英雄”が存在します。本書にはそういった“英雄”が、有名無名あわせて何人も登場します。
 本書を読んでいて、私は日本のことを思っていました。
 朝鮮戦争初期、釜山に押し込められた韓国軍と米軍が、もしも撤退することになったら、行き先はまず対馬でしょう。すると北朝鮮軍にはミグがありましたから、それが日本領空を侵犯して……という歴史のイフを思ったのです。
 それと、「数十万人の緊急輸送」は“他人事”ではないでしょう。原発事故に限らず、大震災・化学工場の爆発などで日本で“それ”が必要になることは簡単に想定できます。その時になってあわてないように、各自治体は“予行演習”をしておいた方が良いのではないかな? 絶対に「実際にやってみなければわからない問題」があるはずですから。



死後の笑み

2012-03-17 18:58:36 | Weblog

 将来私が死んだ後、私の思い出を語る人や私が残した物を見た人の顔面に笑みが浮かんでいたら、それは私の人生が“よいもの”だったということで、私にとっての一番の供養になるのかな、なんて思うことがあります。
 まだ死ぬ予定はありませんけど、そろそろ(昔のことばで言う)「余生」について考えることがある時期になってきたものですから。

【ただいま読書中】『ペルリ提督日本遠征記(上巻)』土屋喬雄・玉城肇 共譯、 弘文荘、1935年、十五圓

 ずいぶんきれいだな、と思ったら、奥付が二つあって、二つめのを見たら1988年の復刻版(臨川書店)でした。
 M・C・ペリーの詳細な日記や公文書などを資料に編集された報告書です。ペリー自身が「余はこれを、余の公式の報告として提出す」と序文で述べています。
 日本は「マルコ・ポロ」によって「ジパング」として“世界”に知られました。やがて西洋人が日本に到達し、その姿が知られると「日本は支那の植民地であった」という説が興りました。どうも日本の文書に「中国の文字(漢字)」があったことがその根拠になったようです。しかし「ことばがまるで違う」ことが知られてからその説は消えたそうです。
 といった感じで、「日本とはいかなる存在であるか」から話は悠々と始められます。しかし、せっかく鎖国をしていたのに、日本の情報(たとえば“将軍”と“天皇”の権力の“二重構造”など)をペリーはけっこうきちんと掴んでいます。オランダ経由で世界中に情報が発信されていたのでしょうね。オランダと言えば、ペリーは「吾々は東洋に於けるイギリスの非行を辯明しやうとするのではないが……」とイギリスをしっかり非難した上で、オランダの対日貿易独占のための異様な努力をもっと力を込めて非難しています。まだ序論ですが、ここで私は「ペリーの日本遠征は、日本の鎖国を解くためではなくて、オランダの独占を破るためだったのではないか」という疑いを持ちます。
 メキシコとの戦争に勝ってカリフォルニアを併合した合衆国は、目の前に太平洋が広がっていることに“気づき”ます。その向こうには、日本。「ペルリ提督日本遠征」は、出発前から世界に公表されていました。したがってオランダも出島の商館もその情報は掴んでおり、商館長は幕府に「諸国との通商の開始、ただし長崎に限っての開港、オランダの特権」を勧告しました。しかし日本は反応しませんでした。ロシアは長崎に入港しオランダ商館長を通して条約締結をしようとしましたが、失敗しました。
 ペリーは集められるだけの情報は集め、「鎖国」が日本人の本性には相容れない政策である、と確信していました。また「アメリカの捕鯨船(その他)の避難港および給水港を幕府が日本本土に認めない場合には、琉球の港を軍事的に入手する。琉球を支配する薩摩は、アメリカの非武装のモリソン号を砲撃し、さらに琉球を恐怖政治で支配しているのだから、自分たちの行動は正当化される」と考えていました(それは大統領の考えともほぼ一致していました)。
 聖ヘレナから喜望峰、インド洋と、日露戦争のバルチック艦隊のことを思い出しながら私は“旅行記”を読みます。ただ、バルチック艦隊と違うのは、この遠征艦隊では貿易風の消長に敏感であることです。石炭と風の“ハイブリッド艦隊”ですから、石炭補給も重要です。ちゃんと石炭船を喜望峰とマウリシアスに先発させていています。
 シンガポールからはまた“西洋文明”の香りが濃厚になってきます。マカオ、香港、上海とたどり、5月26日木曜日に那覇に入港。琉球が日本領だとしたら、日本遠征隊の「日本」との初接触です。ペリーは一隊を内陸探険に送り出します。外交団であると同時に学術探検隊、という位置づけだったのでしょう。詳細なスケッチが紹介されていますが、ここまで細かい描写をする熱意には感心します。
 陸上探検隊だけではなくて、ペリーは艦隊の二隻を父島に送ります。米国にとってこの島は、将来の中国貿易での中継基地として重要視されていました。すでに将来の入植に備えて山羊が放たれて野生化したりしていました。
 場面は一転、ついに江戸湾です。
 この報告書は、公文書としての性格からか、きわめて簡潔な描写が積み重ねられていますが、それがかえって劇的な効果を生んでいます。
 ……しかし、幕府にとってこのペリー来航は「想定外」だったのでしょうか。来るとしてもまず長崎へ、と想定していたのかな。まるで「地震や津波は起きるだろうが、原発には届かない」と“想定”していた人たちの同類であるかのように。
 ……あ、同類だった。


スター

2012-03-15 19:37:04 | Weblog

 綴りが違うから日本国内限定ですが、モンスター(Monster)は「邪道のスター」ということにしません?

【ただいま読書中】『アフリカの爆弾』山上たつひこ 作、 筒井康隆 原作、ペップ出版、1989年、854円(税別)

 なぜか『アフリカの爆弾』を再読したくなりました。同時に山上たつひこの漫画も読みたくなりました。ということで、その二つの欲望を同時に満足させるために本書を手に取りました。

目次:「アフリカの爆弾」「穴」「マイホーム・マイホーム」「恐怖飯店」「心」

 たしかに面白かったのですが、意外だったのは、予想したほどの破壊力がなかったことです。破壊的な筒井康隆の文章と破壊的な山上たつひこの絵が組み合わさったら、破壊力の相乗効果が生じるかと思っていたのですが。
 期待しすぎだったのかな。それとも別の原因かしら。
 もしかしたら私にとっては、筒井康隆の文章は“読むもの”で、山上たつひこの漫画は“見るもの”なのかもしれません。だから、筒井康隆原作・山上たつひこ作、の漫画は、読むか見るかで混乱してしまうだけだったのかも。まあ、こんなややこしいことを言いながら“読む(見る)”読者はあまりいないでしょう。はちゃめちゃな世界をシンプルに楽しむための本としては、シンプルにお勧めします。



予告登板

2012-03-14 18:49:28 | Weblog

 今年からセリーグも投手の予告をするそうです。「先発が左ピッチャーだとわかったら、右バッターをずらりと並べられて不利になる」といった理由で難色を示す人もいたそうですが、さて、それについて私は疑問を二つ感じています。
 1)本当に投手と打者の「左対左」「右対右」「左対右」「右対左」で「有利」「不利」が統計的に有意の差をもって示されているのでしょうか?(差はあるのかもしれませんが、大切なのは「有意の差」があるかどうか、です)
 2)有利不利が明確にあるとして、たとえば「ずらりと右バッターを並べられた」としたら、さっさと中継ぎ以降を右投手にしたら、不利が一挙に有利に転じるのでは?
 野球って、そんなに単純なものでしたっけ?

【ただいま読書中】『心をもつロボット』武野純一 著、 日刊工業新聞社、2011年、1800円(税別)

 人は昔から、マリオネットやオートマタ(自動機械)を作ってきました。それがコンピューターの発達によって“新局面”に突入しています。
 著者は、「ヒトの精神」をコンピューターのプログラムに相当するもの、と規定します。コンピューターの研究からヒトの精神にアプローチしたら、脳科学をベースとした心理学が唯物論的心理学になるのと同じような結論に別の方向から到達した、といった趣です。ただこの「規定」から「ロボットは心をもつ」と言えることになります。十分複雑なプログラムだったら、ですが。そうそう、たぶん笑いを取るためでしょうが「アミニズム(ママ。本当はアニミズム)の考え方からは、機械(ロボット)に魂があると言っても良いだろう」とも言っています。
 「脳の内部には興味を持たない」という「行動心理学」も紹介されます。それをロボットに適用すると、外から見たら十分「心があるかのような行動」を取りさらに外からの刺激で行動が変容するロボットは「心がある」と言っても良さそうです。
 それ以外にも出るわ出るわ、心理学の総ざらいといった感じで次々心理学が紹介されます。これだけ心理学があるということは、「ロボットの心」を定める“基準”がない、ということになってしまいそうです。もちろん「人の心とはいかなるものか」の定義も。
 脳科学では、「脳細胞そのもの」に意識や心を生みだす機能があると推定して量子力学を適用して解明しようとする立場と、「脳細胞のネットワーク」がその機能を生みだしているとするコネクショニズムとがあります。
 著者が重要視するのは「ことば」です。人が何かを発言する場合、まず潜在意識で文章を作成し、発話前に内言でリハーサルをして評価し、それから意識的に発話をします。その基本的特徴を再現できるプログラムを作ることができたら、それは人の心に類似したコミュニケーションに利用できることになります。
 ここで、ドナルド・ヘップ(ニューラルネットワークの発明者の一人)が言った「共起性の原理による学習理論」のアナロジーが登場します。人が潜在意識で文章を作成しているとき、その文章のすべてのことばは同時に発生している(すべてのことばに、同時に発生したという関連性がある)、と著者は考えるのです。ならばロボットは、ことば同士の関連性を計算でき、その結果を利用できることになります。実際にネットで英語サイトの文章をデータベースに大量に入力して単語の関連性を求めておいてから試しに「President」と入力したところ、そこから芋づる式に導き出されたのは……「Bush」→「Iraq」→「War」で、その「感情的な意味」は「恐怖や嫌悪」だったそうです。その研究結果を発表したら、批判が殺到したそうですが……私は笑っちゃいますね。
 著者は実際のもの作りも行なっています。頭蓋骨標本から型を取り、プログラムに従って表情を変えるロボット作成です。そして、単語データベースと表情とを関連づけていきます。写真がありますが、けっこう不気味です。
 さて、お次は「鏡に映った“自分”を認識できるか」です。著者は、カメラで立体視をして障害物を避けて移動するロボットは作れました。しかしそれは「ものを見ている」のでしょうか?
 著者は「認知と行動の一致」とは、「ある一定の情報の静的な状態」ではなくて「ニューラルネットワークで情報がぐるぐると安定して回っている状態」のこと、と仮説を立てます。その「安定したパターン」への「入力信号」が「認知」で「出力信号」が「行動」です。そして「鏡に映った自分の姿を認識して反応できるロボット」を作ろうとします。それが成功したか失敗したかは、本書をお読みください。著者は成功したと思っているようですが、私は微妙だと思います。
 著者の研究は「ロボットの開発」ですが、それは実は「人の研究」でもあります。人と類似する回路が設計できたら、こんどはその回路の研究から「人」に迫ることもできる、と。ただしそれには「そのロボットが人の精巧なアナログである」ことが前提です。いくら似ていても本質が違っていたら(ロボットとしては有用ですが)人の研究には役に立ちません。それでも、じゃんじゃん人を解剖するよりは安全ですし、もしかしたらそのうちに「アトム」ができるかもしれません。それはそれで楽しみな未来だと私は脳天気に思っています。


千客万来

2012-03-13 18:49:52 | Weblog

 私の良く知っている町がテレビニュースに出てきて、最近観光客が減ったので困っている、お客さんにたくさん来て欲しい、と町の人が訴えていました。もちろん観光客が減るのは困るでしょうし、たくさん来て欲しいという願いはわかります。でも、その町が嫌いではない私の目から見ても、「どうしてもそこに行きたい」という“動機”が乏しいんですよね。
 「来て欲しい」と願うだけではなくて、たとえば「どんなお客さんなら来てくれるだろうか」と具体的に「北海道のおじいさんは来たくなるか?」「沖縄の子供は来たくなるか?」「ニュージーランドのキャリアウーマンは来たくなるか?」と「どこそこのだれだれさん」をイメージしないと、「願い」には「力」が伴わないのではないか、と思えるのです。ただ漠然とした「お客さん」を待つだけでは、じり貧になっていくのではないかなあ。

【ただいま読書中】『IBM神話の崩壊』板垣英憲 著、 ぱる出版、1990年、1262円(税別)

 今となっては「IBM神話って、何?」と言われてしまうかもしれません。しかし20世紀の一時期、「IT産業のトップ」にIBMが君臨していた時代は確かにありました。本書は「昭和」が終り「平成」が始まった頃のお話です。
 著者は毎日新聞の記者で、政治・経済を担当としていた、ということなのですが、なんでこんな人がIBMについて書くことになったのでしょう? 明らかに“理系”の人間ではありません。だったら調査報道の手法を駆使してIBM内部の人間あるいは内部を知る人間にインタビューして回っているかと言えば、そうでもありません。ただ机に座り込んで、公開資料をいじくり回しているだけです。
 機械にも詳しくありません。なにしろ、日本語入力は「富士通のワープロが一番」で、「IBMのパソコンはひらがな入力ができないから使う気にもなれない」というのですから。まあ、あの頃には「パソコンなんて何ができるんだ。ゲームはファミコンが一番だし、日本語入力はワープロ(専用機)が一番だ」と言う人が多かった時代ではあるのですが、平成になった頃からパソコンのワープロソフトもけっこう使えるようになっていたはずなのですが。
 本書で著者が一番筆が快調なのは、人事に関する記述のところです。きっと著者の得意領域なのでしょう。もっとも、新社長は何が特徴で何が得意技かは、公開されている経歴から読み解こうとするだけですから、突っ込みの浅さに私は思わず目を覆ってしまいますが。
 おっと、「実地調査」もありました。休日の午後、日本IBMの役員の自宅に次々電話して本人が在宅しているかどうかを確認しています。こんな“調査”に何の意味があるのかは知りませんが。少なくともこの頃は「電話帳」が“使える”時代だったことがわかる、という“資料的価値”がある記述ではありますが。
 あの頃の全国新聞は、IT関連の記事があまりにお粗末なため何の参考にもならなかったことを思い出しました(おっと、ITに限らず、私にある程度わかるどの分野でも専門記事の突っ込みが浅くて“使い物にならない”と思っていましたっけ)。あの頃はまだインターネットもパソコン通信も未熟だったため、私にとってはパソコン雑誌が唯一の情報源だったのを思い出しました。懐かしい気分です。そういった雑誌は提灯記事が満載ではありましたが、それをちゃんと選別して読み解けるようになるのが、読者のリテラシーでしたよね。
 DOS/Vの仕様公開から、IBMは「多くのメーカーの中の一つ」になってしまい、2004年にはとうとうパソコン部門を中国に売却することになって、たしかに「IBM神話」は崩壊したわけですが、それは本書からずっと後のことですし、本書の著者が未来を予測したわけでもありません(それどころが著者は「IBMが“未来”を自分に教えてくれない」と文句を言っています)。マイクロソフトが全盛となったときには私も「アップル社はこのまま消えてしまうのだろうか」なんて心配をしていましたから、他人のことをいろいろ言えた義理ではないのですが。



残虐

2012-03-12 18:47:12 | Weblog

 幕末期、来日した外国人が印象深く書き留めていることの一つが「残酷な刑」です。公開処刑や死体や切った首をさらす行為がとても残虐だ、と。そして、実際に目の前にする礼儀正しく清潔で穏和な日本人とのギャップにさらにショックを受けるわけです。
 ただ、現代の私の目からは、そんなに西欧は残虐ではない国なのかな、と思えるのです。古代ローマから、公開処刑は西欧でも“伝統”でした。“人道的”な死刑方法であるギロチンも、公開でしょ。ロンドンでは19世紀に公開処刑は廃止されましたが、それは「残虐」だからではなくて、集まった群衆が暴動を起こしたことが大きな理由でした(と、本日読んだ本には書いてあります)。
 ……というか、「残虐ではない刑罰」なんてものが、存在可能なのかな?

【ただいま読書中】『血塗られた慈悲、鞭打つ帝国。 ──江戸から明治へ、刑罰はいかに権力を変えたのか?』ダニエル・V・ボツマン 著、 小林朋則 訳、 インターシフト、2009年、3000円(税別)

 明治期のあまりに急速な“近代化”の原因を「すでに江戸期にその“準備”ができていたから」という研究が多く発表されています。それは一つまちがえたら「江戸期の日本は、近代化以前の西欧“もどき”だった(=日本人は“名誉白人”)」になってしまいますが、はたしてそれでいいのでしょうか? 本書では「日本と帝国主義との出会い」そのものが「近代日本成立に不可欠な要素」だったことを、刑罰史を通して見てみよう、としています。
 戦国時代の刑罰の方法はなかなかのものです。死刑は、牛裂き・串刺し・煮殺し・釜炒り。“軽い”刑で切断刑がありますが、切られるのは、耳・鼻・指など。いずれも“平和な江戸時代”になって17世紀末には日本から姿を消しました。鋸引き(首を鋸で切り落とす)も行なわれていましたが、罪人を数日さらし者にするときにその横に鋸(それも竹製)を置くだけで、実際の処刑は磔になっていきました。江戸幕府は、各藩の自治権は認めていましたが刑罰は江戸に倣うことを求め、刑罰の“標準化”を進めていきます。そして18世紀半ばの公事方御定書で、全国で刑罰の体系化がさらに進みました。
 幕府は「お上の権威」を体制維持のために重視していましたが、それは、厳罰(恐怖)だけで示されるものではありませんでした。「明君」「仁政」「慈悲」というイメージも重要です(「生類憐れみの令」は本来こちら側のもののはずでした)。刑罰の場面では、被差別民が死体の処理などを公開の場で行なうことで「厳罰の実行者」のイメージを背負わされ、たまにちらりと慈悲を示す武士は“良いところ”を持っていくことになった、と著者は述べます。もちろん被差別民の方にも、権力に利用されることで特権を得る、というメリットがあったわけですが。ともかく「残虐さ」は単なる「無制限の暴力」ではなくて、「体制の秩序」のために必要なものと見なされていてある程度きちんと管理されており、さらに残虐だからこそちらりと見せる「慈悲」が効果を増す、という効能もありました。
 社会構造が変化し、農村は疲弊・都市部には無宿人が増加します。それに対して「死刑」と「追放」がメインの従来の刑罰では対応しきれません。そこで収容施設として(社会からの隔離と教育と労働が目的の)人足寄場が設置されました。最終目標は、都市から人を農村に送り返す(それによって米の生産力(=国力)を高める)ことですが、結局その目論見は上手くいきませんでした。
 西洋では、直接体を傷つける刑罰から、監禁と矯正を中心とするものへと刑罰の“近代化”が行なわれました。その動きは「帝国主義」と「啓蒙主義」とも結びつきますが、ここで面白いのは「その国が優れているから帝国となって世界を支配できるのだ」という主張が「帝国で行なわれていることはすべて優れている。その証拠に世界を支配している」と論旨の“逆転”が行なわれたことです。そして幕末期の日本でも「西欧で行なわれていることは優れている」という認識でそれらの制度を導入しようとしました。
 さらに欧米から日本は「東洋の野蛮国」であり、その証拠が「残虐な刑罰」でした。だから自国民をそういった残虐さから保護するために治外法権が強く要求されました。そこで明治政府は「日本は近代化されている」ことを示す必要があります。それができなければ条約改正は不可能なのですから。そこで刑罰制度の改革が行なわれました。もっともすぐに、というわけにはいきません。本書には、江藤新平が処刑後生首をさらされたことが写真付きで紹介されています。ともかく、海外の調査が行なわれ、ベンサムのパノプティコンにインスパイアされ、パノプティコンで重要な概念である「監視(されている/されているかもしれない)」と「獄舎」を組み合わせて「監獄」ということば(と施設)が作られます。西南の役で大量の収監者が発生したため、大規模な監獄があちこちに作られることになりました(特に北海道に大規模な監獄が作られ(囚人が自分たちで建設し)、それを拠点に入植が行なわれることになりました)。
 刑罰の改革は「文明化」であり「江戸の野蛮の否定」でしたが、実は「新しい形の野蛮の導入」でもありました。その結果「もう野蛮国ではない」と列強に認められて条約改正ができた頃、巣鴨の監獄が完成し、さらに同時期に日清戦争の勝利。台湾を手に入れた日本は晴れて「植民地帝国」となれたのです。そこで問われるのは「どのような刑罰制度を台湾で作るのか」ですが、それに必要なのは「どのような文明国としての原理を広めるか」の態度です。何をどう罰するかを決定するためには文明国の原理が確立していなければならないのです。そこで問題になったのが「笞刑」でした。台湾では一時廃止したこの刑を「後進民族には後進的な刑を」という発想で復活させたことが日本国内で大問題になったのです。「後進的」だった日本が「先進的な刑罰」を取り入れることで文明開化に成功したのに、それを台湾ではやらないのか、と。これは、明治維新の記憶がまだ新しいからこそ起きた議論でしょうね。ヨーロッパ諸国でやるとしたら、キリスト教とか人道とかややこしいものになりそうですが、日本だからこそ行なうことができた貴重な議論でしょう。当時その貴重さに気づいている人がいなかったらしいことは残念ですが、これが「歴史」の面白さなんでしょうね。



キューバ

2012-03-11 17:48:26 | Weblog

 私はキューバと言ったら「ゲバラ」「カストロ」「砂糖」「難民」「音楽」「米西戦争」くらいしか思いつきません。
 ところで映画の「シッコ」では、「アメリカでは受けられない治療」がキューバでは受けられる、とアメリカ医療に対する批判的な主張がされていました。そういえば007の「ダイ・アナザー・デイ」では、DNA変換といった超先進(SF)的な“治療”がキューバで行なわれていましたっけ。日本と欧米では「キューバ」に対するイメージが相当違うのかもしれません。

【ただいま読書中】『「防災大国」キューバに世界が注目するわけ』中村八郎・吉田太郎 著、 築地書館、2011年、2400円(税別)

 カリブ海はハリケーンの“名所”です。キューバはその通り道に位置していて、かつては、強風と豪雨と高潮によって、定期的に大きな被害を出していました。今でも大きなハリケーンが上陸するたびに家屋や農作物に甚大な被害が生じていますが、特筆すべきは、人的被害ががくんと減っていることです。そのことについては、キューバを敵視しているはずの合衆国でも学ぼうとしています。
 本書に紹介された数字を見るとたしかに周辺諸国との差は歴然としています。これは……
1)数字を誤魔化している
 1-1)数字がわからないので適当にでっち上げた。
 1-2)実際の数字より少ない数字に操作した。
2)本当に人的被害が減っている
 の可能性が考えられますが、本書を読む限りどうやら2)が本当のことのようです。印象的なのは「我々にとって勝利とは、人命の損失が最小であることを意味する」という、2001年ハリケーン「ミチェル」襲来時のフィデル・カストロのことばです。具体的に行なわれる行動は、早期警戒(情報周知)と早期避難。
 キューバは貧しい発展途上国で、さらに経済封鎖を受けていますから、避難用の車両は十分ではありません。だから使える車両はすべて動員して避難に使います。バスやトラック、さらには戦車まで。家畜も連れて行きます。あ、もちろんペットも。低層階から高層階への避難の場合は家財道具も移動。「ミチェル」のときには、75万人が避難したそうです(避難所は政府が用意しますが、親戚とかボランティアでの受け入れも多いそうです)。
 キューバならではの“特殊事情”はもちろんあります。アメリカからの軍事侵攻を想定しているから、災害対策は“市民防衛”の一環です。経済封鎖が厳しいので、物資を無駄にできません。社会主義で中央集権だから上からの命令が下まで浸透しやすくなっています。それでも、巨大ハリケーンが直撃してもさっと逃げてさっと戻る、という行動を市民が取るのには、教育と自主性の両立が必要でしょう。オックスファム・アメリカ(民間の支援団体)は「キューバ・モデル」を分析して「参加型の民主的な中央集権型モデル、すなわち、強力な国家と同時に分散化されたリスクガバナンスを担えるシステムは、他の国でも応用可能」としています。キューバとは違う日本、ハリケーンと同じ台風やハリケーンとは違う地震に対する防災(減災)にも、キューバは参考になるはずです。ただ、キューバでは「個人/コミュニティ/行政」が連携して動いていますが、日本ではそれぞれの独立と連携を確保することが難しそうですね。
 私が感心するのは、避難所での医療だけではなくて、教育や娯楽も考えられていることです。避難所に一人はコックがいる、という証言もあるのですが、本当? 「避難」が「日常生活」に組み込まれているという印象です。
 もう一つ印象的だったのは、本書にも「レジリエンス」が何回も登場することです。ここでは「防災力、復元力」の意味で使われていますが、最近の流行語ですか? そして、防災でのレジリエンスで重要なのは「対応の多様性」です。一面的・硬直化した対応ではなくて、複雑で柔軟な態度。
 もしかしたら数年以内に「レジリエンス」は“日本語”になっているかもしれません。ちょっとややこしい概念だし日本人好みの簡潔性を持っていないから、無理かな?



シンプルが好き

2012-03-10 18:46:54 | Weblog

 ケータイで撮った写真をそのままファックスするソフトはありそうですが(調べていません)、いっそ家庭のプリンターに直接送信できたら便利でしょう。スキャナーがわりにも使えますから。いや、年を取ったせいか、最近パソコンを経由するのが面倒に思えてしかたないんです。

【ただいま読書中】『富士見の謎』田代博 著、 祥伝社、2011年、800円(税別)

 富士山が見える都府県は、理論的には実は20もあります。地球の湾曲によって富士山は沈み込んでいきますが、見る側に高い山があったらそこに登れば富士山が「地平線の向こう」でも見えますし、「大気差(大気の密度の違いによる光の屈折)」の影響もあります。それらを勘案して著者は「富士可視マップ」を作成しました。
 いやもう、いろんなことを思いつく人がいるものだと、私は感心するのに忙しい思いです。
 著者がすごいのは、実際に地図で「ここから見えるはず」と表示された地点を訪れまくっています。フルタイムの仕事をしているのに、この行動力には感心します(さすがに「ここには行きたいのに」と心残りの地点も多いそうですが)。
 東京都は、地形的には大体どこでも富士見が可能です。邪魔をするのは、樹木や建物。(ちなみに、富士見ができる最南端は、東京都の八丈島です) 山手線内に「富士見坂」は18ありますが、そこから実際に富士見ができるのは現在は2箇所だけだそうです。「富士を見ること」よりも大切なものが現代社会には満ちあふれているんですね。
 「ダイヤモンド富士(富士山にかかる太陽がダイヤモンドのように輝いて見える)」「パール富士(富士山に満月がかかっている)」「トンネル富士(トンネルや鳥居などの“穴”を通して富士山を見る)」といった“専門用語”が次々出てきます。それぞれの写真もいろいろ載っていますが、本書のサイズ(新書)がうらめしい。
 なお、「ダイヤモンド富士」で最遠方からの写真は、奈良県の大峰山からのものだそうです。距離は283km。理論的な「富士見の最遠地」は和歌山県那智山周辺の小麦峠(現在は色川富士見峠)ですが、ちゃんと証拠写真も撮られました。距離はなんと322.9km。そもそも300km向こうの山の写真を撮ろうなんて思います?
 本書の第3章は、北斎の「冨嶽三十六景」の分析です。どこから描いたのか、描かれているのは本当に富士か、などの謎を、デジタル技術を駆使して解明しようとしています。富士の形や光の当たり方などを手がかりに、描画地点を推理しそこからの富士見をCGで再現してもとの絵と比較しています。
 もちろん「富士山」そのものは大切な存在ですが、日本人にとっては昔から「富士見」という行為が大切なものだったんだなあ、と思えました。私も150kmくらい離れたところのビルから遠望した富士山の姿や、鎌倉あたりを自転車で走っていて岬を回った瞬間に正面にどんと富士が見えたときの衝撃を、30年以上経った今でもしっかり覚えています。印象的な独立峰ですからねえ、日本人には「富士見」は大切な体験なのでしょう。外国でもたとえば「キリマンジャロ見」なんてことは行なわれているのかな?



蚊帳、蠅帳

2012-03-09 18:39:35 | Weblog

 同じ「帳」なのに、「や」と「ちょう」と読みが違うのはなぜなんでしょうねえ。
 私の子供時代(昭和の中頃)を思い出すと、タイトルに挙げたもののほかに、蠅叩き・はえ取り紙・ドブ・水たまり……今の「清潔志向」の日本とは別の国のようです。今はドブは下水管になって、他のものもほとんど姿を消しました。ただ、窓を見たら網戸がはまっていますが、あれは結局家がそのまま蚊帳になったようなものですよね。「蚊帳の外」の虫たちは相変わらず元気に飛び回っているわけです。「害虫のいないお清潔な国」だったら、網戸もいらないはずですから。

【ただいま読書中】『蚊の博物誌』栗原毅 著、 福音館日曜日文庫、1995年、1262円(税別)

 昭和30年代、新米研究生だった著者は、毎日のように蚊帳を吊っていました。ただし、室内ではなくて屋外、蚊を避けるためではなくて蚊をなかに閉じ込めるためにです。空き地に蚊帳を吊り、中にドライアイスを置いて蚊帳の一部をまくり上げ、しばらく経ってから一網打尽。右も左もわからない状態でこの研究に参加した著者は、それから35年間、蚊とつきあうことになってしまいます。
 俗に「蚊は酔っぱらいが好き」と言います。で、実験をしてみると、差が出ません。もしも酔っぱらいの方がよく蚊に刺されるとしても、酔っぱらって正体をなくして寝込んだら蚊を追うことができないからではないか、というのが著者の推測です。また、蚊によっての“好み”の研究では、吸血をして満腹の蚊をたくさん捕まえてきてその腹の中の血液を一々調べています。それによって「牛好み」とか「牛は嫌いで人と猿が好き」なんて蚊がいることがわかりました。これで、マラリアを防ぐために村の回りに牛をつないでおいたら、村の中でのマラリア発生数が減少した、という試みもあったそうです。牛はいい迷惑ですけれど。人によっても刺されやすさに差があります。もちろんその研究もありますが、アメリカの実験では「きわめて刺されにくい人」は2%・「とても刺されやすい人」は1%くらいだそうです。その差が何によるものかはまだ不明だそうです。ちなみに血液型によって差があると主張する人がいますが、実験やマラリア発生数の比較では、明らかな差はないようです。
 蚊の主食は、花の蜜や植物から出る甘い汁です。産卵のためにだけ雌は吸血をする必要があります。吸血した雌は卵巣を発達させて産卵し、また血を求めます。
 蚊で困るのは、刺されたあとが痒いこと、それと病気です。マラリア・フィラリア・デング熱・日本脳炎・黄熱などが代表ですが、ウイルス疾患だけで80種はあるそうです。「蚊が病気を媒介する」ことがわかったのは、1877年イギリスのマンソンがフィラリア病で発見しました。これによってマンソンは、熱帯医学と衛生昆虫学の“開祖”となっています。しかしこの時期には「人体実験」が行なわれていますので、実験参加者が発病して死者さえ出ています。私たちの“常識”はこういった犠牲の上に作られているものなんですね。偉いのは英国政府です。「黄熱の媒介蚊の世界的分布調査」と「蚊の研究の推進」という“儲けにならない”基礎研究を推進しました。今、世界はその恩恵に浴しています。
 本書の前半は「蚊の自然誌」で後半が「文化誌」です。
 『日本書紀』には蚊屋衣縫という女性が登場します。『播磨国風土記』には応神天皇が播磨の国を巡幸の際、賀屋の里で「殿を作り蚊屋を張った」という記録があります。当時から上流階級の人は蚊帳の中で眠っていたのかもしれません。
 「蚊」の語源は不明です。万葉集や古事記にありますから、それ以前から「蚊」と呼ばれていたのでしょう。古代インドでは蚊のことをmakkaと呼び、それがサンスクリットでmasakaに、ローマではmuscaと言いましたがそれは「蝿」のことだったそうです。それがスペインでmosca、16世紀に英語に入ってmosquito(小さな蝿の類(双翅目))となりました。当時の「蚊」は「culex」「gnat」と呼ばれていて、「モスキート」が「蚊」を意味するようになったのは19世紀後半のことだそうです。きちんと研究されるようになって、名前が確立した、ということでしょうか。
 蚊はそれほど長距離飛行はできませんが、中には海外旅行をする蚊もいます。旅行客のトランクにまぎれこんでいたり、飛行機に“乗った”り、輸出された古タイヤにまぎれていたり。
 室町時代の『世諺問答』には「コキノコ」という幼子が蚊に食われないまじないが説明されています。「蚊を食べる蜻蛉の頭に見立てた木の球に羽をつけたものを、板で突き上げると、球は落ちるときトンボウ返りをする」のだそうです。つく板は胡鬼板(こきいた)と呼んだそうですが、そのまじないが江戸時代に遊びとして正月の羽根つきになったそうです。昔の「蚊のわざわい」は、命にもかかわるものと思われていたのでしょうか。
 もちろん「蚊の目玉」の話も登場します。ご馳走だというのですが、誰か本当に食べたことがあるのですかねえ。著者は「その気になれば集めることは可能」と半ばやる気満々ですが(私はあまり食べたいとは思いません)。