【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

人気のお店

2012-03-08 18:53:13 | Weblog

 たまたま赤信号で止まったら、交差点の向こうに回転鮨の店がありました。見ていると、右側から来たタクシーが右折してぴたりと店の前で止まり、1家族がぞろぞろと降りて楽しそうに店に入っていきました。おやおや、わざわざタクシーで来るくらい美味しいのかな。で、駐車場を見ると、ベンツとかセルシオとか、なにやら高級な車も止まっています。プチ“贅沢”な、回転鮨?

【ただいま読書中】『銀色ラッコのなみだ ──北の海の物語』岡野薫子 著、 講談社文庫、1975年(85年6刷)、300円

 個人的にはとても懐かしい本です。子供の時に「ラッコ」という動物がこの世に存在することを知り、その生態がとても珍しくさらにはラッコが絶滅の危機に瀕していること、そういったことを私は本書で“学び”ました。私の脳にある「生態学」とラベルが貼られた部分には、本書がしっかりはめこまれています。
 エスキモーの小さなで暮らす8歳の男の子ピラーラは、次の冬にはお父さんにアザラシ猟に連れて行ってもらえることになっています。ここでさりげなく描写される彼らの“日常生活”の厳しさは印象的です。
 ラッコは、そのきれいな毛皮を求める人間の欲望による乱獲によって絶滅したと思われていたそうです。しかし、北へ逃れた群れがいました。その群れに、変わった赤ん坊ラッコが生まれます。首の回りに輝く銀色の毛がはえていて、他の子よりも泳ぎを早く覚えた「銀色ラッコ」です。
 ピラーラと銀色ラッコの出会いは、両者とも命の危険がある状況ででした。ピラーラは流氷に乗って流されてしまい、ラッコは群れからはぐれていたのです。北の海は過酷な環境です。そのまま両者が死んでいてもおかしくなかったでしょう。
 二度目の出会いは、大人に目撃されてしまいました。「金になるラッコ」の発見に、ピラーラの父親は喜びます。ただし、すぐに狩りを始めようとはしません。絶滅しかけた群れが増えて十分な数になったら、「海の母」の許しを得て狩りをしようと考えます。
 子供の時には見逃していましたが、ここには「オオカミを獲りすぎたら、カリブーが増えた。ところがカリブーが増えすぎて餌が足りず、どれもやせこけている」とあります。やっぱり真っ当な生態学です。著者は「可愛い動物を保護しましょう」とか「エコな私って素敵」といった甘ったるいことは書きません。ラッコは完全に擬人化されていますが、こういった真っ当なエコが“背骨”として通っているから、その擬人化がちっとも気になりません。
 ピラーラの不注意からラッコのことを知ったエスキモーたちは勇み立ちました。悠長に育つのを待ってなどいられない、すぐに狩りに行こう、と。撃つ数は制限します。しかし……その毛皮を交易所に出したら、何が起きるでしょう?
 長を殺されて混乱する群れを率いたのは「銀色ラッコ」でした。新しい住処を求めて北の海を逃げ出します。しかし、ケルプと餌に恵まれた海域は限られています。彼らがたどり着いたのは、かつてラッコたちが人間に襲われて全滅した海域でした。
 エコロジーと人間の両立は難しい問題です。結局ラッコは保護され、数が増えました。しかしそれで「メデタシメデタシ」ではありません。ラッコが大量に食べる、アワビ・ウニ・カニは、人間が食べたいものでもあるのです。当然そこに「問題」が発生します。
 本書ではそのこともしっかり記載されています。子供に対して、手加減無しに「難しい問題」の難しさをきちんとわかるように伝えている本書は、すでに「古典」と呼んでも良いのではないかと私は考えます。



議事録なし

2012-03-07 18:44:04 | Weblog

 非常事態でもきちんと記録を残すアメリカと、どさくさ紛れだからと記録を残さずに様々なドジを踏む日本政府との比較を見ると、もう首を(横に繰り返し)振るしかありません。日本政府の首脳は『捨てる技術』の信奉者ばかりなんでしょうか?

【ただいま読書中】『謎解き「張作霖爆殺事件」』加藤康男 著、 PHP新書734、2011年、720円(税別)

 満州を地盤として中国の北部を支配していた張作霖に対して、国民革命軍(南方派)の蒋介石は北伐軍を起こしました。日本は満州が崩れてソ連と直接対峙することを避けるために、張作霖の満州帰還を促します。1928年(昭和三年)6月3日、北京駅から北に向かって続々と列車が出発しました。翌4日払暁、目的地の奉天1キロ手前で列車は爆破され張作霖は死亡、これがのちに「満州事変」の遠因となります。爆破の実行者は、関東軍の河本大作大佐(関東軍司令部の高級参謀)の部隊。目的は「満州での軍事行動」。これには詳細な証拠や本人の自白書もあるため「間違いのない史実」とされてきていましたが、ここ数年「ソ連軍諜報部の陰謀」説が出てきたのだそうです。
 河本大作大佐は、以前から「張作霖は何とかしなければならない」と主張していました。その証拠はきっちり残っています。また、実行部隊に選抜された人たちもまた記録を残していました。とても「秘密作戦」とは思えません。線路脇に爆薬を仕掛け、わざわざ「ここに張作霖あり」と示しているかのような特別仕立ての車両が通過するタイミングで爆発させ、狙い通り張作霖を爆殺。しかし奉天軍は喪を秘し、関東軍との間に銃撃戦は発生しませんでした。
 ところが……具体的な話は「闇の中」です。後に共産軍に捕まり、河本は詳しい自供書も残していますが、具体的にどのような火薬を何㎏使ったか、それをどこに仕掛けたのか、などははっきりわからないのです。
 車両は何台も完全に破壊され炎上していました。ところが不思議なことに、台車は脱線していませんでした(現場の写真が残っています)。さらに昭和60年になって、驚愕の写真が登場します。「爆破前」「爆破の瞬間」「爆破直後」の連続写真です。これは線路脇で爆破を実行した神田中尉が所有していたものだそうです。さらに、河本大佐は「事後」について、大した計画を持っていなかった様子です。「とりあえず殺せばよい」と言わんばかり。
 田中義一首相は河本の責任追及のために軍法会議を考えますが、「国の恥をさらすのか」とか「陸軍を怒らせるな」という反対派を抑えきれず、天皇への奏上は矛盾したものとなって天皇の信任を失い、とうとう内閣総辞職となってしまいました。誰もが「爆殺は河本のしわざ」と疑いませんが、結局「停職」という行政処分だけで、のちに彼は満鉄理事に返り咲きとなります。
 ところが2005年になって、「実はソ連の謀略(邪魔になった張作霖を始末し、それを日本軍のせいだと見せかける)」だった、という説が登場しました。張作霖に対して殺意を抱いていたのは、関東軍(の一部)だけではなかったのです。ただ、“動機”に注目したら、範囲はさらに広がります。張作霖は各方面から恨みをかっていたのです。たとえば、蒋介石の国民党軍、張作霖の部下(の裏切り者)も。当時の日本政府はなぜか「河本犯行説」を丸ごと信じて疑いませんでしたが、たとえば英国情報部は繰り返し疑問を呈しています。
 さらに不思議なのは、張作霖の息子、張学良の行動です。父の葬儀を終えると彼はさっさと蒋介石と和平を結び、国民政府委員に任じられました。そして、それまでの五色旗にかわって掲げられることになったのは青天白日満地紅旗ですが、林立する旗のなかには多くの赤旗が混じっていました。実は張学良はコミンテルンの影響を強く受けていたのです。ということで本書には「張学良謀略説」も登場します。本書で著者が展開するこの説は、これまでの日本軍や張学良の行動に関する疑問をいくつも一挙に解消するものでもあり、手法にも無理がなく、なかなか説得力があります。「事実は小説よりも奇なり」と言いますが、複数の人間の欲望や意図がその時の情勢と絡み合うと、当人たちの思惑を越えた複雑さが生じてしまう、ということなのかもしれません。



受付での困った人(何人目?)

2012-03-06 18:31:14 | Weblog

 別に探しているわけではないのですが、受付でだらだらと文句を言い続けている人が私の目の前によく出現します。今回は区役所。ちょっと書類が必要になったので窓口に出かけましたら、出くわしました。
 私の用はスムーズに進行していたのですが、手続き上どうしても何回か窓口に呼ばれる必要があったのでそばに待機していました。すると私が呼ばれる窓口の隣でなにやら不穏な雰囲気が醸成されています。おばさんが何やら甲高い声で文句を言っていたのですが、その内対応する人が、女性一人から女性二人になり、それからそこに管理職らしい男性が加わって……あらあら、三人を相手の大立ち回り、じゃなくて、文句の開陳です。
 盗み聞きじゃないですよ、聞き耳を立てなくても耳に入ってくるんですから。なんでも以前「有効期限の切れた“カード”」を更新したときに、期限が切れたカードと一緒に新しいカードも回収されたにちがいない、という主張なのです。はて? 何のカードか知りませんが、古いカードは渡して新しいカードをもらわずに料金だけ払って帰った、ということ? で、帰って数日してから「新しいカードがない」ことに気づいて、「ちゃんと交付しろ」と。
 あくまで私の想像ですけれどね、新しいカードを家でなくして、それをなくしたのは自分が悪いんじゃない、きっと役所の人間が渡すのを誤魔化したのだ、と“正当化”しているのではないかしら。その時着ていた服のポケットとか、バッグの中とか、ちゃんと探してるのかな?
 あくまで、私の想像ですけれどね。

【ただいま読書中】『非Aの傀儡』A・E・ヴァン・ヴォークト 著、 沼沢洽治 訳、 創元推理文庫、1966年(86年20刷)、480円

 前作での一般意味論協会での戦闘が終わって数日後。
 冒頭読者は吃驚させられることになります……というか、この著者の作品では常に読者は吃驚させられ続きではあるのですが。前作で「宇宙規模の将棋(本作ではチェス)の指し手」の存在への言及がありました。ゴッセンたちはその“駒”にすぎない、と。ところが問題は「将棋(チェス)」の指し手には“対戦相手”がいる、ということなのです。
 さて、地球と金星の非A主義者たちを攻撃しているのは、エンローという銀河の大帝国の支配者です。
 ゴッセンはまた“飛ばされ”ます。ただしこんどは、金星へではなくて、他人の肉体の中へ。自分の心が、帝国支配権をエンローによって簒奪されたアシャージン家のひ弱な跡取り息子の中に入ってしまったのです。他人の未成熟な神経系統に閉じ込められて、何ができるでしょう。訓練です。使える知識をフルに活用して、このすぐに卒倒するひ弱な“プリンス”アシャージンに非A訓練をほどこすのです。しかし、ゴッセンを“飛ばした”のは誰で、その目的は?
 銀河には異能の持ち主がいました。予知や透視能力を持った人がごろごろと。そしてそういった特殊能力人を乗せた大宇宙艦隊が、金星目指して襲来します。金星の非A人たちは、ロボットの大艦隊を展開して防御に努めますが、孤立した星系でまとまっていることは不利であることに気づき、積極的な“防衛”行動に出ます。金星から銀河中に拡散する作戦です。なんだかユダヤ人の大離散みたい。
 そして、文字通り「影」として人々を操っていた者の正体が明らかになります。いやもう、ここまでくると素直な読者としては「もう何が登場しても驚かないぞ」の境地です。本書で登場する「皮質・視床停止」状態みたいですね。そうか、本書の“効能”は、読者の精神的成長だったんだ。


スローガンのシフト

2012-03-05 19:05:50 | Weblog

 「尊皇攘夷」のスローガンの下に進められた明治維新は、結局「文明開化」にシフトしました。「尊皇攘夷」を信じ込んでそれを叫び反対者や外国人を襲っていたりした志士たちがそのシフトをどう受けとめ自分がやってきたことをどう正当化したのか、そこにはいろいろな“ドラマ”があっただろうと私は想像しています。昔のことなので確認はできませんが。
 「変革」とか「改革」とか「維新」とか唱えている人たちは、今どんな「スローガン」の下で動き、将来それがどうシフトするのか、そのとき自分がやってきたことをどう自分や周囲に説明するのか、これは今のことなので確認できそうです。とりあえず「郵政民営化」と「政権交代」に夢中になっていた人たち、あれで日本がどう良くなったのかの評価はどうなんでしょう。

【ただいま読書中】『学問のすすめ ほか』福沢諭吉 著、 中公クラシックスJ12、2002年(08年再版)、1400円(税別)

目次:「学問のすすめ」「学問の独立」「丁丑公論」「痩我慢の説」

 「「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と云えり。」という初編の冒頭の一文はやたら有名ですが、では「学問のすすめ」をちゃんと最初から最後まで読んだ人はどのくらいいるのでしょう。そもそも最初の文の「云えり」さえ省略されがちですよねえ。で、そこから数行後には「賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりて出来るものなり。」とあります。だからこその「学問」のすすめなのですが、ここでも注意が必要です。まず著者が育ったのは江戸時代の身分制度の中。そして新しく出会ったのがそれを全否定するかのようなアメリカの民主主義。さらに「学問」は、実学を一とし、机上の学問は「次」としています。「平等」な社会の中でのし上がっていくために必要な「学問」はまずは「実学」である、と。これには、「アメリカン・ドリーム」だけではなくて欧米が「科学の世紀」であったことも大きな影響があるでしょう。ただ「二者択一」で「机上の学問」を全否定しているわけではありません。
 しかし「身分重くして貴き者」の例として「医者、学者、政府の役人、大きな商売をする町人、大百姓」が列挙されていますが、見事に「江戸時代の身分に対する否定」ですね。
 本書で重要なのは、著者の発想の“素直さ”です。たとえば「人は同等」だと言います。すると、どの国の「人」も同等なのですから、その結果として「どの国も同等」という結論が導き出されます。「個人の独立」が重要と福沢は主張しますが、その結果は「独立した国家」の誕生です。
 「学問のすすめ」ではなくて「学問の独立」の方では、学問と政治とはまったく違うものであるから「学問の政治からの独立」を強く主張しますが、それは同時に「政治の学問からの独立」も意味する、と言います。おお、これは重要な指摘です。江戸人なのに、この頭の柔らかさはどうでしょう。私は感動しました。
 「丁丑公論」では、西郷隆盛が取り上げられています。「世論にいわく、西郷は維新の際に勲功第一等にして、古今無類の忠臣たること楠木正成のごとく、十年を経て謀反を企て古今無類の賊臣となり、汚名を千載に遺したること、平将門のごとし」と、まるで手の平を返したかのような「世論(人心)」の動きを嘆いています。「現在」にそのまま通じる論です。
 「世の中を真っ直ぐに見通す目」は、時代を超えるのでしょう。そんな目を持ちたいものです。



そ、そ、

2012-03-04 18:47:09 | Weblog

 ずっと昔のことですが、テレビのコマーシャルで「ソ、ソ、ソクラテスもプラトンも、み~んな悩んで大きくなった」というのがありました。今コマーシャルでそういった哲学者などの名前をすらっと使うことは考えられませんね。昔の「一部のエリートだけが高等教育を受ける」社会から、こんなに高学歴社会になったのにねえ。

【ただいま読書中】『非Aの世界』A・E・ヴァン・ヴォークト 著、 中村保男 訳、 創元推理文庫、1966年(84年25刷)、380円

 青春期でまだSF初心者だった私が、タイトルだけで“やられて”しまった本です。もう青春期ではなく、でもまだSF初心者の私が今また“やられて”しまうかどうか、さて。
 「ゲーム」のために〈機械〉の都市にやってきたゴッセンは、自分の記憶がおかしい(誰かにいじられている)ことを知ります。ゲームに勝てば、良い地位を手に入れることができます。優勝すれば、金星行きの権利。しかし、ゲームに勝ち残ることだけではなくて、ゴッセンは混乱の中で、自分が何者か、誰が自分の記憶をいじったのか、も探り出さなければならなくなります。
 いや、混乱もしますよ。死んだはずの妻パトリシアが生きており、しかも彼女は地球大統領の娘です。出身地の町について詳細な記憶はありますが(そこの住民も知り合いです)、ところがそこの住民はゴッセンのことを知らないと言います。では、“私”は、誰?
 ときは2650年。地球で重要なのは「非アリストテレス主義」「非ニュートン主義」「非ユークリッド主義」。一昔前だったら「超人」扱いされたであろう、論理と感情とを統合した(さらには肉体さえ完璧にコントロールできる)人間がのし上がっていく社会です。
 ゴッセンは謎の勢力に追われ、あっさり射殺されてしまいます。ところが殺された記憶を持って金星で復活。誰がどうやって? その手段と目的は不明のまま、ゴッセンはまた「自分探し」を強いられることになります。地球に逆戻りをしたゴッセン(二世)は、どこかに自分の三世の肉体が出番を待っていることを知ります。必要な“手続き”は、ゴッセン二世の自殺。しかし、金星は襲われ、ゴッセン三世の肉体は破壊されてしまいます。二世がなんとかするしかありません。
 ゴッセンの“役割”は、全銀河敵規模での“ゲーム”の駒でした。金星侵略はそのゲームの一環でしかなかったのです。ではそのゲームの“指し手”は誰? ちらちらと「一般意味論協会」の名前が登場しますが、その詳細は説明されません(というか、本書ではほとんどの詳細は説明されずに、怒濤の如くストーリーが進んでいきます)。「予備脳」を鍛えて人間離れをした能力を手に入れたゴッセンはついに一般意味論協会に乗り込みます。
 私の記憶では「非A」の世界では「一般意味論」が重要な役割(というか、ガジェット)だったはずですが、あれは「非Aの傀儡」の方だったかな?  確認するためにはあちらも読んでみなければならないようです。



優秀なテスト

2012-03-03 18:37:28 | Weblog

 学校のテストや病院の検査で、「何ができないか」はわかります。「現在何ができるか」もいくらかはわかるでしょう。でも「これから何ができるか」は、わかりません。

【ただいま読書中】『南極大陸に立つ ──私の南極探検記』白瀬矗 著、 毎日ワンズ、2011年、1500円(税別)

 日本海の荒浪や山で鍛えられて育った腕白小僧の著者は、学校には収まりきれず軍に入隊します。そこでも“ヤンチャ”をいろいろやっていますが(死にかけたことが一度や二度ではありません)、なぜか児玉源太郎将軍の知己を得ます。そしてまたいろいろあって(笑)、軍を退役。著者は北極探検の手慣らしとして、千島探検に出かけます。列島北端の占守島で越冬。翌年カムチャッカ半島にも足を伸ばしてまた越冬。そのころ日本は日清戦争で大騒ぎでした。
 著者は2回目の探険では、アラスカに上陸します。無事帰国すると日露戦争。従軍して中尉となった著者はこんどこそ北極、と勇み立ちますが、保護者のはずの児玉将軍は病死、そして明治42年にはアメリカのピアリーが北極踏破を成功させてしまいます。北がだめなら南です。著者は南極を目標とします。しかしシャクルトンが南緯88度まで到達。さらにこんどはスコットが探検隊を組織しています。著者はあせりますが、金がありません。請願書を出した議会は予算を通しますが、官僚は金を出しません。ならば国民に広く訴えよう、と著者は思い立ちます。演説会を開催して国民から広く支持と募金を集め、さらに後援会長には大隈重信、影で尽力してくれるのが乃木希典、といった有力者も得ることができます。
 入手した船は、三本マストの帆船で補助機関つき、長さ30m、総トン数は204トン。なんつう小舟だ、と思いますが(第三代南極観測船「しらせ」は基準排水量が11,600トンです)、著者は、北極圏の密漁船はこれより小さい、と意に介しません。名前は「開南丸」。名付け親は東郷平八郎だそうですが、私は一瞬たじろぎます。だって……「海難丸」と読めちゃうんですもの。ともかく、明治43年11月28日、スコットには相当遅れて探検隊(上陸隊員は9名、船員18名)は出港します。といっても、そこから荷積みをする必要があり、本当に出港したのは翌日のことでしたが。暴風雨、無風帯、暑熱を越えて七十余日、一行はニュージーランドに入港します。
 さて、いよいよ南極圏です。濃霧、ペンギン、氷山、オーロラ……だんだんお膳立てが整います。ついに南極大陸を視認、さあ上陸だ、と心は逸りますが、猛吹雪と結氷が探検隊の行く手を遮ります。そもそもときは3月。南極はこれから長い「冬」になる時期なのです。一行は涙を呑んでオーストラリアに引き返します。そこで知ったのは「アムンゼン極地上陸」のニュースでした。
 オーストラリアは排日思想が強く、受け入れてもらうために一同は苦労をします。さらに経費節減のために、(もちろん許可は取って)公園に探険用の簡易住宅を設営してそこで自炊生活。バンカラです。はじめは「野蛮人見物」に人が集まりますが、やがて一行は「日本の勇士」扱いになり、こんどは賞賛の観衆が集まることになります。積極的な令嬢たちはつぎつぎ白瀬にプロポーズ。いやもう、明治の男子がどんな反応をしたのか、想像したら笑えます。舞踏会のシーンは、想像しなくても笑えます。
 国内では、大隈重信や後援会が新聞社などを動かし全国的なキャンペーンを興していました。昭和の南極探検は朝日新聞から始まりましたが、マスコミの力は大きい(大きかった)んですね。
 物資が補充され、いよいよ第二次探険の開始です。すでにアムンゼンとスコットが上陸した以上、極点を目指すのは無駄、と著者は目的を「上陸」と「学術探検」に切り替えます。なかなか現実的です。氷山と流氷をかわしながら開南丸は南進します。そしてついに明治45年1月16日に上陸成功。奇しくもその翌日はスコット大佐が南極点に到達した日でもありました。
 近くに停泊していたフラム号(アムンゼンの帰還を待っている船)を著者は訪問します。氷海航行用に開発された特別船ですが、それでも総トン数は402トンです。当時の人の度胸と技術には、敬服します。フラム号から開南丸を訪問した人は、その小ささと装備の貧弱さに呆れていますが。
 さて、ここからが“本番”です。犬ぞりを仕立てての“突進”です。そのために大変な思いをしてわざわざカラフト犬を連れてきたのですから。9日間突進を続け南緯80度5分に到達。ここで食糧が限界に達したため、探検隊はその一帯を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名して「ここは日本領土である」と宣言します(シャクルトン中尉が別のところで「ここは英国領土である」宣言をしたのに倣ったそうです)。
 「無謀だ」と「すごい」と、感想はこの二言に集約されます。千島探険では隊員から何人も死者が出ていますが、南極の方では死者が出なくて、よかった。著者は直情型の人間のようですが、非常に柔軟なところもある、しなやかな直情とでも言うべきタイプの人のようです。「快男児」というのは、こういった人のためのことばだったのかな?



言葉が通じない人

2012-03-02 19:00:27 | Weblog

 世の中には「言葉が通じない人」が多くいます。
 まずは「ことば自体が通じない」。外国語とか強い方言がそのわかりやすい例でしょう。
 語彙は共通でも「パラダイムが違う」場合もことばは通じません。強い宗教的信念とか専門用語にどっぷり浸かっている専門家とかがわかりやすい例になるでしょうか。「同じことば」を使っているはずなのに、そのことばに込められた「意味」や「ことばの使い方の原則や手法」がまったくこちらとは違っているから「生きた会話」が成立しにくい関係です。
 言葉が通じないのは困りますが、それでもここまでは“健康的”な話でした。
 病的な「言葉が通じない」場合もあります。最初から相手に耳を貸す気のない原理主義者とかイデオロギーこちこちの人。精神障害。認知症。失語症。コミュニケーションが成立しなくて、両方が困るのは、同じなんですけどね。

【ただいま読書中】『道化師の蝶』円城塔 著、 文藝春秋2012年三月特別号、848円(税別)

 先月『共喰い』を読んで、この雑誌はそのまま机の上に置きっぱなしにしていました。やっとまたページを開く気になったので、もう一つの芥川賞受賞作を読むことにしました。
 「100万部のベストセラーでも、日本の総人口の1%も読んでいない」は、以前書いたことがあるかもしれません。そして「その1%」の中でも、その作品と「言葉が通じている」人が何割いるかは、不明です。少なくとも10割ではないでしょう。そして、本書で著者は明らかに「すべての人とことばを通じさせよう」とはしていません。むしろ「通じなければ通じないで良い」とでも言いたそうな態度であるかのように見えます。
 本作を読んでいて、『共喰い』とのあまりのテイストの違いに、頭がぐらぐらしそうでした。『共喰い』は、新しい試みはあるにしても、その“構造”と“ことば”は、古典的な枠を保っていました。ところが本作は、そういった「枠」自体を持とうとせず、まるでひらひらと舞う蝶のように、というよりも、線香花火のように、ぱち ぱち ぱち とあちこちに火花を散らしながら思いもかけない方向に転がっていきます。あるいは転がるふりをしてそこにとどまっています。火花が散るたびに“何か”が見えます。飛び散る火花自身の形、そして、火花が照らす回りの何かが。しかしそれらは、見えたと思った瞬間消え去るのです。
 著者が使うことばは、「通じないことば」についての物語のようです。それも「物語でことばを使うことについてのメタ物語」というよりは、「メタ物語についての物語」。
 人の頭から飛び立つ架空の蝶は、ことばのメタファーのようですが、実は案外私たちが生きている言語世界での「現実の姿」なのかもしれません。私たちの視覚ではそれが見えないだけで。
 ただ、本作を読みながら、私はにやにやとだらけていました。この作品がわかったかどうかはわかりません。たぶん私は“わかっていない”でしょう。でも、胸がどきどきして、楽しめました。だから、ヨシです。私のこの感想、“通じ”ましたか?



支配する人される人

2012-03-01 18:31:06 | Weblog

 かつての世界では、人は迷信に支配されていました。そういった人の中で「迷信を支配する人」が権力者と呼ばれました。やがて宗教がシステム化され、「宗教を支配する人」が「宗教に支配される人でできた社会」の権力者となりました。
 今の世界では、人は科学に支配されているかのようです。ではこの社会で権力者は「科学を支配する人」かと言えば、必ずしもそうではありません。
 昔と今と、何が違うのでしょう?

【ただいま読書中】『希望の遺伝子 ──ヒトゲノム計画と遺伝子治療』ダニエル・コーエン 著、 西村薫 訳、 工作舎、1999年、2500円(税別)

 ヒトゲノム計画。人の遺伝子をすべて「読」む計画です。国家プロジェクトとしたアメリカに対抗して、フランスで著者はヒトゲノム計画を立ち上げます。まずは作業の自動化。機械の速度・正確さ・信頼度まで、著者らはベルタン社と協力して、「遺伝子解析」の“自動工場”を作り上げます。次は新しいバイオ技術。DNAの断片を少しでも大きく取ってクローニングする方が分析には有利です。そのために著者のチームは酵母に目をつけました。酵母人工染色体(YAC)で20万塩基のヒトDNAの断片をクローニングできていた技術を5年かけて改良、メガYACによって100万塩基の断片を扱えるようにしたのです。
 1992年にはすべての“手札”がそろい、どっと“成果”が出始めます。それまで「金ばっかり使って何の成果も出ないじゃないか」と言われていた著者の研究は「大穴を当てた」と言われます。
 遺伝子を読むだけでは、大したことは起きないように思えます。強いて言うなら「特定の病気(たとえば乳癌)になりやすい傾向」がわかれば、検診を熱心に受けるように勧める、とか、特定の遺伝病の家系の人がその病気を恐れて避妊していた場合に、胎児の遺伝子を調べて大丈夫だったら安心して出産できるようになる、とか、とりあえず「良いこと」はそれくらいでしょうか。
 「劣性遺伝子」が両親から伝えられて「ホモ接合子」となると子供に劣性遺伝子の病気が発病します。では「劣性遺伝子撲滅運動」が望ましいのか、と言ったら、それはだめ。だって、人は誰でも平均15~20くらいの病気の遺伝子を持っている「保因者」なのですから。それと、そういった劣性遺伝子がずっと人類とともに存在していることの「理由(もしかしたら生物学的に有利なものがあるのかもしれない)」を人は完全には理解していません。完全に理解していないものを撲滅してはいけません。
 著者は「ヒトゲノム計画」にケチをつける人には我慢がならないようです。「なぜ明るい面を無視ししてわざわざ暗い面ばかりを見ようとするのだ」「まだ起きていない“不幸”を心配するのなら、そのエネルギーを“現在目の前にある不幸”の解決に向けたらどうだ」「科学はそれ自体が“悪”ではない。悪人(独裁者、全体主義者)が使うから“悪”になる」といった主張を繰り返します。
 一理あるとは思います。ただ、原子力でもそういった「ポジティブ側の人たち」が頑張った結果がどうなったか、ということも考え合わせると、“ブレーキ役”とか“監視者”は必要だろうな、というのが私の結論です。
 科学によってもたらされるのは「より正確な情報」であって、「よりよい社会」ではない、と著者は指摘します。当然ですね。「社会を良くする」のはたぶん「政治の仕事」ですから(政治家がどう思っているかは知りませんが)。
 さて、ヒトゲノム計画で様々な遺伝子病が明らかになったとしても、それは直接治療には結びつきません。そこで著者は「遺伝子そのものを治療する」夢を見ます。悪夢ではなくて明るい夢を。
 著者にとって「倫理」は「判断」ではなくて「情報開示」だそうです。だからこそ「きちんとした情報」を得ることができる「科学」が「希望」なのでしょう。