【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

残虐

2012-03-12 18:47:12 | Weblog

 幕末期、来日した外国人が印象深く書き留めていることの一つが「残酷な刑」です。公開処刑や死体や切った首をさらす行為がとても残虐だ、と。そして、実際に目の前にする礼儀正しく清潔で穏和な日本人とのギャップにさらにショックを受けるわけです。
 ただ、現代の私の目からは、そんなに西欧は残虐ではない国なのかな、と思えるのです。古代ローマから、公開処刑は西欧でも“伝統”でした。“人道的”な死刑方法であるギロチンも、公開でしょ。ロンドンでは19世紀に公開処刑は廃止されましたが、それは「残虐」だからではなくて、集まった群衆が暴動を起こしたことが大きな理由でした(と、本日読んだ本には書いてあります)。
 ……というか、「残虐ではない刑罰」なんてものが、存在可能なのかな?

【ただいま読書中】『血塗られた慈悲、鞭打つ帝国。 ──江戸から明治へ、刑罰はいかに権力を変えたのか?』ダニエル・V・ボツマン 著、 小林朋則 訳、 インターシフト、2009年、3000円(税別)

 明治期のあまりに急速な“近代化”の原因を「すでに江戸期にその“準備”ができていたから」という研究が多く発表されています。それは一つまちがえたら「江戸期の日本は、近代化以前の西欧“もどき”だった(=日本人は“名誉白人”)」になってしまいますが、はたしてそれでいいのでしょうか? 本書では「日本と帝国主義との出会い」そのものが「近代日本成立に不可欠な要素」だったことを、刑罰史を通して見てみよう、としています。
 戦国時代の刑罰の方法はなかなかのものです。死刑は、牛裂き・串刺し・煮殺し・釜炒り。“軽い”刑で切断刑がありますが、切られるのは、耳・鼻・指など。いずれも“平和な江戸時代”になって17世紀末には日本から姿を消しました。鋸引き(首を鋸で切り落とす)も行なわれていましたが、罪人を数日さらし者にするときにその横に鋸(それも竹製)を置くだけで、実際の処刑は磔になっていきました。江戸幕府は、各藩の自治権は認めていましたが刑罰は江戸に倣うことを求め、刑罰の“標準化”を進めていきます。そして18世紀半ばの公事方御定書で、全国で刑罰の体系化がさらに進みました。
 幕府は「お上の権威」を体制維持のために重視していましたが、それは、厳罰(恐怖)だけで示されるものではありませんでした。「明君」「仁政」「慈悲」というイメージも重要です(「生類憐れみの令」は本来こちら側のもののはずでした)。刑罰の場面では、被差別民が死体の処理などを公開の場で行なうことで「厳罰の実行者」のイメージを背負わされ、たまにちらりと慈悲を示す武士は“良いところ”を持っていくことになった、と著者は述べます。もちろん被差別民の方にも、権力に利用されることで特権を得る、というメリットがあったわけですが。ともかく「残虐さ」は単なる「無制限の暴力」ではなくて、「体制の秩序」のために必要なものと見なされていてある程度きちんと管理されており、さらに残虐だからこそちらりと見せる「慈悲」が効果を増す、という効能もありました。
 社会構造が変化し、農村は疲弊・都市部には無宿人が増加します。それに対して「死刑」と「追放」がメインの従来の刑罰では対応しきれません。そこで収容施設として(社会からの隔離と教育と労働が目的の)人足寄場が設置されました。最終目標は、都市から人を農村に送り返す(それによって米の生産力(=国力)を高める)ことですが、結局その目論見は上手くいきませんでした。
 西洋では、直接体を傷つける刑罰から、監禁と矯正を中心とするものへと刑罰の“近代化”が行なわれました。その動きは「帝国主義」と「啓蒙主義」とも結びつきますが、ここで面白いのは「その国が優れているから帝国となって世界を支配できるのだ」という主張が「帝国で行なわれていることはすべて優れている。その証拠に世界を支配している」と論旨の“逆転”が行なわれたことです。そして幕末期の日本でも「西欧で行なわれていることは優れている」という認識でそれらの制度を導入しようとしました。
 さらに欧米から日本は「東洋の野蛮国」であり、その証拠が「残虐な刑罰」でした。だから自国民をそういった残虐さから保護するために治外法権が強く要求されました。そこで明治政府は「日本は近代化されている」ことを示す必要があります。それができなければ条約改正は不可能なのですから。そこで刑罰制度の改革が行なわれました。もっともすぐに、というわけにはいきません。本書には、江藤新平が処刑後生首をさらされたことが写真付きで紹介されています。ともかく、海外の調査が行なわれ、ベンサムのパノプティコンにインスパイアされ、パノプティコンで重要な概念である「監視(されている/されているかもしれない)」と「獄舎」を組み合わせて「監獄」ということば(と施設)が作られます。西南の役で大量の収監者が発生したため、大規模な監獄があちこちに作られることになりました(特に北海道に大規模な監獄が作られ(囚人が自分たちで建設し)、それを拠点に入植が行なわれることになりました)。
 刑罰の改革は「文明化」であり「江戸の野蛮の否定」でしたが、実は「新しい形の野蛮の導入」でもありました。その結果「もう野蛮国ではない」と列強に認められて条約改正ができた頃、巣鴨の監獄が完成し、さらに同時期に日清戦争の勝利。台湾を手に入れた日本は晴れて「植民地帝国」となれたのです。そこで問われるのは「どのような刑罰制度を台湾で作るのか」ですが、それに必要なのは「どのような文明国としての原理を広めるか」の態度です。何をどう罰するかを決定するためには文明国の原理が確立していなければならないのです。そこで問題になったのが「笞刑」でした。台湾では一時廃止したこの刑を「後進民族には後進的な刑を」という発想で復活させたことが日本国内で大問題になったのです。「後進的」だった日本が「先進的な刑罰」を取り入れることで文明開化に成功したのに、それを台湾ではやらないのか、と。これは、明治維新の記憶がまだ新しいからこそ起きた議論でしょうね。ヨーロッパ諸国でやるとしたら、キリスト教とか人道とかややこしいものになりそうですが、日本だからこそ行なうことができた貴重な議論でしょう。当時その貴重さに気づいている人がいなかったらしいことは残念ですが、これが「歴史」の面白さなんでしょうね。




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