【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

死後の笑み

2012-03-17 18:58:36 | Weblog

 将来私が死んだ後、私の思い出を語る人や私が残した物を見た人の顔面に笑みが浮かんでいたら、それは私の人生が“よいもの”だったということで、私にとっての一番の供養になるのかな、なんて思うことがあります。
 まだ死ぬ予定はありませんけど、そろそろ(昔のことばで言う)「余生」について考えることがある時期になってきたものですから。

【ただいま読書中】『ペルリ提督日本遠征記(上巻)』土屋喬雄・玉城肇 共譯、 弘文荘、1935年、十五圓

 ずいぶんきれいだな、と思ったら、奥付が二つあって、二つめのを見たら1988年の復刻版(臨川書店)でした。
 M・C・ペリーの詳細な日記や公文書などを資料に編集された報告書です。ペリー自身が「余はこれを、余の公式の報告として提出す」と序文で述べています。
 日本は「マルコ・ポロ」によって「ジパング」として“世界”に知られました。やがて西洋人が日本に到達し、その姿が知られると「日本は支那の植民地であった」という説が興りました。どうも日本の文書に「中国の文字(漢字)」があったことがその根拠になったようです。しかし「ことばがまるで違う」ことが知られてからその説は消えたそうです。
 といった感じで、「日本とはいかなる存在であるか」から話は悠々と始められます。しかし、せっかく鎖国をしていたのに、日本の情報(たとえば“将軍”と“天皇”の権力の“二重構造”など)をペリーはけっこうきちんと掴んでいます。オランダ経由で世界中に情報が発信されていたのでしょうね。オランダと言えば、ペリーは「吾々は東洋に於けるイギリスの非行を辯明しやうとするのではないが……」とイギリスをしっかり非難した上で、オランダの対日貿易独占のための異様な努力をもっと力を込めて非難しています。まだ序論ですが、ここで私は「ペリーの日本遠征は、日本の鎖国を解くためではなくて、オランダの独占を破るためだったのではないか」という疑いを持ちます。
 メキシコとの戦争に勝ってカリフォルニアを併合した合衆国は、目の前に太平洋が広がっていることに“気づき”ます。その向こうには、日本。「ペルリ提督日本遠征」は、出発前から世界に公表されていました。したがってオランダも出島の商館もその情報は掴んでおり、商館長は幕府に「諸国との通商の開始、ただし長崎に限っての開港、オランダの特権」を勧告しました。しかし日本は反応しませんでした。ロシアは長崎に入港しオランダ商館長を通して条約締結をしようとしましたが、失敗しました。
 ペリーは集められるだけの情報は集め、「鎖国」が日本人の本性には相容れない政策である、と確信していました。また「アメリカの捕鯨船(その他)の避難港および給水港を幕府が日本本土に認めない場合には、琉球の港を軍事的に入手する。琉球を支配する薩摩は、アメリカの非武装のモリソン号を砲撃し、さらに琉球を恐怖政治で支配しているのだから、自分たちの行動は正当化される」と考えていました(それは大統領の考えともほぼ一致していました)。
 聖ヘレナから喜望峰、インド洋と、日露戦争のバルチック艦隊のことを思い出しながら私は“旅行記”を読みます。ただ、バルチック艦隊と違うのは、この遠征艦隊では貿易風の消長に敏感であることです。石炭と風の“ハイブリッド艦隊”ですから、石炭補給も重要です。ちゃんと石炭船を喜望峰とマウリシアスに先発させていています。
 シンガポールからはまた“西洋文明”の香りが濃厚になってきます。マカオ、香港、上海とたどり、5月26日木曜日に那覇に入港。琉球が日本領だとしたら、日本遠征隊の「日本」との初接触です。ペリーは一隊を内陸探険に送り出します。外交団であると同時に学術探検隊、という位置づけだったのでしょう。詳細なスケッチが紹介されていますが、ここまで細かい描写をする熱意には感心します。
 陸上探検隊だけではなくて、ペリーは艦隊の二隻を父島に送ります。米国にとってこの島は、将来の中国貿易での中継基地として重要視されていました。すでに将来の入植に備えて山羊が放たれて野生化したりしていました。
 場面は一転、ついに江戸湾です。
 この報告書は、公文書としての性格からか、きわめて簡潔な描写が積み重ねられていますが、それがかえって劇的な効果を生んでいます。
 ……しかし、幕府にとってこのペリー来航は「想定外」だったのでしょうか。来るとしてもまず長崎へ、と想定していたのかな。まるで「地震や津波は起きるだろうが、原発には届かない」と“想定”していた人たちの同類であるかのように。
 ……あ、同類だった。



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