【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

世界博物館

2012-03-25 19:41:16 | Weblog

 「大英博物館には世界中の貴重な文化財が集まっている」とテレビで言っていました。大英博物館に限定しなくても、有名な博物館にはたしかに世界中のものが集まっています。ならばいっそのこと、「国」ではなくて「世界」に博物館は所属するようにして、たとえば大英博物館は「ザ・博物館の英国分館」といった形にしてしまったらどうでしょう。博物館が上手く国(政治)から独立できたら、文化のことなどわからない野蛮な国内政治家からの圧迫も避けられるようになるかもしれません。あ、そんなことを平気で言う野蛮な政治家が威張っているのは野蛮国だけで、日本のような“文明国”は、大丈夫……ですよね?

【ただいま読書中】『パナマ運河』山口廣次 著、 中公新書564、1980年、460円

 先日マラリアについて読んだら、パナマ運河のことが出てきたので一応その関係の本も抑えておくことにしました。著者は元パナマ大使で、その縁でパナマ運河について詳しく調べたのが本書の始まりです。
 レセップスの生涯は「19世紀」とほぼ重なっています。有能な外交官で各地の大使を歴任したレセップスは、25年勤めた外交官をやめてから、情熱を向ける対象を「スエズ地峡の運河」に向けます。それを妨害するのはイギリス。「海の覇権」をフランスに脅かされると考えた大英帝国は、当時エジプトを支配していたトルコ皇帝に圧力をかけたり、レセップスの個人的信用を貶めようとしたり、先日の『人民は弱し 官吏は強し』の官吏のようにいろんな手を使って妨害します。それでもレセップスはついにスエズ運河を開通させ、「ヒーロー」となります。さて、次は大西洋と太平洋をつなぐ運河です。こちらはアメリカがニカラグアで本格的に調査を始めていました。レセップスは、当時コロンビア支配下にあったパナマを候補とします。ただ、レセップスは「海面式運河(レセップスのことばでは「水平運河」)」を考えていました。国際両洋運河研究大会(パリ会議)の場でレセップスの演説が大喝采を受けた後、レピネーという無名の技師が「パナマ運河」の新しいアイデアを披露します。それはなんと現在のパナマ運河そのものの姿でした。さらに熱帯病対策についても言及します。しかしレピネーのアイデアは無視されました。各国には各国の思惑があり、「空想的なアイデア」にかまっている暇など誰にもなかったのです。結局「ニカラグア(アメリカ)」対「パナマ(レセップス」となり、事態は「科学」「学術」「技術」「工学」などではなくて「政治」になります(「政治とはそもそも対立である」と書いてあったのは、先日読んだ『学問のすすめ』の序文でしたっけ)。
 やっと計画が進行し始めますが、レセップスには、資金集め、ハゲタカ(レセップスから少しでも金を巻き上げようとする人)の集団などの“人為”との戦いが待っていました。さらにマラリアや黄熱病や地すべりといった“自然”との戦いも。レセップスの奮闘も虚しく、とうとう運河会社は破産。10億フランを注ぎ込んだ事業は失敗に終わります。
 そこで悠然と“歴史の表舞台”に登場するのが、アメリカです。アメリカはニカラグアのアイデアを捨てていませんでした(地図で見たらパナマより幅が広いのですが、中央の巨大なニカラグア湖が使えます)。それを熱心に妨害したのが、またも、イギリス。
 歴史って「何かを為した人」「何かを失敗した人」でできているようにみえますが、視点を変えて「何かを為そうとした人を妨害した人」の“業績”で歴史を描いたら、それはそれで面白そうです。だって妨害者も“悪人”ではなくて、なんらかの“正義”に基づいて行動しているわけでしょ?
 米西戦争で、太平洋から戦艦オレゴン号をキューバに派遣するのにとんでもない時間がかかったことから、米国内では「運河」の必要性に共通認識が生まれますが、こんどは「ニカラグア派」と「パナマ派」の対立が生じます。いやいや。紆余曲折があってやっと国内がまとまったら、こんどはしんどい外交交渉の始まりです。この辺は著者の商売柄、とてもわかりやすく書かれています。コロンビアは結局アメリカの提案を拒否。ならば、パナマ州の独立です。コロンビアは500人の兵士を送り込みますが、それを迎え撃つのは、アメリカの砲艦一隻だけ。さて。
 いろいろあって、やっと工事が始まりますが、同時に混沌も始まります。どうしてこの世にはこんなに「真っ直ぐには仕事をしたくない人」が多いんでしょうねえ。そして、やっと「真っ直ぐに仕事をする人」が主任技師になってまず始めたことは、今やっている工事の中止でした。まずは多数の人間が住む場所には必ず必要な施設の整備。それから、衛生改善。これまで多数の人命を奪ってきた熱病対策です。「土を掘らずに蚊やねずみ退治ばかりやっている」と悪口を言われますが、結果は翌年には出ました。1905年に206件あった黄熱病が翌年には1件になったのです。(当時はまだ、動物が病気を媒介することは“常識”ではありませんでした) 次は「基本計画」の策定です。というか、それまでなかったんですね。まず掘ってから考えよう、てか? そこでまた“対立”は国内へ。海面式と水門方式の対立です。
 本書を読んでいて「紆余曲折する運河」という副題を私は与えたくなりました。いやあ、この世の中、ビッグプロジェクトはどこでも大変なんでしょうね。おっと、小さなことでも合意を取りつけるのは、大変でした。