わが家のトイレにぶら下がっているカレンダーの1月分には「田子の浦に 打ち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ(山部赤人)」とあります。中学でこの歌を覚えた時には「田子の浦ゆ」じゃなかったっけ、と思いながら眺めていて、「果たして海岸から富士の高嶺に雪が降っている様を目撃できるだろうか」ということが気になりました。「白妙」なのですから富士の高嶺に雪が積もっていることは明らかです。でも、現在「雪が降りつつ」あるかどうかはどうやって判断できます? 肉眼ではちょっと見えないと思います。これは田子の浦に現在雪が降っていて、そのことを“遠近法”を駆使して歌に詠んだのかな、と結論を出したところでトイレの用は済みました。
トイレを出てちょっと調べてみると、山部赤人の元歌(万葉集)は「田子の浦ゆ 打ち出でてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」だそうです。「ゆ」は経由を示すので「田子の浦を通って富士が見えるところに出たら、あら、お山は雪で真っ白だ」となって、あらら、百人一首とは別の意味ですね。やっぱり「つつ」よりは元歌の「ける」の方が収まりは良いと私は感じます。
もしかしたら、藤原定家の時代にはすでに「ゆ」は人気がなくなっていて「これを使ったら人々に理解してもらえない」という判断から「に」に変更し、それでは歌のダイナミズムが失われるから最後の「けり」を「つつ」にすることでダイナミズムを復活させる、という判断が選者の定家にあったのかな、なんていろいろ想像は膨らみます。
【ただいま読書中】
『虚数』スタニスワフ・レム 著、 長谷見一雄・沼野充義・西成彦 訳、 国書刊行会(文学の冒険シリーズ)、1998年、2400円(税別)
ふざけた本です。「序文」だけ集めたアンソロジーなのですが、その序文はすべて「まだ書かれていない本」のためのものなのです。さらにごていねいにこの作品集にはそれ自体の「序文」までくっついていて「序文」について熱く語ってくれています。そこではこんなことが語られます。「本を書くことはいわば“罪”だから、私はじっと我慢して罪そのもの(本を書くこと)は冒さないつもりなのだが、その罪の予告だけはこういった序文の形で示そう」……ナンデスカコレハ。さらに「序文作家」なるものまで登場します。
それぞれの(架空の)作品もぶっ飛んでいます。トップの「ネクロビア」は、レントゲン撮影されたポルノグラムです。「序文」を読むだけでいろいろな「絵」が頭に浮かびますが、たしかにここに書いてあるように妊婦のヌードレントゲングラムを想像すると、それはたしかに「生と死」でありかつ「性と死」です。
「エルンティク」は、細菌にことば(モールス信号)を教えようとする学者の話です。ところが言葉を覚えた大腸菌が語り始めたものは……いや、抱腹絶倒。本当に“この本”を読みたくなります。たとえ学術書ではなくてファンタジーの書棚に並べられたとしても。
「ビット文学の歴史(全5巻)」は、コンピュータが製作した文学作品に関する学術書です。ちなみに、本書の発表は1973年ですが、すでに人工無能に関する記述が見えます。さらに、人工知能に知性があるかどうかをテストするためのチューリングテストをやっていると、コンピューターの方も「今自分の相手をしている人間に知性があるのだろうか」という疑いを持つ、というとんでもない指摘も登場します。
ページ数は、本書の頁とそれぞれの序文の頁が入り乱れ、フォントや段組もそれぞれの序文で異なり、未来予測コンピューターによって執筆された百科事典の見本は左開き、と、レムは内容だけではなくて形式でも遊びまくっています。頁を開くと文字が勝手に立ち上がってきて、目の前にそれぞれの世界を構築してくれます。
そうそう、強いて各作品の共通点を探すなら、どれも「人間が人間を対象に書いた文学作品では“ない”」こと。
「消しゴムで書く」と言ったのは安部公房ですが、スタニスワフ・レムは「頭の中にある構想を本にせず、その序文だけを書くことだけにする」ことで読者にその「構想」を伝えようとしたようです。いやあ、面白く時間を過ごせました。
トイレを出てちょっと調べてみると、山部赤人の元歌(万葉集)は「田子の浦ゆ 打ち出でてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」だそうです。「ゆ」は経由を示すので「田子の浦を通って富士が見えるところに出たら、あら、お山は雪で真っ白だ」となって、あらら、百人一首とは別の意味ですね。やっぱり「つつ」よりは元歌の「ける」の方が収まりは良いと私は感じます。
もしかしたら、藤原定家の時代にはすでに「ゆ」は人気がなくなっていて「これを使ったら人々に理解してもらえない」という判断から「に」に変更し、それでは歌のダイナミズムが失われるから最後の「けり」を「つつ」にすることでダイナミズムを復活させる、という判断が選者の定家にあったのかな、なんていろいろ想像は膨らみます。
【ただいま読書中】
『虚数』スタニスワフ・レム 著、 長谷見一雄・沼野充義・西成彦 訳、 国書刊行会(文学の冒険シリーズ)、1998年、2400円(税別)
ふざけた本です。「序文」だけ集めたアンソロジーなのですが、その序文はすべて「まだ書かれていない本」のためのものなのです。さらにごていねいにこの作品集にはそれ自体の「序文」までくっついていて「序文」について熱く語ってくれています。そこではこんなことが語られます。「本を書くことはいわば“罪”だから、私はじっと我慢して罪そのもの(本を書くこと)は冒さないつもりなのだが、その罪の予告だけはこういった序文の形で示そう」……ナンデスカコレハ。さらに「序文作家」なるものまで登場します。
それぞれの(架空の)作品もぶっ飛んでいます。トップの「ネクロビア」は、レントゲン撮影されたポルノグラムです。「序文」を読むだけでいろいろな「絵」が頭に浮かびますが、たしかにここに書いてあるように妊婦のヌードレントゲングラムを想像すると、それはたしかに「生と死」でありかつ「性と死」です。
「エルンティク」は、細菌にことば(モールス信号)を教えようとする学者の話です。ところが言葉を覚えた大腸菌が語り始めたものは……いや、抱腹絶倒。本当に“この本”を読みたくなります。たとえ学術書ではなくてファンタジーの書棚に並べられたとしても。
「ビット文学の歴史(全5巻)」は、コンピュータが製作した文学作品に関する学術書です。ちなみに、本書の発表は1973年ですが、すでに人工無能に関する記述が見えます。さらに、人工知能に知性があるかどうかをテストするためのチューリングテストをやっていると、コンピューターの方も「今自分の相手をしている人間に知性があるのだろうか」という疑いを持つ、というとんでもない指摘も登場します。
ページ数は、本書の頁とそれぞれの序文の頁が入り乱れ、フォントや段組もそれぞれの序文で異なり、未来予測コンピューターによって執筆された百科事典の見本は左開き、と、レムは内容だけではなくて形式でも遊びまくっています。頁を開くと文字が勝手に立ち上がってきて、目の前にそれぞれの世界を構築してくれます。
そうそう、強いて各作品の共通点を探すなら、どれも「人間が人間を対象に書いた文学作品では“ない”」こと。
「消しゴムで書く」と言ったのは安部公房ですが、スタニスワフ・レムは「頭の中にある構想を本にせず、その序文だけを書くことだけにする」ことで読者にその「構想」を伝えようとしたようです。いやあ、面白く時間を過ごせました。