激しい逆風も後ろを向けば順風です。「風が悪いんじゃなくて自分の向きが悪かったんだ」と“順風”に従うのも一つの人生ですし、「逆風を楽しもう」もまた一つの人生でしょう。
【ただいま読書中】
『路傍の石』山本有三 著、 偕成社文庫3115、2002年、900円(税別)
高等小学校2年の吾一は学校一の優等生ですが、家に金が無いため中学校には行けません。おやつを我慢して1銭2銭と貯めた金も、没落士族で訴訟マニアの父親に使われてしまいます。そういった不遇の環境を、バネにできたら良いのですが、吾一は劣等感から意地になるだけで結局自分を悪い方に追い込んでしまいます(そのあたりの表現が、子ども向けの文章できわめて“上等”に展開されます)。構成も工夫されていて、子どもの世界の描写に、大人同士の会話シーンが挟まれます。これで物語の背景が理解しやすくなる、という仕掛けです。
吾一は近くの呉服屋に小僧として奉公に入ります。勉学へのあこがれはやまず、吾一は奉公に身が入りません。しかし、そこのお坊ちゃん(小学校で吾一の同級生で劣等生だったが中学には無試験で入学できた)があまりに勉強ができないため、吾一がその宿題をかわりにやることになります。藪入りで吾一が初めて家に帰った翌日、不平等条約改正が行われます。そして母の死。東京にいる父親からは連絡がありません。吾一はついに、店を逃げ出し汽車に乗って上京します。父親には会えず途方に暮れていた吾一は、「おともらいかせぎ」の老婆と出会います。(お葬式に会葬者のふりをして参列して、帰りに引き物の菓子折や切手をもらいそれを売る「商売」です) おきよばあさんは、吾一を助手にスカウトします。
本書で黒田という書生が言ったことばですが、艱難辛苦は人を玉にしますが、荒砥石ばかりにかかっていると人間はすり減って無くなってしまいます。吾一はその荒砥石にばかりかかっている様子です。しかし黒田が保証人になってくれて吾一は印刷工場の小僧になれます。さらに商業学校への進学の道が開け……そうなところで本書は中絶します。
「努力をしたら報われる」とか「白馬の騎士が迎えに来てくれる」といった物語ではありません。理不尽なくらい吾一は不幸の連続ですが、では彼がただひたすら健気に生きているかと言えば実はそうではありません。「わざとやっているんじゃないか」と言いたくなるような、あえて自分を不利な立場に追い込む行動もけっこうやってくれます。ただしそれは吾一一人ではありません。本書に登場する人はほとんどがそういった面を持っています。人生の重要な局面で、誰が見ても「それはないよ」という決断を、たとえば「誰かに反対されたから、かえって意固地になって」といった程度の理由で自分でも「これはまずい」と思いつつ重大な決断をしてしまう人が続々登場します。
戦争前に著者がなぜ明治時代の少年の物語を書いたのか、そしてなぜ物語を中絶させたのか、不思議です。もしかしたら、吾一の人生に「日本」を重ね合わせていたのかもしれない、と私は感じました。ただ、もしそうだったら、著者の目に映った「日本」は、自分なりのスジを通して愚直に生きようとする吾一なのか、それとも意地を通すことで結果としてどんどん人生が窮屈になっていく吾一なのか、どうなんでしょう。
【ただいま読書中】
『路傍の石』山本有三 著、 偕成社文庫3115、2002年、900円(税別)
高等小学校2年の吾一は学校一の優等生ですが、家に金が無いため中学校には行けません。おやつを我慢して1銭2銭と貯めた金も、没落士族で訴訟マニアの父親に使われてしまいます。そういった不遇の環境を、バネにできたら良いのですが、吾一は劣等感から意地になるだけで結局自分を悪い方に追い込んでしまいます(そのあたりの表現が、子ども向けの文章できわめて“上等”に展開されます)。構成も工夫されていて、子どもの世界の描写に、大人同士の会話シーンが挟まれます。これで物語の背景が理解しやすくなる、という仕掛けです。
吾一は近くの呉服屋に小僧として奉公に入ります。勉学へのあこがれはやまず、吾一は奉公に身が入りません。しかし、そこのお坊ちゃん(小学校で吾一の同級生で劣等生だったが中学には無試験で入学できた)があまりに勉強ができないため、吾一がその宿題をかわりにやることになります。藪入りで吾一が初めて家に帰った翌日、不平等条約改正が行われます。そして母の死。東京にいる父親からは連絡がありません。吾一はついに、店を逃げ出し汽車に乗って上京します。父親には会えず途方に暮れていた吾一は、「おともらいかせぎ」の老婆と出会います。(お葬式に会葬者のふりをして参列して、帰りに引き物の菓子折や切手をもらいそれを売る「商売」です) おきよばあさんは、吾一を助手にスカウトします。
本書で黒田という書生が言ったことばですが、艱難辛苦は人を玉にしますが、荒砥石ばかりにかかっていると人間はすり減って無くなってしまいます。吾一はその荒砥石にばかりかかっている様子です。しかし黒田が保証人になってくれて吾一は印刷工場の小僧になれます。さらに商業学校への進学の道が開け……そうなところで本書は中絶します。
「努力をしたら報われる」とか「白馬の騎士が迎えに来てくれる」といった物語ではありません。理不尽なくらい吾一は不幸の連続ですが、では彼がただひたすら健気に生きているかと言えば実はそうではありません。「わざとやっているんじゃないか」と言いたくなるような、あえて自分を不利な立場に追い込む行動もけっこうやってくれます。ただしそれは吾一一人ではありません。本書に登場する人はほとんどがそういった面を持っています。人生の重要な局面で、誰が見ても「それはないよ」という決断を、たとえば「誰かに反対されたから、かえって意固地になって」といった程度の理由で自分でも「これはまずい」と思いつつ重大な決断をしてしまう人が続々登場します。
戦争前に著者がなぜ明治時代の少年の物語を書いたのか、そしてなぜ物語を中絶させたのか、不思議です。もしかしたら、吾一の人生に「日本」を重ね合わせていたのかもしれない、と私は感じました。ただ、もしそうだったら、著者の目に映った「日本」は、自分なりのスジを通して愚直に生きようとする吾一なのか、それとも意地を通すことで結果としてどんどん人生が窮屈になっていく吾一なのか、どうなんでしょう。