新聞の投書欄にときどき「丹誠込めた花を盗まれて悲しい」という投書が載ります。
これらの投書は、本当に「花を愛する人」ならその花に込められた人の気持ちもわかるはず、と「情」に訴えているのですが、私にはその効果は疑問です。
たとえば「育てる手間を惜しんでとにかく簡単に結果だけが欲しい人」や「何かを盗みたい衝動を抑えられない人」には「情」はまったく無効でしょう。それどころが「他人を傷つけたい人」には「よし、これをすればあいつを傷つけられるんだ」と花を盗むことに関して促進効果を出す可能性さえあります。
【ただいま読書中】
『ローマ人の物語XV ローマ世界の終焉』塩野七生 著、 新潮社、2006年、3000円(税別)
皇帝テオドシウスの死後、二人の若い息子が東西で跡を継ぎます。軍の実権は蛮族出身のスティリコが握り東奔西走の蛮族退治に明け暮れていました。フン族の“圧力”によってローマになだれ込む蛮族は際限がなかったのです。そしてとうとう西ゴート族が(将来の)東西ローマの間に居座ってしまいます。北アフリカでは、同じキリスト教のカトリックとドナートゥス派との対立が激化。国力は衰え人口は激減します。しかし非生産者は増加(軍人、官僚、そして聖職者)。そして40万人のゲルマン人がイタリア半島に侵入します。迎え撃つスティリコがやっとかき集めた兵は、志願してきた未訓練の奴隷も含めて3万。それでも何とかしたスティリコですが、続いてガリアに15万人の侵入。さらにはブリタニアの軍団が勝手にガリアに脱出。「一体どうしろと言うんだ」と言いたくなる状況ですがスティリコは頑張ります。しかし、その“働き”に不満を持つ権力者たちはスティリコの足を引っ張り、ついには殺してしまいます。あとは蛮族の思うがまま。410年にローマは“劫掠”されます。弱ったローマは内紛でさらに弱り、そしてフン族の族長アッティラが登場。
アッティラは西ローマ帝国をターゲットに選定。フン族はドナウ川中流からライン川に移動します。ただしアッティラは戦略上のミスをします。すぐイタリアに侵攻すれば大きなチャンスが転がっていたのに、ガリアに入ってしまったのです。ガリアでもめていたゲルマン系の蛮族たちとローマ軍は共闘します。シャンパーニュでの会戦はローマの勝ち、というか、フン族の負けでしたが、翌年アッティラは北イタリアに侵攻し暴れ回ります。
しかし、このあたりを読んでいると「国を滅ぼすのには、そこそこ頭が良くて視野が狭く想像力がなくて嫉妬深い人間に権力を預ければ良いんだな」とわかります。頭が良くないといけない理由? 頭角を現すことができるし「自分はどうして正しいか」を周囲にも納得させるだけの理屈をこねることができますから。頭の悪さはその周囲の有象無象に必要な能力です。
都市ローマの劫掠は繰り返され、そして「ローマ」は滅びます。あっさりと、さりげなく。もちろん「東ローマ帝国」は残っていますから、言語上は「ローマ」は残っていますが、著者にとって「都市としてのローマを中心とした帝国」あるいは「ローマ人のローマ」は滅んだとなるのでしょう。
ブリタニアは「アーサー王の時代」となります。ガリアは、フランク族が西ゴート族を圧迫。ただし蛮族が「侵略しては去る」時代から「侵略して定着する」時代になると「統治」の問題が生じます。自分たちよりはるかに多くの土着の民を支配するためには、蛮族には「ローマの遺物」である統治機構をそのまま使うしか手がなかったのです。さらにキリスト教が蛮族にも広がります。北アフリカはヴァンダル族の支配下に入りますがここではカトリックに対する激しい弾圧が行われました。イタリア本国では「勝者と敗者の共生」政策が行われました。行政はローマ方式、軍事はゲルマン人が担当、という棲み分けです。ローマで行われた「勝者と敗者の同化」とは似て非なる方式です。元や清で行われた騎馬民族による漢民族支配を私はちょっと思い出しました。
東ローマ帝国も国力は低下しており、ササン朝ペルシアとの紛争と同時に西を攻める余力はありませんでした。さらに、やっと兵力をやりくりしてヴァンダル族から奪還した北アフリカは、統治のまずさから砂漠化してしまいます(かつては「ローマの穀倉」だったのですが)。そして南イタリアからビザンチン軍が侵入してゴート戦役となります。ビザンチンの将ベリサリウスが率いるのは5000の兵。それで15万のゴート軍に対するのですが……このゴート戦役によってイタリアは徹底的に破壊されてしまいます。疲弊したのはビザンチンとササン朝ペルシアも同様で、そこにイスラム化の嵐が……
これまでずっと本書のカバーには「ローマ人の顔」の写真が使われていました。しかし、本書では表も裏も水道橋の写真です。どちらも途中が崩れてとびとびになった遺跡ですが、この写真を見ていると「断続」を思います。「断たれていること」と「続くこと」。
「ローマ」は滅びました。それは「断」です。しかし想像力で断ち切られた水道橋をつなぐことが可能なように、「ローマ人の考え方」「ローマ人としての生き方」はこの歴史の中にまだ続いている、と著者はこの写真で主張しているのではないか、と私には思えるのです。
本シリーズと同じ発想で「日本人の物語」を読みたくなりました(これは前にも書いたかな?)。
で、やっとシリーズが終了、と思ったら『ローマ亡き後の地中海世界(上)』が出版されたそうで。これもシリーズが貯まってから読破しようかな。
これらの投書は、本当に「花を愛する人」ならその花に込められた人の気持ちもわかるはず、と「情」に訴えているのですが、私にはその効果は疑問です。
たとえば「育てる手間を惜しんでとにかく簡単に結果だけが欲しい人」や「何かを盗みたい衝動を抑えられない人」には「情」はまったく無効でしょう。それどころが「他人を傷つけたい人」には「よし、これをすればあいつを傷つけられるんだ」と花を盗むことに関して促進効果を出す可能性さえあります。
【ただいま読書中】
『ローマ人の物語XV ローマ世界の終焉』塩野七生 著、 新潮社、2006年、3000円(税別)
皇帝テオドシウスの死後、二人の若い息子が東西で跡を継ぎます。軍の実権は蛮族出身のスティリコが握り東奔西走の蛮族退治に明け暮れていました。フン族の“圧力”によってローマになだれ込む蛮族は際限がなかったのです。そしてとうとう西ゴート族が(将来の)東西ローマの間に居座ってしまいます。北アフリカでは、同じキリスト教のカトリックとドナートゥス派との対立が激化。国力は衰え人口は激減します。しかし非生産者は増加(軍人、官僚、そして聖職者)。そして40万人のゲルマン人がイタリア半島に侵入します。迎え撃つスティリコがやっとかき集めた兵は、志願してきた未訓練の奴隷も含めて3万。それでも何とかしたスティリコですが、続いてガリアに15万人の侵入。さらにはブリタニアの軍団が勝手にガリアに脱出。「一体どうしろと言うんだ」と言いたくなる状況ですがスティリコは頑張ります。しかし、その“働き”に不満を持つ権力者たちはスティリコの足を引っ張り、ついには殺してしまいます。あとは蛮族の思うがまま。410年にローマは“劫掠”されます。弱ったローマは内紛でさらに弱り、そしてフン族の族長アッティラが登場。
アッティラは西ローマ帝国をターゲットに選定。フン族はドナウ川中流からライン川に移動します。ただしアッティラは戦略上のミスをします。すぐイタリアに侵攻すれば大きなチャンスが転がっていたのに、ガリアに入ってしまったのです。ガリアでもめていたゲルマン系の蛮族たちとローマ軍は共闘します。シャンパーニュでの会戦はローマの勝ち、というか、フン族の負けでしたが、翌年アッティラは北イタリアに侵攻し暴れ回ります。
しかし、このあたりを読んでいると「国を滅ぼすのには、そこそこ頭が良くて視野が狭く想像力がなくて嫉妬深い人間に権力を預ければ良いんだな」とわかります。頭が良くないといけない理由? 頭角を現すことができるし「自分はどうして正しいか」を周囲にも納得させるだけの理屈をこねることができますから。頭の悪さはその周囲の有象無象に必要な能力です。
都市ローマの劫掠は繰り返され、そして「ローマ」は滅びます。あっさりと、さりげなく。もちろん「東ローマ帝国」は残っていますから、言語上は「ローマ」は残っていますが、著者にとって「都市としてのローマを中心とした帝国」あるいは「ローマ人のローマ」は滅んだとなるのでしょう。
ブリタニアは「アーサー王の時代」となります。ガリアは、フランク族が西ゴート族を圧迫。ただし蛮族が「侵略しては去る」時代から「侵略して定着する」時代になると「統治」の問題が生じます。自分たちよりはるかに多くの土着の民を支配するためには、蛮族には「ローマの遺物」である統治機構をそのまま使うしか手がなかったのです。さらにキリスト教が蛮族にも広がります。北アフリカはヴァンダル族の支配下に入りますがここではカトリックに対する激しい弾圧が行われました。イタリア本国では「勝者と敗者の共生」政策が行われました。行政はローマ方式、軍事はゲルマン人が担当、という棲み分けです。ローマで行われた「勝者と敗者の同化」とは似て非なる方式です。元や清で行われた騎馬民族による漢民族支配を私はちょっと思い出しました。
東ローマ帝国も国力は低下しており、ササン朝ペルシアとの紛争と同時に西を攻める余力はありませんでした。さらに、やっと兵力をやりくりしてヴァンダル族から奪還した北アフリカは、統治のまずさから砂漠化してしまいます(かつては「ローマの穀倉」だったのですが)。そして南イタリアからビザンチン軍が侵入してゴート戦役となります。ビザンチンの将ベリサリウスが率いるのは5000の兵。それで15万のゴート軍に対するのですが……このゴート戦役によってイタリアは徹底的に破壊されてしまいます。疲弊したのはビザンチンとササン朝ペルシアも同様で、そこにイスラム化の嵐が……
これまでずっと本書のカバーには「ローマ人の顔」の写真が使われていました。しかし、本書では表も裏も水道橋の写真です。どちらも途中が崩れてとびとびになった遺跡ですが、この写真を見ていると「断続」を思います。「断たれていること」と「続くこと」。
「ローマ」は滅びました。それは「断」です。しかし想像力で断ち切られた水道橋をつなぐことが可能なように、「ローマ人の考え方」「ローマ人としての生き方」はこの歴史の中にまだ続いている、と著者はこの写真で主張しているのではないか、と私には思えるのです。
本シリーズと同じ発想で「日本人の物語」を読みたくなりました(これは前にも書いたかな?)。
で、やっとシリーズが終了、と思ったら『ローマ亡き後の地中海世界(上)』が出版されたそうで。これもシリーズが貯まってから読破しようかな。