我が家には現在エコバッグが2枚あります。いつのまに入ってきたのかわかりませんが、油断するとどんどん増殖しそうなので意識的に抑制をかけています。
しかし、世の中は右を見ても左を見ても「エコバッグ」「エコバッグ」の連呼ですが、ではエコバッグをこれだけ製造して、レジ袋の消費量はどのくらい落ちたのでしょうか。そのデータを私は知りたいと感じます。「エコ」の“錦の御旗”の下には何を言ってもやっても許される、わけではありません。「エコ」と言う以上、エコバッグのエコ性についてどう評価するかの客観的手法とその結果について、詳しく具体的に知りたいなあ。
【ただいま読書中】
『偶然と必然 ──現代生物学の思想的な問いかけ』ジャック・モノー 著、 渡辺格・村上光彦 訳、 みすず書房、1972年
学生時代に読んで感銘を受けた本ですが内容はきれいに忘れているので、ひさしぶりに再読することにしました。
まず思考実験から話は始まります。地球のことを知らない火星のプログラマーが、地球で採取される様々なモノを自動的に「生物」と「人工物」に分類するプログラムを書かねばならないとします(『火星の人類学者』(オリヴァー・サックス)はここからの発想かな?)。では「生物の特徴」はなんでしょう? これが結構難しい。著者は、合目的性・自立的形態発生・複製の不変性、をあげます。
「進化は熱力学の第二法則に反しているように見える」というジャブを一発放ってから著者は本題に入ります。まず「合目的性」。近代科学はアリストテレスの「目的を解釈することで真実に到達する体系」を否定することで成立しました。ところがその近代科学で我々は生物の「目的」を認めなければなりません。これは一見、認識論上の矛盾です。
有機化合物は、炭素に「H基」または「OH基」がいかなる向きで結合するかによって幾何学的異性体を作りさらにそれぞれについて光学異性体を形成します。ところがその基質に働く酵素は、その異性体を厳密に識別します。つまり、酵素と基質は「立体特異性を有する複合体」を形成し、その“後”複合体の内部で酵素の反応が行われるのです。著者はこういった“細部”の研究(酵素適応)でノーベル賞を受賞しました。
「有機論者(全体論者)」は「還元論者」に異議を申し立てて「いくら細部を極めてもそれで全体は見えない」と言います。しかし著者はそれを「細部への無知の言い訳」と言います。分析によって得られた結果に対する無知と同時に「“分析”は科学的“方法”の中で一つの役割を果たしているだけ」という事に対する無理解を示しているだけ、と。この前読んだ『脳と心』でもこのテーマは繰り返されていました。しかし、部品にばらせばそのメカニズムがわかる機械と生命は違います。だからこそここで「火星のプログラマー」がまた登場するのです。重要なのは「システム」です。細部の「事実」をただ乱雑に集積するだけはそこに生じるのは混沌にしかならないのですから。
普通人は「システムと細部」と言うと、まずシステムがありそれに従って細部が作られるように思います。しかしモノーはそうではなくて、細部(たとえばタンパク質の立体構造)の積み重ねによってシステムがその全貌を現す、いうイメージを持っています。このへんは直感的判断に反する考え方なのですが、私はそれを受け入れます。だから著者から見て全体論者と還元論者の論争は、最初から無意味なものなのです。
遺伝子は偶然の突然変異を繰り返し続け、その結果新しい種が誕生できたらそこで淘汰が始まります。著者は「生存競争」ということばを使いません。「種の繁殖率の競争」と述べます。そこには偶然性は存在せず、必然的に淘汰が行われます(繁殖競争に負けた方が滅びる)。しかし、「偶然の突然変異」と言いましたが、突然変異は「遺伝子の複製機構が完璧ではない」ことから“必然”的に生じます。さて、すると「偶然」の意味は?
本書では、マルクス主義が健在で、「セントラル・ドグマ」(「DNA→(転写)→RNA→(翻訳)→タンパク質」の流れは逆転しない)が揺るぎのない真実だった時代に書かれました。しかし、それでも本書の価値はちっとも減じていません。進化論に関して触れたところで私はグールドのエッセー群やドーキンスの本を、言語に関して触れたところでは『5万年前 ──このとき人類の壮大な旅が始まった』を、脳の機能に関した部分ではこの前読んだばかりの『脳と心』を思い出しながら肯いていました。しかし、そういった“参考書”を一切抜きでこの本を書いたモノーという人は、とんでもない人です。本書はそれほど難解な概念やことばを使わず(目立つのはせいぜいプラトンやデカルトくらいです)、タイトルの通り現代生物学の思想に関して重要な指摘をしている本です(たとえば遺伝子治療についての記述では、その限界についてすでに指摘をしています)。さらに「思想の進化」という面白い考えも最後に登場します。進化論的に思想史を眺めたら、たしかにものすごく面白い世界となります。ただ、単純に進化論を援用することはできません。思想の場合、思想と人間の関係が、進化論の種と環境の関係と違って、お互いに深く影響を与え合うものですから(このあたりで私はレヴィ=ストロースを連想します)。さらに「表層的な理解から、科学を利用したがるくせに、科学を尊重したり科学に奉仕しようとはしない」人々が多いことへの危惧も語られます。この警告は、この数十年で科学が進歩したのにつれてさらにその深刻さを増しているように私には思えます。
科学に興味を持つ人は、たまには温故知新、こういった基本的な本を読むのも良いですよ。
しかし、世の中は右を見ても左を見ても「エコバッグ」「エコバッグ」の連呼ですが、ではエコバッグをこれだけ製造して、レジ袋の消費量はどのくらい落ちたのでしょうか。そのデータを私は知りたいと感じます。「エコ」の“錦の御旗”の下には何を言ってもやっても許される、わけではありません。「エコ」と言う以上、エコバッグのエコ性についてどう評価するかの客観的手法とその結果について、詳しく具体的に知りたいなあ。
【ただいま読書中】
『偶然と必然 ──現代生物学の思想的な問いかけ』ジャック・モノー 著、 渡辺格・村上光彦 訳、 みすず書房、1972年
学生時代に読んで感銘を受けた本ですが内容はきれいに忘れているので、ひさしぶりに再読することにしました。
まず思考実験から話は始まります。地球のことを知らない火星のプログラマーが、地球で採取される様々なモノを自動的に「生物」と「人工物」に分類するプログラムを書かねばならないとします(『火星の人類学者』(オリヴァー・サックス)はここからの発想かな?)。では「生物の特徴」はなんでしょう? これが結構難しい。著者は、合目的性・自立的形態発生・複製の不変性、をあげます。
「進化は熱力学の第二法則に反しているように見える」というジャブを一発放ってから著者は本題に入ります。まず「合目的性」。近代科学はアリストテレスの「目的を解釈することで真実に到達する体系」を否定することで成立しました。ところがその近代科学で我々は生物の「目的」を認めなければなりません。これは一見、認識論上の矛盾です。
有機化合物は、炭素に「H基」または「OH基」がいかなる向きで結合するかによって幾何学的異性体を作りさらにそれぞれについて光学異性体を形成します。ところがその基質に働く酵素は、その異性体を厳密に識別します。つまり、酵素と基質は「立体特異性を有する複合体」を形成し、その“後”複合体の内部で酵素の反応が行われるのです。著者はこういった“細部”の研究(酵素適応)でノーベル賞を受賞しました。
「有機論者(全体論者)」は「還元論者」に異議を申し立てて「いくら細部を極めてもそれで全体は見えない」と言います。しかし著者はそれを「細部への無知の言い訳」と言います。分析によって得られた結果に対する無知と同時に「“分析”は科学的“方法”の中で一つの役割を果たしているだけ」という事に対する無理解を示しているだけ、と。この前読んだ『脳と心』でもこのテーマは繰り返されていました。しかし、部品にばらせばそのメカニズムがわかる機械と生命は違います。だからこそここで「火星のプログラマー」がまた登場するのです。重要なのは「システム」です。細部の「事実」をただ乱雑に集積するだけはそこに生じるのは混沌にしかならないのですから。
普通人は「システムと細部」と言うと、まずシステムがありそれに従って細部が作られるように思います。しかしモノーはそうではなくて、細部(たとえばタンパク質の立体構造)の積み重ねによってシステムがその全貌を現す、いうイメージを持っています。このへんは直感的判断に反する考え方なのですが、私はそれを受け入れます。だから著者から見て全体論者と還元論者の論争は、最初から無意味なものなのです。
遺伝子は偶然の突然変異を繰り返し続け、その結果新しい種が誕生できたらそこで淘汰が始まります。著者は「生存競争」ということばを使いません。「種の繁殖率の競争」と述べます。そこには偶然性は存在せず、必然的に淘汰が行われます(繁殖競争に負けた方が滅びる)。しかし、「偶然の突然変異」と言いましたが、突然変異は「遺伝子の複製機構が完璧ではない」ことから“必然”的に生じます。さて、すると「偶然」の意味は?
本書では、マルクス主義が健在で、「セントラル・ドグマ」(「DNA→(転写)→RNA→(翻訳)→タンパク質」の流れは逆転しない)が揺るぎのない真実だった時代に書かれました。しかし、それでも本書の価値はちっとも減じていません。進化論に関して触れたところで私はグールドのエッセー群やドーキンスの本を、言語に関して触れたところでは『5万年前 ──このとき人類の壮大な旅が始まった』を、脳の機能に関した部分ではこの前読んだばかりの『脳と心』を思い出しながら肯いていました。しかし、そういった“参考書”を一切抜きでこの本を書いたモノーという人は、とんでもない人です。本書はそれほど難解な概念やことばを使わず(目立つのはせいぜいプラトンやデカルトくらいです)、タイトルの通り現代生物学の思想に関して重要な指摘をしている本です(たとえば遺伝子治療についての記述では、その限界についてすでに指摘をしています)。さらに「思想の進化」という面白い考えも最後に登場します。進化論的に思想史を眺めたら、たしかにものすごく面白い世界となります。ただ、単純に進化論を援用することはできません。思想の場合、思想と人間の関係が、進化論の種と環境の関係と違って、お互いに深く影響を与え合うものですから(このあたりで私はレヴィ=ストロースを連想します)。さらに「表層的な理解から、科学を利用したがるくせに、科学を尊重したり科学に奉仕しようとはしない」人々が多いことへの危惧も語られます。この警告は、この数十年で科学が進歩したのにつれてさらにその深刻さを増しているように私には思えます。
科学に興味を持つ人は、たまには温故知新、こういった基本的な本を読むのも良いですよ。