【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

正倉院展/『正倉院』

2009-01-28 19:00:49 | Weblog
 私は今までに3回奈良を訪れたことがありますが、そのうち2回は偶然正倉院展とぶつかっています。
 たまたま大阪に出張で出かけて1日ぽっかり空いたので「じゃあ奈良まで行ってみるか」と電車に乗って、駅で降りたら人並みがそのままぞろぞろと同じ方向へ。一体何だ、とそのまま流れに乗っていたら国立博物館へ。「本当にラッキー」と思いました。それが正倉院展とのはじめての出会いです。それから10年くらいあとにこんどは職場旅行でやはり大阪に行ったら、新大阪駅のポスターに正倉院展の文字が。何も考えずに自由行動の時間を生かしてそのまま奈良に直行しました。
 また“その時期”に奈良・大阪・京都・名古屋あたりで学会でも開かれないか、と思っていますが、強く期待しているとなかなかものごとは上手くいかないものです。

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正倉院 ──歴史と宝物』杉本一樹 著、 中公新書1967、2008年、800円(税別)

 東大寺が建立されたとき、他の寺と同じく「正倉」(重要な物品を収める倉庫)が作られました。倉庫はどんどん増やされすべてを含めて「正倉院」と呼ばれています。著者は、その中身(宝物)の重要性はもちろん、それらを「保存しようとした」人の意志と行動を重要視しています。
 東大寺を創建した聖武天皇の没後、光明皇后は天皇愛用の品々などを東大寺に奉献しました。それが正倉院宝物の中核となっています。さらに寺の資材(大仏開眼会で用いられたものなど貴重なものから、消耗物資であまったものまで)が倉庫に運び込まれていました。
 特に重要な北倉は普段は勅封(天皇のサインまたは花押が押された紙による封印)によって封じられています。曝涼と呼ばれる、人の手による空気の入れ換えと総点検も行われます。(この点検記録も実は貴重な“財産”です)
 正倉院は何度か危機を迎えています。近くの大仏殿は二回焼けました。治承四年(1180)の平重衡の南都焼討と永禄十年(1567)の三好・松永合戦。しかし正倉院は幸い焼失しませんでした。
 明治になって宮内庁の管轄となり曝涼を毎年行うことが制度化されました。戦後は正倉院も宝持も国有財産となりましたが、管轄はやはり宮内庁が行っています。
 宝物の奉献には目録(献物帳)が付けられていますが、この目録自体が一級の史料です。その形式や内容についての考察は読み応えがあり、とくに「奉献」という行為の方が「奉献された宝物」よりも重要だった、という考察には説得力があります。
 記録はさらにあります。正倉院は公的な“倉”ですから、そこからのものの出し入れには必ず記録が残されます。出納帳です。さらに出入りがあれば当然誤差が生じますから、定期的に棚卸しが行われます。特に、大量の薬は使われることが前提で納められたようで、けっこう大量に京都に出されています。麝香や胡椒は全部使われてしまいました。人参(薬用人参)も主根部はほとんど消費されてしまっています。さらには武器の出庫もあります。藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の時に、いち早く孝謙上皇方は奈良を掌握し、正倉院から武器を洗いざらい持ちだしているのです。持ち出すと言えば、盗難も何回かありました。しかもその犯人が東大寺の僧や元僧だったりして。落雷もあります。1200年を正倉院はのんびりと過ごしたわけではありません。
 明治になってからの修復の話もあり、そこはもっと具体的に詳しく聞きたいと思いますし、戦後の科学的調査の話も駆け足です。もっと紙幅が欲しかったなあ。というか、それはまた別の本を読め、と著者は言っているのかもしれません。