「赤旗」の文化欄で、寺山修司氏と「アカハタ」の関わりを初めて知りました。
没後30年寺山修司研究から
小菅麻起子
今年2013年は、1983年5月4日に〈寺山修司〉が亡くなって没後30年である(享年47歳)。この記念の年に、私は『初期寺山修司研究』(翰林書房)を刊行する機会に恵まれた。
本書が研究対象としている年代は、1954年、18歳の寺山が「チェホフ祭」で歌壇にデビューする前後
から、1958年、99一歳で第一歌集『空には本』を刊行するまでであり、歌人としての〈寺山修司〉を軸としている。
私が初めて書いた〈寺山修司〉論は、1988年、大学の卒業論文だった。卒業後、8年間教員を勤め、本格的に研究を志して大学院へ入学したのは、30歳の時。それから16年の歳月がかかったわけだが、本書の刊行でようやく初志貫徹することができた。
さて寺山のデビュー・作 「チェホフ祭」(34首)は。
「アカハタ売るわれを夏蝶越えゆけり母は故郷の田を打ちてゐむ」で始まる。私は一首の時代背景をたどるべく、発表当時(1954年)の新聞「アカハタ」を随分と読んだ。同じく「チェホフ祭」には「啄木祭の
ビラ貼りに来し女子大生の古きベレーに黒髪あまる」や「チェホフ祭のビラの貼られし林檎の木かすかに揺るる汽車通るたび」も並んでいる。
ここに歌われる「啄木祭」や「チェホフ祭」は戦後の民主主義の潮流の中で行われていたものであ
り、その「ビラ」は若い人々寺山修司を特集した雑誌・本によって都会の電柱や、北国の田舎町に貼られたりしていたものだ。そしてこれら「啄木祭」「チェホフ祭」という戦後の文化行事を、新聞「アカハタ」は記事に取り上げ、後押ししている。
時代と作品の源流を探る 「平和」を守る一つの力として。私は当時の新聞や雑誌記事を引きなが
ら、18歳の青年が、「アカハタ売るわれI」と歌うところの同時代を再現することに努めた。
戦後の新教育を受けて最初に世に出た青年の人として、1950年代の青春群像の中に〈寺山修
司〉を置いてみた。
〈寺山修司〉は作家としてどのような時代の中から登場したのか。作品の源流を探ると同時に、戦後史における初期作品の位相についての考察を試みた。短歌作品はすべて初出雑誌にさかのぼり、書誌的調査を重視した。没後30年ではあるが、〈寺山修司研究〉としては基礎研究の段階であ
り、「年譜」の整備をはじめ、多くの課題が未解決のまま残されている。
近年の〈寺山修司〉受容は、演劇や音楽祭等のイベントが目立っている。それにより新しい世代のファンも増えているようだ。それからみると私の書く〈寺山修司〉は少し地味な印象があるかもしれない。
◇
こすげ・まきこ 1966年生まれ。天理大学国文学国語学科卒業後、高校教諭を経て、2006年、立教大学大学院文学研究科課程博士修得。編著書『寺山修司青春書簡-恩師・中野トクヘの75通』など。