JCP市原時夫です

千葉県房総の睦沢町から、政治・経済・歴史・オペラ・うたごえを考えるgabuku@m12.alpha-net.ne.jp

「赤旗」の「朝の風」の加藤周一氏の「いま・ここ主義」

2009年04月30日 | Weblog
 今日の「赤旗」文化欄「朝の風」に「夕鶴と「資本論」と題して、故加藤周一氏のマンガの「いま・ここ主義」の紹介の後に、「資本論」を他の文学的表現で語ることはできるとして「木下順二氏の「夕鶴」をあげています。
 これが、加藤周一氏の論なのか、「朝の風」氏なのかちょっと不確定なのですが、つうの織った布を都で売れば大金になるとは、交換価値支配の市場社会を現しているとしています。
 交換価値を決めるのは、社会的必要労働時間ですから、つうの織った布が他の布に対して、高く売れるとは、品質が良いということで、同じ品質の布を社会的一般的な時間にすると、多くの労働時間がかかるということになるのでしょうか。

 猫の散歩がはじまりました。それにしても目がするどい


【「赤旗」09-4-29号より

「朝の風」「夕鶴」と『資本諭』
漫画の流行はすでに久しいが、最近では『資本論』の劇画本もあらわれたらしい。これは、漫画を「いま・ここ主義」の典型的世界と評した故加藤周一説を打ち破る試みである。 一葉の絵画は、現在(いま)の一瞬と部分(ここ)の一片しか表現できず、日本人が「いま・ここ主義」の漫画を好むのは、源氏物語絵巻に典型をみるように、「いま・ここ」に執着または愛着する伝統に根ざすものである。加藤説はさらに、「いま・ここ」しか表現できない絵画は、歴史貫通的時間や全体的空間、したがって概念で構成される社会科学に代わることはできないとした。
 ただし、『資本論』を他の文学的表現で語ることはできる。木下順二「夕鶴」がその一例である。「夕鶴」は、『資本論』冒頭商品論の一部の見事な文学的表現であった。鶴の化身のつうが、与ひょうとその仲間が、つうの織った布を都で売れば大金になると話すのを聞いたとき、突然、彼らの会話がわからなくなる。このシーンが圧巻。
 つうと与ひょうの関係は使用価値中心の共同体、与ひょうと惣ずらの会話は交換価値支配の市場社会、この断絶が見事に描かれていた。『資本論』を他の文学的・芸術的表現で語るとき、「夕鶴」は、いまなお手本とすべき例となろう。(宮)】