2006年10月のブログ記事一覧-ミューズの日記
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投稿から随分時間が経ってしまって申し訳ありません。この原稿は9月初旬にいただいていたものです。ご了承ください。山下 高博

<あれも聴きたい、これも聴きたい> 音楽表現

 8月28日、ミューズサロンでグロンドーナのマスタークラスが開かれ、終了後ちょっとしたおつまみとビールで乾杯という席が設けられましたが、今回はその時にあった興味深いお話をひとつ。
 山下さんの方から「何かレッスンの時に訊けなかった質問があれば・・・」というように話を向けられた時、中におられたどなたかが楽譜をお持ちになって「正しいトリルのやり方を教えてください。たとえば装飾音は1回なのか2回なのか、あるいは3回した方がよいのか」といった内容の質問をされました。
 その時のグロンドーナさんのお答えは時間的にかなり長く、外国語の分らない私にとってはあまり細かいところは理解できなかったのですが、おおよそ「好きに弾いたらよい」というものでした。つまり、「それは貴方がお決めになったらいい」ということです。
 これは大変面白い答えで、実は大変芸術の核心をついた答えでもありました。
 以前誰かにこんなことを訊かれたことがあります。「5連音符や7連音譜といった割り切れない数の音符を、均等に弾くためにはどうしたらいいですか?」とか、「この曲のこの部分はどのように弾いたらいいですか?」とか、まさに音楽の核心に触れるような質問です。答えは勿論「好きにすればいい」です。
5連音符や7連音符など、作曲家が一拍の中を均等に割り振って弾いてほしいなどと考えているはずもないのですが、にもかかわらずどうしても均等に弾かなければならないと思っている方が多いのにも驚かされます。でも均等に弾く必要が無いとしたら、じゃあどういうリズムで弾いたらいいのか、今度はそこが問題になりますね。

次の「ここはどう弾いたら・・・」と訊かれたところで、こう弾きなさいというのもおかしな話ですし、いろんな表現の仕方を見せて、「その中から好きなものを選びなさい」というものでもありません。
 皆さんはそんな音楽の核心に触れるような重要なことを、他人に決めてもらおうと思っておられるのでないでしょうか。
 皆さんは、楽譜というものには、それを表現するにあたって必要なことが全て書いてあると考えておられるのではありませんか?楽譜に書いてある通りに弾けさえすれば、自動的にそれが音楽になる、というように考えておられるのでは?
残念ながら答えは「否」「NO」。楽譜にはほとんどのことが書かれていないものなのです。
じゃあ何が書いてあるかというと、楽譜には音の高さと長さ、そして出す音の順序が書かれているに過ぎなくて、しかもほとんど目安程度のことしか書かれていないということは、今回のグロンドーナさんのレッスンを受けられたり、聴講された方はお分かりだと思います。同じ音符を弾いているのに、その表現力たるや、まったく比較できないくらいに大きく違っていましたね。演奏する方は、音の高さと長さ、そして順序しか書かれていない楽譜から、音楽(芸術)を引き出さなくてはなりません。楽譜に書かれている通りに音を出したところで、それは音楽あるいは芸術からは程遠いものでしかありません。
メトロームに合わせて演奏しても音楽にはならないのと同じです。
 
そのほかどんなことにたとえたら分り易いか考えてみると、小説を朗読することにちょっと似ているかもしれません。本を読んで人に聞かせるということを考えた時、一本調子で、なんの抑揚も無く、ロボットのように読んだとしたら(小学生の朗読によくありますね)、書いてある内容は伝わるかもしれませんが、聞く人からは、きっとそんな朗読だったら自分で読んだ方がいいと言われてしまうことでしょう。立派な文学作品も、ちょっと台無しといったところでしょうか。
それでも文学作品は元々朗読してもらうために書かれたものではありませんから、なにも人に読んで聞かせてもらわなくても、それ自体が立派な芸術作品として自立しています。ですから上手く声を出して朗読できない人でも、目で読んでいくだけで充分芸術作品として、その価値を味わうことができます。(勿論和歌のように元々読み上げられることを前提として作られた文学もありますが、それなぞはかなり音楽と近いかもしれません)

しかし音楽はそうはいきません。書かれた楽譜そのものは芸術作品でもなんでもありません。音になって初めて芸術たりうるのです。ですから演奏家の方に演奏してもらわなくては、私達はその芸術を味わうことができません。しかもその表現方法である音符というものは、先ほど言ったように、音の高さと長さ、そしてその順番を、目安程度にしか表現することができないときている。それはそうでしょう。音符なんて基本的にドからドまで12の音しかありません。それに引き換え文学の表現方法である文字は、いろは48文字、何千とある漢字、そして片仮名なども駆使することができるのです。しかも熟語のようにそれ自体独自の意味を持ったものも自由に使い分けることができる。ですから音符では文学のように繊細な言葉のニュアンスによって、人間の感情の変化といった細かいところまで表現するわけにはいきません。(かといって文学の方が音楽よりも表現が簡単にできるといっているわけではありませんので、誤解なさらないでください)
音楽の場合、そこに演奏家の役割の重要性が大きくものをいってくるのです。
 
「いや、楽譜にはフォルテもピアノもクレッシェンドもリタルランドもいっぱい書かれているじゃないか」と思われるかも知れません。しかし、それこそそれは貴方が決めることであって、その通りにしなくてはいけないということとは根本的に違います。むしろ楽譜に書かれている発想記号の類は、その楽譜を書いた人(編曲した人、運指をした人のこと)のまったく個人的な考えを書いたまでであって、ほとんど「私はこう思うんですが・・・」程度のことと考えればよいのであり、むしろそう考えるべきなのです。つまり無数にある表現方法の中のほんの一例をあげているに過ぎないのです。この音は大きく弾くとか、ここからは段々音を小さくしていく、ここは滑らかに弾くなどということは、演奏する貴方が決めることであって、極端に言えば、貴方がどう弾こうが、誰からもとやかく言われる筋合いのものではありません。むしろ、楽譜を見たとき、「自分がどう弾きたいのか分らない」ことの方が大問題なんだということを理解してください。

貴方が今弾いているその曲は、貴方が自分で「弾きたい」と思ったからこそ練習しているのでしょう。しかし自分が弾きたいと思った曲が、自分でどう弾いていいかわからない。だから人に決めてもらいたくなってしまうのではないですか?「ここはどう弾くべきなんでしょう?」と。
最初に挙げた「トリル」の場合、「その曲が作られた当時は一般的にはこのようにしていた」という考え方と、「いや、あくまでも自分の良いと思う方法でやりたい」という方法と、行き方としてはふたつあります。いずれを選ぶかは貴方自身です。200年、300年前の当時を正確に再現したいのか、21世紀の人間として好きにやりたいのか、選ぶのは貴方です。どちらを選ぶかは自由なのです。
しかし、その演奏を聴いて「いい」か「悪い」か、「好き」か「きらい」か、判決を下すのは貴方ではありません。聴いている聴衆なのです。だから一番幸せなのは、自分が好きなように弾いて、それを聴いた人も「いい」と思ってくれることなんですね。私はジュリアン・ブリームなんか、それの典型のような気がします。
自分は好きなように演奏したんだけども、聴いている人は「いい」と言ってくれないとしたら、それは聴いている人に「聴く耳がない」か、貴方の「独りよがり」になってしまっているかのいずれかでしょう。そこがまた難しくて、やりがいのあるところではないでしょうか。
もっと自分の心の中から「こう表現したい」というものが沸きあがってくるようにするためにしなくてはならないことを「練習」とも「訓練」とも「勉強」とも「経験」ともいうんじゃないでしょうか。あくまでも人に訊いてそのまま弾くことではないと思うんですね。
内生蔵 幹(うちうぞう みき)

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本日入荷した村治佳織の新譜「ライア&ソネット」を聴きながらブログを書いています。これは大変面白い、素晴らしいCDですね。
ライアとは元来竪琴の事ですが、イギリスの古い英語ではリュートを意味するとの事、ソネットとはヨーロッパにおける抒情詩の典型である4,4,3,3と行を分ける14行詩の事で、リュートと歌声の意味になるそうな。そのタイトルをつけた村治佳織のギターとハリー・クリストファー指揮のザ・シクスティーンと言う合唱団のコラボレーションのCDなんです。

録音も大変すばらしく、とてもいい音で録音されていますが、村治佳織のギターの演奏がまた新鮮で心地よい。ザ・シクスティーンはルネッサンス、バロックのポリフォニーからロマン派、近~現代までのあらゆるレパートリーを清らかに澄み渡った歌声で心に沁み入る様に歌い上げる16人編成の合唱団。これが村治佳織のギターと溶け合って神聖な響きと空間を作り出しています。

ところどころギターソロが入っていますが、ヴィラ=ロボスの5つ前奏曲を全曲演奏する中で、第3番と第4番はなんと合唱が入ってこれまた今までに聴いた事のないヴィラ=ロボスの世界を聴かせてくれます。またヴィラ=ロボスのブラジル風バッハ第5番のギターと合唱のコラボレーションなんか痺れてしまいます。

このCDは久々に感動できるお薦めです。



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<あれも聴きたい、これも聴きたい> 序奏とふぁんだんご

 まずは皆様方には、上に掲げましたる「ふぉとぐらぁふ」をとくとご覧頂きたく御願い上げ奉り候。
かの夏目漱石も一度住まいおりし「えげれす」こと英国は倫敦(ろんどん)に生を受けたる「ぎたりすと」、その名を「じゅりあん・ぶりぃむ」と申す者。今より三十年以上遡りたる遥かいにしえ、自らの力を世に問わんとて、上に掲げし「ふぉとぐらぁふ」の「れこぉど」なるものを売り出したることなど、記憶に留めおかれし方々もさぞ多かれと存じ上げ奉り候らえども、いまどきの若き方々にはあまり知られざることなりと推察いたし候故、自らはあつかましきことなりと存知候えども、今日ここにご紹介奉らんと筆を取りたる次第にて候。

さて奏でましたる演目は、まず始めに、かの地、「伊多利」に生を受けたる「ぼっけりぃに」なる者の手による「ぎたぁ五重奏曲」なる音曲。つまり「えすぱにあ国」こと西班牙(すぺいん)の出生にして、女体のごとく中のくびれたる胴に六本の弦を張り、奏でんと欲する時はそれを小脇に抱え、自らの手指にて古今東西の様々なる音曲を掻き鳴らすと云われる「ぎたぁ」なる楽器と、馬の毛を用いた弓にて胴に張りたる四本の弦を擦り、これまた東西の音曲を自在に奏でるという「びおろん」などと申す楽器四本にて編成されし集団とが、今まさにその腕前を相競わんがごとく丁々発止と奏でんとする珍しきも美しき音曲にて候。
次も同じく「ぼっけりぃに」なる者が作りし「ぎたぁ五重奏曲」の一部を、演者「じゅりあん・ぶりぃむ」氏自らが「ぎたぁ」と「はぁぷしこぉど」なる、これまた古き時代の鍵盤楽器のために編纂し直したる「序奏とふぁんだんご」なる音曲にて候。
そして最後は「はいどん」と申す大そう高名なる作者の手による「ぎたぁ四重奏」なる音曲なれど、これもかの「はいどん」氏が活躍せし御世には、いまだ「ぶりぃむ」氏の得意とせし「ぎたぁ」は存在せず、「りゅぅと」と申すわが国の琵琶によく似たる胴に極めて多くの弦を張り、奏でる時はばちを用いず、奏でる者自らの手指にて掻き鳴らすという面妖かつ複雑なる楽器のために書かれし音曲にて候ところ、かの「ぶりぃむ」氏が「ぎたぁ」に移し変えて奏でたるものと申し候。

世の風聞によるところ、かの「ぶりぃむ」氏は類まれなる「りゅぅと」の名手なるも、いかなる魂胆ありしかと問えば、「ぶりぃむ」氏曰く、「りゅぅと」なる楽器は、ただ一人にて奏でし時は良けれども、他の楽器、特に此の度の如く「びおろん」など複数の楽器と同時に奏でんと欲する時は、その「りゅぅと」なるもの音量の不足なるが故に致し方なく「ぎたぁ」にて代用するものなりと申し候段、くれぐれも御許し願い上げ奉り候とのこと。
しかしながら、その腕前たるや、その若き年に相応しからず、見事なること鬼神のごとく、聴く者の心を揺り動かさんとする様天晴れ至極。ことにその「はぁぷしこぉど」なる楽器と奏でし「序奏とふぁんだんご」なる音曲にては、その編纂の腕前といい、自ら奏でたる指さばきといい、誠にもって見事なり。今や天下に二人と並ぶもの無きやと存じ上げ奉り候。

その「ぶりぃむ」氏の奏でる「ぎたぁ」なるものの響き、時には大きく、時には小さく、時には激しく、また時には優しく。移ろいゆく時の流れにまかせ、寄せては帰す波のごとく、聴く者の心に迫りくること比類なく、まさに血沸き肉踊るとはこのことなりとの風評、巷にてつとに高まりしところ、これまた天晴れなりと申す者多く、かの「序奏とふぁんだんご」なる音曲を、自らも奏し仕らんと挑みし若者が我も我もと現れ、瞬く間に世に広まりしものと推察申し上げ奉り候。
その中において、いと珍しきことなれど、かの「村治佳織」嬢も、今春、江戸は「浜離宮 朝日ほぉる」において、この「序奏とふぁんだんご」なる音曲を披露せしところ、彼女を人目見んとて、はるか遠方よりつめかけたる溢れんばかりの聴衆、皆その腕前のあまりの見事さに割れんばかりの拍手歓声の嵐が巻き起こりたる風評は、既に皆様のお聞き及びのところと存知上げ奉り候。かくなる上は我らが「村治佳織」嬢の、今後のさらなる御活躍を願わぬ者無しと存じ上げ奉り候。

また先に申し上げたる「はいどん」なる者の手になるところの「ぎたぁ四重奏曲」なる音曲も、「ぶりぃむ」氏の見事なる編纂術と、またも天晴れなる見事な腕前、さらに氏の類稀なる感性故、世に同じ音曲に挑み、披露したるもの多かれと雖も、皆「ぶりぃむ」氏の足元にも及ばざりしものなりと申すもの多く、誠にもって「じゅりあん・ぶりぃむ」氏、今や天下に並ぶべきもの無き「ぎたぁ」の上手なりと申し上げ奉りたく、ここに言上奉り候。
皆様におかれましても、是非是非一度なりとも若き「えげれす」の名手、「じゅりあん・ぶりぃむ」氏の腕前をお耳にされていただきたく、ここに御願い上げ奉り候。
内生蔵 幹(うちうぞう みき)


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<あれも聴きたい、これも聴きたい> 若きホセ・ルイス・ゴンザレス

 ホセ・ルイス・ゴンザレスのレコードは何枚かあるが、私が一番気に入っているのがこの写真のレコード。
彼は事情があって70年代に暫くの間ギター界から遠ざかっていたことがあったが、復帰してから後来日し、その際日本で何枚かのレコードも録音し発売になった。しかしそれらを聴いても、どうもあまり気に入らない。なんか師であるところのセゴヴィアに瓜二つのような感じがして、正直言って何度も聴こうという気がしなかったところへ来て、ある時輸入レコード店で見つけたのがこの写真のレコードだ。
 録音は劣悪とまではいかないがかなり悪い。オデッセイというCBS系のレーベルであるが、恐らくはずっと以前に録音されたテープを再編集して廉価版として発売されたものではないかという気がする。(輸入盤としても当時異例に安かった)
 収録されている曲は、A面がまずポンセの「6つの前奏曲」(12の前奏曲の内6曲)。同じくポンセの「主題と変奏と終曲」、そしてテデスコの「セゴヴィアの名によるトナディーリア」。最後がノルウェーの作曲家リバエクの「ギターのための音の絵」から2番と3番。B面には最初にターレガの「6つの前奏曲」(A面と意識的に対比させたかったのかもしれない)。次がタンスマンの「マズルカ」。ヴィラ=ローボスの「ショーロス第1番」、そしてバリオスの「古きメダル」で締めくくられている。

 ホセ・ルイスの演奏で一番大きな特徴は、楽器はホセ・ラミレスであるが、そのラミレスの性能をフルに発揮した、それ以上のものを必要と感じさせないほどの美音である。そしてお得意のスペインものを弾く時などは、その美音を縦横に駆使して誰よりもスペイン情緒一杯に歌わせることができる。彼の演奏は、どのレコードを聴いても超絶技巧といったものを必要とする曲はないかのように見えるが、実はその一つひとつの曲が信じがたいほどレガートに音が繋がり(そこが実は超絶技巧なのであるが)、歌心は正に溢れんばかりである。ややもすると最近の若いギタリスト達のようなクールな演奏では決してないので、少しばかり甘ったるいと感じる方もおられるかもしれないが、それでも彼の演奏を聴いていると「あぁギターを聴いている」という感じがして、ほっと故郷に帰った時のような安心感を覚えることがある。(ちなみに、過去私が生で聴いたギタリストの中で、最も美しい音と感じたのは、同じスペインのホセ・トーマスであったが、今回のホセ・ルイス・ゴンザレスもそのホセトーマスに負けず劣らずの美音の持ち主である)

 写真のレコードは、そんな彼のかなり若い頃の演奏のようであるが、やはり録音の年月日や場所などまったく記されていないので、はっきりとは申し上げられないのが残念。だが録音状態からすると、やはりそんなに新しいものではなさそうだ。しかしここには先ほど言った復帰後のホセ・ルイスとはちょっと違った彼の演奏が聴かれ、かえってなかなか新鮮に聴くことができる。
とにかく一切余計なことはやっていない。おそらく彼の教えを乞うたレヒーノ・サインス・デ・ラ・マーサの影響がまだ色濃く残っている時ではないかと勝手に想像しているが、とにかくたいそう生真面目に弾いている。しかしそこがまたかれの非凡なところで、ただ教えられるがままに弾いているのではないことが、その演奏の端々にわずかではあるが感じられて、私としてはこのレコードにみるホセ・ルイスの演奏は大変気に入っている。
既に亡くなってしまったので、もう一度生を、という訳には行かないのが残念であるが、このレコードに聴かれるような(日本盤できく彼の演奏とはまったく違った演奏)ホセ・ルイス・ゴンザレスをいつでも聴ける幸せを、この夏、また少しばかり味わうことができたような気がする。
内生蔵 幹(うちうぞう みき)


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先週末はミューズも大変活気づいていました。
21日(土)、22日(日)の二日に亘って福田先生のマスタークラスがあり、22日(日)の午後1:00からは藤井敬吾先生の月一回の定期レッスンが夜8時まであり、午後2:30からは『二村孝文ギターソロコンサート』~後藤千秋と中野二郎を弾く~があり、とスタッフの渡辺も私もバタバタの二日間でした。

福田先生と藤井先生は一昨年のサマースクール以来一年半ぶりだった様で、福田先生曰く「藤井さんと会えて良かった!」ですって。意外なものですね。もっとお二人なんかお会いしているのかと思ったのですが・・・。

さて、マスタークラスは9人の方が受講されましたが、右手の弾弦の仕方や、左手の肘の動き、手首の使い方など技術的なお話が頻繁に出てきました。皆さん難しい曲を受講曲に選ばれますが、やはり弾けているか弾けていないか、音楽が出来ているか出来ていないかの前にチャントした音が出ているかどうか、基本的な部分が大事ですよね。最終的には音楽的な演奏が求められますが、その音楽を作るのは自分の出す音ですからね。一番重要な要素ですね。
福田さん曰く、「昔はセゴビア、ギリアなど偉い先生のマスタークラスを受講するには厳しい選考を勝ち抜いていくので、かなりのレベルの人達でないと受講できなかった。従って音楽についてのレッスンになったが、今は誰でも受講できる時代になりました。それを昔のマスタークラスの様に音楽的なアドバイスばかりをする訳にはいかないですね。基本的なアドバイスが必要になります。」とこれは夜飲みながらのお話。脱線しますが、その時の情報でアンドリュー・ヨークがLAGQを辞めたそうです。
脱線ついでにもう一つ。初日のレッスン終了後の茶話会では福田先生と渡辺香津美さんのDVDを視聴しましたが、福田先生の解説付きで面白かったですよ。「何故二人の衣装が一緒なのか分かる?」とかいろんなエピソードが出てきて、DVDが倍面白くなりました。しかも、つい先日取り付けた120インチの大スクリーンとイクリプスのスピーカーで映像も音も抜群の大迫力ですからね(写真右下)。近い内にいろんなDVDのプロモーションのために視聴会を企画しますのでご期待ください。

さて、話を戻します。マスタークラスでは爪の削り方まで指導があり、ある受講者は福田先生に爪を削ってもらっていました。また、練習の仕方として曲をパーツに分けて練習する事(プラモデルを作るように)、ソナタ形式の演奏の仕方、第一主題と第二主題の対比の仕方など大変興味があるお話が満載でした。聴講者のお一人が「やはり一流の人は違うね!」と感激していましたが、受講者も聴講者も大変有意義な一日半になったと思います。今回来れなかった人は次回をお楽しみにしていてください。






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