「つぶやき・日常」のブログ記事一覧-ミューズの日記
ミューズ音楽館からの発信情報  ミューズのHP  http://www.muse-ongakukan.com/

 



ミューズの日記は新しいアドレスに引っ越しをしました。
ホームページのトップページをリニューアルしたのを機にデザインに統一感を持たせたものにしました。
今後は下記アドレスでご覧ください。
http://muse-ongaku.jugem.jp/

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今日は大曽根七夕まつり最終日で、ここオズモール商店街は盛り上がりました。
ミューズサロンでは14:00からケーナとアルパのコンサートがあり、商店街特設ステージでは15:00からミューズ講師・池田浩さん率いるフラメンコ舞踏団によるフラメンコショーが2ステージ、そして同じくミューズ講師・佐々木響士郎さんと友人の元田陽周さんによるギターデュオコンサートと掛け持ちで忙しい一日でした。

アルパ奏者の池山由香さんは私がヤマハ社員としてアルゼンチンに駐在していた頃にまだ小学生でブエノス・アイレスに居た方だとお会いしてから判明し、そのお母様は私の家内がブエノスでマリンバのコンサートをしたときにはいつも聴きに来て頂いていた方だと分かって懐かしい再会となりました。世の中不思議と言うか、世間は狭いというか、音楽つながりの面白さを実感しました。

フラメンコショーは華やかでやはり人気もありますね。人だかりの山でした。最初のステージで池田さんのギターの6弦が切れると言うハプニングもありましたが、6弦なしで見事演奏されました。
佐々木さん達のデュオも風が強くて譜面が飛んでしまうハプニングもあり、過酷な状況での演奏となりましたが、フラメンコとは対照的にギターの優しい音色を聞かせてくれました。
少しでもギターに興味を持っていただいた方がいればうれしい限りです。
山下高博

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今日から三日間大曽根最大のイベント・七夕まつりが始まりました。
名古屋市消防隊の音楽隊パレードから始まり、ガマの油売り、大正琴演奏、フラダンス、アイドル教室コンサート、阿波踊り、クラフト&アート市、パフォーマンス広場、屋台、ものづくりこども屋台、路上お絵かきコーナーなど盛りだくさんのイベントで、普段は静かな大曽根が大変身。
ミューズの近くにはフェラーリが7台も展示され、時折爆音が・・・。

明日の土曜日は更に劇団アルクシアターコンサート、マクドナルドショー、鳴子踊りなども加わります。

そして、31日(日)はミューズ提供のフラメンコショーとギターデュオのステージがオズモール商店街の特設ステージで行われます。
フラメンコショーはミューズ講師の池田浩さん率いるグループ、ギターデュオは同じく講師の佐々木響士朗さんとその友人元田陽周さんです。
是非お越しください。

15:00~15:45 フラメンコショー
15:50~16:35 ギターデュオ
16:40~17:25 フラメンコショー

山下高博

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<あれも聴きたい、これも聴きたい> アンドレス・セゴヴィアのLP

 アンドレス・セゴヴィアは晩年多くの録音をデッカで行い、私たちが若かった頃はセゴヴィアのレコードといえば、十数枚あったはずのこれらのシリーズのことを指していた。最晩年にはMCAレコードへわずかに残した録音(トローバの連作、スペインの城など)もあるが、ほとんどはイギリスに本拠地を置くデッカへのものであった。最近ではいろいろなレコード会社がこぞってセゴヴィアの録音を復刻させていて、私たちも知らないような若い時代の演奏が聴けるようになってきたが、私としてはできれば当時のジャケットをそのままに再現して販売してもらえないかと切に願っている。
それらは当然だがナイロン弦が登場する前のものがほとんどで、中にはスチール弦の音ではないかと思えるものもあって、聴いていてなかなか興味はつきないとともに、先人達の苦労が偲ばれて感慨無量である。

若い頃のセゴヴィアの演奏はとにかくすさまじく、猛烈なテクニックを誇っており、わずかに残る他のギタリスト達の演奏が足元にも及んでいないことがよく分かる。おそらく当時の他の同業者達には恐怖に近いものを抱かせたであろうし、それ以外の人たちに対しても、ギターの表現力に無限の可能性を感じさせたであろうことは容易に想像がつく。作曲家にしても、あるとき突然、創造力を刺激するまったく新しい素材が目の前に現れてきたわけだ。黙って見過ごすわけはない。
それらの作曲家や音楽関係者の中では当時こんな会話が広まっていったのではないだろうか。
A:「おい、最近ギターですごい演奏をするセゴヴィアとかいうヤツが出てきったってぇ話だが、おめぇ聞いたことあるかい?なんでもできねぇこたぁねぇって話だぜ。とにかくそいつの手にかかった日にゃおめぇ、あのバッハのシャコンヌだってギターで弾きこなしちまうっていうじゃあねぇか」。
B:「そりゃほんとかい?おめぇまた狸にでも化かされてんじゃねぇだろうなぁ。こちとらギターなんてものぁ、スペインの片田舎でフラメンコをチャラチャラかき鳴らすしか能のねぇ低俗な民族楽器くれぇにしか思っちゃいなかったのによぉ。そいつがいっぱしにあのバッハを弾いちまうなんざぁ、よっぽどの天才か間抜けな世間知らじゃねぇのかい?」。
A:「しかしよぉ、これだけ世間さまが騒いでるんだ。話のネタにいっけぇぐれぇ(一回ぐらい)聴いてみたらどうでぇ。ひょっとしたらこりゃ、えれぇ拾いもんかもしれねぇぜ」。
B:「そうさなぁ、あちこちでいろんなもんを聴きに行ってるおめぇの言うこった。騙されたと思っていっけぇ(一回)行ってみるとするかぃ。ところでそのセゴなんたらいうやつぁ、舞台の上で裸でギター弾くのかい?」
A:「それほどヤツもバカじゃねぇだろうヨ。何でだい?」
B:「だっておめぇ、チラシにゃぁ「アン・ドレス(服を着ていない)」ってけえて(書いて)あるじゃねぇか」
A:「ちげぇねぇ!間抜けなやつだったらそれぐれぇやっちまうかもしれねぇなぁ」。
B:「そうだなぁ、こりゃあおもしれぇことになってきやがった」。
とまあ落語に出てくる江戸の町人が、初めて吉原へ繰り出す前のような会話があったのではなかったかと想像する。それにしても当時セゴヴィアの演奏を目の当たりにした聴衆は、プロもアマも、ギターに関係するしないに関わらず、皆一様に度肝を抜かれたのではないだろうか。

そんな時代からずっと下って、そのセゴヴィアが晩年、前にもいったデッカに素晴らしい遺産を沢山、しかもステレオで残していってくれたことには我々は感謝しなければいけない。今回はその中の1枚で、A面が(懐かしいなぁこの言葉)なんとあのアグアドの超簡単な練習曲が8曲とソルの練習曲が4曲。これはセゴヴィアが自ら編纂した20の練習曲から抜粋したもの。セゴヴィアはこのようにソルの練習曲の中から特に有益と思える作品をわざわざ20曲選びだして校訂・運指を行っており、今でもギターにおけるバイブル的な存在となっているんだが、ご本人はそれらをまとめて演奏することなんぞにはまったく興味がなかったと見える。とにかく好きなときに好きな曲だけ演奏する。そこがまたセゴヴィアらしいといえばセゴヴィアらしいのかもしれない。
そしてB面はポンセの3つのメキシコ民謡から第2曲目の「歌」、同じくポンセの南のソナチネの第1楽章で、セゴヴィアが勝手につけたと解説にある「歌と風景」。(これも大変セゴヴィアらしいことで、ソナタの中のある楽章だけ取り上げて演奏するなどということは他の世界ではあまりないはずだが、この人くらいになると許されっちまうんだねぇ)。そしてアルベニスの有名なグラナダに続き、タンスマンのマズルカ、グラナドスのこれまた名曲、スペイン舞曲第5番「アンダルーサ」となっている。これらの曲はそれまでにセゴヴィアは何回となく録音しているが、このレコードにある録音が本当に最後の録音ではないだろうか。とにかくギターによる「うた」が素晴らしい。ギターという楽器をこれほど歌わせることが本当に可能なんだろうかと思えるほど歌心に溢れている。普通初心者がまず手がけるアグアドの練習曲も、ほんの数章節で終わってしまうのがもったいないほど美しい作品に聞えるし、ソルの練習曲のアルペジオもこれほどレガートに弾かれたことを私は知らない。まさに珠玉の名曲になっている。3つのメキシコ民謡はポンセがギターのために書いた作品の中でもほとんど初期の作品なので、手法としてあまりこなれているとはいえず、誰が弾いてもあまり様になっていることはないのだが、ここでのセゴヴィアの手からはさすがといわせる表現が聞かれ、これも小さな名曲として楽しむことができる。グラナダやスペイン舞曲といった自国の作品は当然ながら、タンスマンのような東欧ポーランドの作曲家の作品を聴いても、その音の繋がり、絶妙のグリッサンド、消え入るような弱音と輝かしい弦の響など、到底なまじっかな才能ではマネのできない個性と歌心が光を放っている。

当時私はあまりセゴヴィアのLPを購入できず、現在CDで復刻されたものは別として、いまだに数枚しか持っていないが、このボブリの手になる美しい装丁のLPは、ポンセの作品を聴いてみたくて購入したものと記憶している。しかし今ここに聴くそれ以外の演奏にも心癒され、あのころ多少の無理をしてでももっと手に入れておくべきだったと後悔しきりの思いがしてならない。
内生蔵幹

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<あれも聴きたい、これも聴きたい> ギターのアンサンブル

 先日大阪のいずみホールで行われた村治佳織さんと弟の奏一君の弾く二重奏を聴いて思ったことがある。勿論この日の演奏は大そう素晴しく、久しぶりに本物のギターデュオを聴かせてもらうことができた。
お2人それぞれの独奏は今まで何回となく聴いているのだが、二重奏となるとさすがに私としても今回初めての経験。年齢も近く、なによりも兄弟が演奏するわけだから、当たり前といえばあまりにも当たり前なのかもしれないが、普段我々が耳にすることができるギターの二重奏とは段違いに息が合っていただけでなく、驚くほど撥弦のタイミングが合っていて、それはもうゾクゾクするほどスリリングで気持ちの良いコンサートだった。
私も若い頃はギターの二重奏に随分打ち込んでいたことがあり、それなりに難しさは理解しているつもりだけれど、ギターの場合この撥弦のタイミングをぴったりと合わせることがとにかく難しい。
 そもそもギターの場合複数の演奏者のリズムを合わせることが難しい。これはヴァイオリンのように擦弦楽器のそれとは大違いだ。とにかく音そのものがパルスで出るわけだから、リズムにおける出だしの音だけではなく、全てに渡って2人の出す2つ以上の音を揃えて出すようにしなければならない。ヴァイオリンにしたところで全ての音をピツィカートで演奏してみればその難しさがわかるだろう。なかなかぴったりとは合わせ続けられないはずである。ギターの場合、最初から最後までそれを要求されるわけであるから、友人同士お手軽に楽しめる演奏形態の割には、コンサートのステージに乗せようというようなレベルを要求すると途端にそうはいかなくなる。2人が1st.2nd.に分かれて単に一緒に弾いているだけになってしまい、下手をすれば合わせるだけで精一杯というところが聴く側からも見えてしまうということになり勝ちである。これではお金を払って聴かされる方はたまったものではない。なにしろ音楽を聴きに来たつもりが、とてもじゃないが楽しむどころではなくなってしまうわけだから。聴きながら「何とか合わせろよ!」、「無事終わりまで行ってくれ!」と祈るような気持ちで聴き続けなくてはならないはめになる。何が悲しくて演奏会へ来て、演奏が無事に終わるよう祈らなくちゃいけないんだ?とおかしな気持ちになり、ちょっとオーバーかもしれないが、こんな演奏会へ来てしまったことに対し自己嫌悪にも陥りかねない。

 こんなことは意外とレコードやCDになっているほどの合奏団にもあって、現在世界中で発売されているレコードやCDの中には、よくもまあこの程度でCDなんか入れさせてもらえたもんだと感心するようなものにも結構出くわすことがある。それはそれで珍品レコード・CD収集として面白いんだが、いつもこんな調子ではそうも言っておれなくなる。やはり昔のプレスティとラゴヤのように得もいわれぬ魅力をかもし出すような演奏をしてほしいし(そう簡単に出来りゃ苦労しないって!)、昔瞬間的に存在した「アブリュー兄弟」や最近の「アサド兄弟」のように丁々発止、火花を散らすようなというか鬼気迫るというか、とにかく聴いていて胸のすくようなアンサンブルを聴かせてもらいたいと願うばかりである。(自分が弾くんじゃないと思ってむちゃくちゃ言うなぁ!)
 以上のようにたかだか2人で弾く二重奏ですら簡単にはいかないのに、3人、4人となるとますます難しくなることは当然だし、果たして「同じ音域のギターを2台以上並べてどうするだぁ!」という意見ももっともな気がするので、ここではギターの場合、せいぜい二重奏までということにしたいと思うが、いずれにしてもギターのように音がパルスでしか出せない撥弦楽器のアンサンブルというのは難しいものなのである。

 とにかくただでも難しいギターの二重奏で何が難しいかというと、2人が出すパルスとしての音の、出るタイミングそのものをぴったりと合わせることほど難しいことはないのではなかろうか。独奏の時はあまり分からないが、普通指が弦に触れたのち、爪が弦から離れる瞬間(これが音の出る瞬間なんだが)までの時間が人それぞれ微妙に異なる。これは癖といってしまえばそれまでだが、とにかく人さまざまだからいたしかたがない。(それだけでなく、そもそも右指と左指のタイミングがしっかりと合っていない人が多いので、まずはそこから訓練する必要があるが)
しかしこれが揃わないと音楽のリズムとしては合っていても、なんとなく音楽がなくきたなく聞えてしまって、二重奏の魅力を損ねてしまう大きな原因となる。これは一言では片付けられない困難さを伴うものなんだが、しかしこれを克服しないことには良いギターのアンサンブルは望めないので、目指しておられる方達はそのあたりに充分気をつけて練習に励んでもらいたい。
 またこれも重要なことであるが、アンサンブルで音楽を作っていくときに、誰がその音楽の主導権を握って引っ張っていくかということである。通常そこそこの腕前の演奏者がアンサンブルを行う場合は、お互いを尊重し合ってどうしても中間的な音楽作りになってしまうことが多い。結果それぞれの腕前の割にはただ楽譜通りに弾いただけになり勝ちなので、やはりここはどちらかが主導権をもって音楽作りをしていくとよい。当然のことだがオーケストラのように人数が多くなった場合も音楽作りを多数決でとはならず、指揮者がいてオーケストラを自分の楽器のように扱うわけだし、そのときはいかに優れたソリストが中に混じっていようと、「それはちょっとおかしいんでないかぃ?」とはなかなか言わないだろう。とにかくうまくやろうとすればそこは「お代官様」である指揮者に任せるしかないわけだ。
アンサンブルというのは、確かに独奏をすることからみればテクニック的にもそこまでは要求されないことが多く、しかも手軽に友人同士楽しめるものなので、皆さん大いに挑戦してもらいたいのだが、譲り合ってもだめ、我を張り合ってもだめ、かといって中間をとってもだめと、それなりになかなか難しいものなのである。そのあたり村治姉弟のデュオは近年稀なと思えるほど見事で、これからも末永く我々にアンサンブルの魅力を披露してもらいたいと願っている。
内生蔵幹

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