「懐かし系」のブログ記事一覧-ミューズの日記
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<あれも聴きたい、これも聴きたい>シリーズ「ギターの名手たち」のラゴスニック

 「昔はえがったなぁ」などというつもりは毛頭ないけれども、今振り返ってみるとあのころ(昭和40年代)はこんなものを出して果たしてちゃんと売れたんだろうかと余計な心配をしてしまうようなレコードが結構あった。今回はそんな貴重なものの中から1枚、ロベール・ヴィダル監修「ギターの名手たち」という名で発売されたシリーズの中の第8集、若かりしころのコンラッド・ラゴスニックの演奏を収めたもの。しかも収録曲がなんとも渋い。A面には20世紀フランスの作曲家ジャック・ボンドンの「ギターとオーケストラのための三月の協奏曲」。B面にはド・ヴィゼー作曲「組曲ニ短調」とソルの「モーツァルトの主題による変奏曲」の2曲のみ。

■このシリーズは、当時世界的に最も権威のあるとされたパリのギターコンクールから育った優れたギタリストを世に紹介する目的に製作されたものだったような気がするのだが(あまり自信はない)、商業ベースには乗りにくい大変良心的な企画だった。
そのシリーズの中には他にマヌエル・ロペス・ラモスがギターを弾いたテデスコのギター五重奏曲などがあり、私たちは当時あまり聴く機会のなかったこの曲をワクワクしながら聴いたものだった。その後アリリオ・ディアスが良い演奏をしたレコードを出し、少しづつ世に知られるようにはなってきたが、当時この曲は私が知る限りセゴヴィア以外録音がなかったので、このマヌエル・ロペス・ラモスのレコードはとても貴重なものであった。

そもそもジャック・ボンドンという作曲家、知っている人がどれほどいるのかわからないが、三省堂出版の音楽辞典を見てもその名前は出ていない。今でもコンサートで取り上げられるギターの協奏曲となるとロドリーゴのアランフェス協奏曲が圧倒的で、次に続く「ある貴神のための幻想曲」でさえぐっと落ちる。そのあとはさらに少なくなってテデスコのギター協奏曲ニ長調かヴィラ=ロボスのギター協奏曲どまりだろう。その他となるとせいぜいジュリアーニのギター協奏曲イ長調作品30かヴィヴァルディのギター(リュート)協奏曲ニ長調くらいで、それ以外の曲を聴けるチャンスはほとんどない。現在でもそんな状態なのに、当時(今からゆうに40年以上は経っている)、こんな渋い曲を入れたレコードが一般に発売されていたわけだから驚く。とにかくその後もこのジャック・ボンドンの作曲した「三月の協奏曲」を録音したレコードは、このラゴスニックの残した演奏以外お目にかかったことがないし、少なくともこの日本において実際にコンサートで演奏されたということを聞いたこともない。この曲には管楽器や打楽器が大変多く使用されておりオーケストラの規模も大きい。アランフェスのようなポピュラー性には乏しいが、イエペスが録音しているオアナやピポなどの作品に比べればずっとオーソドックスで聞きやすい作品だし、ギターとオーケストラの関係もあまり音がかぶらないような配慮がなされているため演奏効果も高く、いつでも演奏可能な作品ではないかと思う。またこのジャック・ボンドンには私のLPコレクションの中にもう1曲ギターのための協奏曲があって、そちらの方はロバート・オウセルがソロをつとめているが、こちらも作風としてはあまりアカデミックに走らず、「三月の協奏曲」同様大変聞きやすい作品だ。実際のコンサートとなると主催者側としては集客のことを考えれば「どうせならアランフェスを・・・」となってしまうのだろうが、そろそろ日本の音楽界もこのような状態から少しは抜け出して、もっといろいろな作品を取り上げてもよいのではないかと常々考えている。

それはともかくこのレコードに見られるラゴスニックの演奏は大変手堅く良心的なもので、まさに「ギター音楽」というよりも「西洋音楽の王道」といった感がある。テクニックも素晴らしく、コンピュータを使った現在のデジタル録音と違って、あまり録音後の修正のききにくいアナログ録音であることを考えると見事な指さばきである。ド・ヴィゼーの組曲は時代様式はともかく大変かっちりと弾かれていて、録音された年代のことを考えれば大変好感がもてるし、ソルの魔笛も序奏が現代の常識的な演奏と比べればかなりのハイスピードで少し違和感を感じることを除けば情緒に流されない正統派という気がする。しかも当時はセゴヴィアをならって序奏は弾かれないことが多かったので、その面でも我々にはとても参考になったし音楽としても新鮮な気分で聴くことができた。またその後に続く主題、変奏、終曲、どれをとってもラゴスニックは見事なテクニックで自然な音楽を展開しており、元々ソルの作品自体、出身地であるスペインを感じさせる要素は少ないため、ソル自身もこのラゴスニックのように弾いていたのかもしれないとさえ思えてくる。おしむらくはこのレコードのどこにも録音に関係するデータ(年月日、場所、使用楽器、録音機材等)が記載されていないばかりか、なんと演奏しているラゴスニックさんについてさえ、写真を載せているだけでその経歴も何も記載していないのはどうしたことだろう。しかし百歩譲って発売された年代のことを考えると、このように良心的な内容のレコードがシリーズで一般に発売されていたことに感謝せねばならない。やっぱし昔はえがったんかもしれんなぁ。
内生蔵幹(うちうぞうみき)


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<あれも聴きたい、これも聴きたい> 2つのテデスコのギター協奏曲

ジョン・ウィリアムスの弾くテデスコのギター協奏曲ニ長調作品99は、過去に2度の録音があって、一回目のユージン・オーマンディ指揮、フィラデルフィラ管弦楽団と共演した録音(写真左)が、その後私の知る限り1回も再発されないで、ジョンの弾くテデスコの協奏曲といえばチャールス・グローブスの指揮でイギリス室内管弦楽団と共演した1977年の2回目の録音(写真右)が繰り返し再発されていることは以前ここでも紹介した。もし皆さんがジョンのこの曲のCDをお持ちなら、それはほとんどがこの2回目の録音のものではないかと想像される。1回目の録音は1965年、ジョンがまだ24歳のころ、アメリカデビューを果たした時の録音であり、2回目のそれは1977年、ジョンが36歳の時のもので、最初の録音から12年後ということになる。

 では内容はどうかというと、今はどこにも出ていない1回目の録音の方が圧倒的に優れている。何が違うかと言うと、オーケストラの演奏がユージン・オーマンディの指揮するフィラデルフィア管弦楽団の方が終始高い緊張感をもって、理想的と言えるほどの素晴しい演奏を行っていることだ。私の趣味で言わせてもらえば、数あるこの曲の演奏の中でも圧倒的な名演と言えるのではないだろうか。

ユージン・オーマンディという指揮者は特に私の好みというわけではなく、ある種の管弦楽曲には聴くべきものも残してはいるが、ベートーベンやブラームスなどといった重厚さをもった作品となると何とも軽く、ただフィラデルフィアトーンと云われたきれいな音だけが売り物で、まったく中身が感じられないといった、むしろ印象の薄い指揮者だった。しかし、そのオーマンディも何故かソリストを招いてのコンチェルトにはいつも抜群の冴えを見せており、さぞかし共演したあらゆる楽器のソリスト達も気持ちよく乗って演奏できたのではないかと想像される。とにかく今回のテデスコの協奏曲にしてもオーマンディは抜群のサポートを見せている。いやいやサポートどころかこの曲の理想的な形を示しており、充分な感動をもって聴くものの心に迫ってくる。その表現力は、一度この演奏を聴いてしまうと他の奏者の演奏がどうしても物足らなくなってしまうほどだ。あまり意味は無いかも知れないが、2種類のレコードの演奏時間を比較してみると、1回目の録音が1楽章から3楽章までのトータルで19分と28秒。2回目が20分と38秒。2回目の方が1分と10秒も長い。勿論演奏が遅いからいけないなどといっているのではない。1回目のユージン・オーマンディの方は抜群のリズム感と歌いまわし、そして素晴しいアクセント、全ての楽章を比類ない豊かな表現力でもって演奏をしており、テデスコの魅力を充分に発揮しつくしている。従って24歳のジョンもこれ以上ないほどの素晴しい演奏を繰り広げており、結果、先ほどもいったように数あるテデスコのコンチェルトの中でも最高の名演となっている。それに比べて2回目の録音のときの指揮者、チャールス・グローブスの演奏のなんと覇気のないことか。めりはりのないこと夥しい。リズムは弾まず、ただ中途半端にだらだらと音を出しているだけ。途中で時々入る管楽器や打楽器も、なんだか突然入ってきたようで、とてもその音に必然性が感じられない。しかもそんな内容で1分以上も長い時間をかけているため、その緊張感のないことといったら聴いていて腹立たしいくらいだ。おかげでジョンの演奏もテクニックはいつもながら素晴しいのだが、なんとも覇気がなくて起伏も乏しい。そりゃあバックでこんなにだらだらとした演奏をされた日にゃあ、さすがのジョンも・・・、といったところだろう。特に3楽章の生気のなさといったら「おめぇら、ええかげんにせんかいや!」と言いたくなってしまうほど盛り上りに欠け、申し訳程度に一番最後だけ、「あっ!もう終わりだ、ここで少し盛り上げとかなくちゃ!」といった感じでなんともわざとらしく速度を落とし、あとは音量だけ上げておしまい。チャールス・グローブスという指揮者は百選練磨、大英帝国からサーの称号ももらっており、それなりに重要な実績も残している指揮者だ。にも関わらずなんとも歯がゆい、しかも恥ずかしい実績を残してしまったことだろう。おそらく想像するにチャールス・グローブスはテデスコの音楽世界を理解しないまま録音に臨んでしまったのではないだろうか。理解不能なまま録音の話がまとまり、仕方無しに楽譜に書いてあるまま棒を振ったのではないだろうか。なぜならチャールス・グローブスはそれまでにも幾度となくジョンと共演をしており、それなりに名演奏を残している。(勿論他の管弦楽曲でも多くの素晴しい演奏を残している)ドッジソンのギター協奏曲の1番とロドリーゴの「ある貴神のための幻想曲」、そして今回のテデスコの裏面に入れている同じくドッジソンのギター協奏曲第2番など、どれをとってもなかなか良い演奏をしている。なのにである。なんでこのテデスコのコンチェルトだけがこんなにも駄演なのか。私には明らかに「チャールス・グローブスという指揮者の性に合わなかった」としか思えない。そうでなければ、これほど緊張感のない駄演がそのままレコードとして世に出ることを彼が許すはずがない。きっとその演奏がテデスコの音楽世界をとても表現していないということにすら彼は気付いていないのではないだろうか。
それにしても皮肉なもので、グローブスにとっては生涯の駄演がいつまでも残って、何度もジョンのテデスコとして再発されている。おかげでジョンはその演奏の12年前、世紀の名演を残しているのにもかかわらず、凡庸な演奏のみが残り、いつまで経ってもジョンのテデスコは話題に上らないでいる。どうしてそんなおかしなことが起るのか。勝手に想像するに、マスターテープに何らかの事故があったか、あるいは政治的問題か、はたまたレコード会社の連中の見る目、いや聴く耳がなかったのか。24歳のジョン・ウィリアムスの名演、そしてユージン・オーマンディの名サポートによるテデスコのギター協奏曲の理想形を皆さんにぜひ聴いていただきたいと切に望むものである。


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こんにちは、渡辺なつ実です。

先日はお休みを利用して、とあるギターの合宿に行ってきました。

場所は飛騨の方のペンションです。
すごく素敵なペンションで、身も心もリフレッシュ!

鳥の声や涼しげな虫の声が当たり前に聞こえてきて、下界とは違って涼しいし、その上携帯電話もつながらないし(?)、と本当に貴重な時間を過ごしました。
やっぱり自然の中にいるとストレス解消になりますね~。

こんな所で1週間くらいこもって作曲できたらいいな~なんて考えてしまいました。

もちろん、ギターの練習もしました。普段と違った静かな環境の中で思う存分音を出していると、また違った音楽の発見があったりしておもしろいです。

合宿が終わって名古屋に帰っていくときは本当になんだか下界に下りてきたような気持ちでした。

合宿は集中できるのと、仲間との交流がたくさんあるのでいいですね。

それでは今日はこの辺で。


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こんにちは、渡辺なつ実です。

本当に梅雨なのだろうかと思っていましたが、今日は雨降りですね。
めぐみの雨、といいたいぐらいです。雨が降ると涼しいですし。

よく思うこと。現代は生活の中に音楽が溢れていますよね。テレビをつけていても、街を歩いていても。信号を渡るときでさえ、音楽は流れます。
それが当たり前となっていますが、そうではなかった頃は、どんな風だったんでしょう。時々考えます。

今よりも簡単に音楽を聴く機会がなかった時のほうが、実際に聴いたときの感動は大きかったのでしょうか。
そんな感覚を一度味わってみたいと思う今日この頃です。

それではまた。



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