2006年10月31日のブログ記事一覧-ミューズの日記
ミューズ音楽館からの発信情報  ミューズのHP  http://www.muse-ongakukan.com/

 



投稿から随分時間が経ってしまって申し訳ありません。この原稿は9月初旬にいただいていたものです。ご了承ください。山下 高博

<あれも聴きたい、これも聴きたい> 音楽表現

 8月28日、ミューズサロンでグロンドーナのマスタークラスが開かれ、終了後ちょっとしたおつまみとビールで乾杯という席が設けられましたが、今回はその時にあった興味深いお話をひとつ。
 山下さんの方から「何かレッスンの時に訊けなかった質問があれば・・・」というように話を向けられた時、中におられたどなたかが楽譜をお持ちになって「正しいトリルのやり方を教えてください。たとえば装飾音は1回なのか2回なのか、あるいは3回した方がよいのか」といった内容の質問をされました。
 その時のグロンドーナさんのお答えは時間的にかなり長く、外国語の分らない私にとってはあまり細かいところは理解できなかったのですが、おおよそ「好きに弾いたらよい」というものでした。つまり、「それは貴方がお決めになったらいい」ということです。
 これは大変面白い答えで、実は大変芸術の核心をついた答えでもありました。
 以前誰かにこんなことを訊かれたことがあります。「5連音符や7連音譜といった割り切れない数の音符を、均等に弾くためにはどうしたらいいですか?」とか、「この曲のこの部分はどのように弾いたらいいですか?」とか、まさに音楽の核心に触れるような質問です。答えは勿論「好きにすればいい」です。
5連音符や7連音符など、作曲家が一拍の中を均等に割り振って弾いてほしいなどと考えているはずもないのですが、にもかかわらずどうしても均等に弾かなければならないと思っている方が多いのにも驚かされます。でも均等に弾く必要が無いとしたら、じゃあどういうリズムで弾いたらいいのか、今度はそこが問題になりますね。

次の「ここはどう弾いたら・・・」と訊かれたところで、こう弾きなさいというのもおかしな話ですし、いろんな表現の仕方を見せて、「その中から好きなものを選びなさい」というものでもありません。
 皆さんはそんな音楽の核心に触れるような重要なことを、他人に決めてもらおうと思っておられるのでないでしょうか。
 皆さんは、楽譜というものには、それを表現するにあたって必要なことが全て書いてあると考えておられるのではありませんか?楽譜に書いてある通りに弾けさえすれば、自動的にそれが音楽になる、というように考えておられるのでは?
残念ながら答えは「否」「NO」。楽譜にはほとんどのことが書かれていないものなのです。
じゃあ何が書いてあるかというと、楽譜には音の高さと長さ、そして出す音の順序が書かれているに過ぎなくて、しかもほとんど目安程度のことしか書かれていないということは、今回のグロンドーナさんのレッスンを受けられたり、聴講された方はお分かりだと思います。同じ音符を弾いているのに、その表現力たるや、まったく比較できないくらいに大きく違っていましたね。演奏する方は、音の高さと長さ、そして順序しか書かれていない楽譜から、音楽(芸術)を引き出さなくてはなりません。楽譜に書かれている通りに音を出したところで、それは音楽あるいは芸術からは程遠いものでしかありません。
メトロームに合わせて演奏しても音楽にはならないのと同じです。
 
そのほかどんなことにたとえたら分り易いか考えてみると、小説を朗読することにちょっと似ているかもしれません。本を読んで人に聞かせるということを考えた時、一本調子で、なんの抑揚も無く、ロボットのように読んだとしたら(小学生の朗読によくありますね)、書いてある内容は伝わるかもしれませんが、聞く人からは、きっとそんな朗読だったら自分で読んだ方がいいと言われてしまうことでしょう。立派な文学作品も、ちょっと台無しといったところでしょうか。
それでも文学作品は元々朗読してもらうために書かれたものではありませんから、なにも人に読んで聞かせてもらわなくても、それ自体が立派な芸術作品として自立しています。ですから上手く声を出して朗読できない人でも、目で読んでいくだけで充分芸術作品として、その価値を味わうことができます。(勿論和歌のように元々読み上げられることを前提として作られた文学もありますが、それなぞはかなり音楽と近いかもしれません)

しかし音楽はそうはいきません。書かれた楽譜そのものは芸術作品でもなんでもありません。音になって初めて芸術たりうるのです。ですから演奏家の方に演奏してもらわなくては、私達はその芸術を味わうことができません。しかもその表現方法である音符というものは、先ほど言ったように、音の高さと長さ、そしてその順番を、目安程度にしか表現することができないときている。それはそうでしょう。音符なんて基本的にドからドまで12の音しかありません。それに引き換え文学の表現方法である文字は、いろは48文字、何千とある漢字、そして片仮名なども駆使することができるのです。しかも熟語のようにそれ自体独自の意味を持ったものも自由に使い分けることができる。ですから音符では文学のように繊細な言葉のニュアンスによって、人間の感情の変化といった細かいところまで表現するわけにはいきません。(かといって文学の方が音楽よりも表現が簡単にできるといっているわけではありませんので、誤解なさらないでください)
音楽の場合、そこに演奏家の役割の重要性が大きくものをいってくるのです。
 
「いや、楽譜にはフォルテもピアノもクレッシェンドもリタルランドもいっぱい書かれているじゃないか」と思われるかも知れません。しかし、それこそそれは貴方が決めることであって、その通りにしなくてはいけないということとは根本的に違います。むしろ楽譜に書かれている発想記号の類は、その楽譜を書いた人(編曲した人、運指をした人のこと)のまったく個人的な考えを書いたまでであって、ほとんど「私はこう思うんですが・・・」程度のことと考えればよいのであり、むしろそう考えるべきなのです。つまり無数にある表現方法の中のほんの一例をあげているに過ぎないのです。この音は大きく弾くとか、ここからは段々音を小さくしていく、ここは滑らかに弾くなどということは、演奏する貴方が決めることであって、極端に言えば、貴方がどう弾こうが、誰からもとやかく言われる筋合いのものではありません。むしろ、楽譜を見たとき、「自分がどう弾きたいのか分らない」ことの方が大問題なんだということを理解してください。

貴方が今弾いているその曲は、貴方が自分で「弾きたい」と思ったからこそ練習しているのでしょう。しかし自分が弾きたいと思った曲が、自分でどう弾いていいかわからない。だから人に決めてもらいたくなってしまうのではないですか?「ここはどう弾くべきなんでしょう?」と。
最初に挙げた「トリル」の場合、「その曲が作られた当時は一般的にはこのようにしていた」という考え方と、「いや、あくまでも自分の良いと思う方法でやりたい」という方法と、行き方としてはふたつあります。いずれを選ぶかは貴方自身です。200年、300年前の当時を正確に再現したいのか、21世紀の人間として好きにやりたいのか、選ぶのは貴方です。どちらを選ぶかは自由なのです。
しかし、その演奏を聴いて「いい」か「悪い」か、「好き」か「きらい」か、判決を下すのは貴方ではありません。聴いている聴衆なのです。だから一番幸せなのは、自分が好きなように弾いて、それを聴いた人も「いい」と思ってくれることなんですね。私はジュリアン・ブリームなんか、それの典型のような気がします。
自分は好きなように演奏したんだけども、聴いている人は「いい」と言ってくれないとしたら、それは聴いている人に「聴く耳がない」か、貴方の「独りよがり」になってしまっているかのいずれかでしょう。そこがまた難しくて、やりがいのあるところではないでしょうか。
もっと自分の心の中から「こう表現したい」というものが沸きあがってくるようにするためにしなくてはならないことを「練習」とも「訓練」とも「勉強」とも「経験」ともいうんじゃないでしょうか。あくまでも人に訊いてそのまま弾くことではないと思うんですね。
内生蔵 幹(うちうぞう みき)

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )