2011年5月のブログ記事一覧-ミューズの日記
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<あれも聴きたい、これも聴きたい> アンドレス・セゴヴィアのLP

 アンドレス・セゴヴィアは晩年多くの録音をデッカで行い、私たちが若かった頃はセゴヴィアのレコードといえば、十数枚あったはずのこれらのシリーズのことを指していた。最晩年にはMCAレコードへわずかに残した録音(トローバの連作、スペインの城など)もあるが、ほとんどはイギリスに本拠地を置くデッカへのものであった。最近ではいろいろなレコード会社がこぞってセゴヴィアの録音を復刻させていて、私たちも知らないような若い時代の演奏が聴けるようになってきたが、私としてはできれば当時のジャケットをそのままに再現して販売してもらえないかと切に願っている。
それらは当然だがナイロン弦が登場する前のものがほとんどで、中にはスチール弦の音ではないかと思えるものもあって、聴いていてなかなか興味はつきないとともに、先人達の苦労が偲ばれて感慨無量である。

若い頃のセゴヴィアの演奏はとにかくすさまじく、猛烈なテクニックを誇っており、わずかに残る他のギタリスト達の演奏が足元にも及んでいないことがよく分かる。おそらく当時の他の同業者達には恐怖に近いものを抱かせたであろうし、それ以外の人たちに対しても、ギターの表現力に無限の可能性を感じさせたであろうことは容易に想像がつく。作曲家にしても、あるとき突然、創造力を刺激するまったく新しい素材が目の前に現れてきたわけだ。黙って見過ごすわけはない。
それらの作曲家や音楽関係者の中では当時こんな会話が広まっていったのではないだろうか。
A:「おい、最近ギターですごい演奏をするセゴヴィアとかいうヤツが出てきったってぇ話だが、おめぇ聞いたことあるかい?なんでもできねぇこたぁねぇって話だぜ。とにかくそいつの手にかかった日にゃおめぇ、あのバッハのシャコンヌだってギターで弾きこなしちまうっていうじゃあねぇか」。
B:「そりゃほんとかい?おめぇまた狸にでも化かされてんじゃねぇだろうなぁ。こちとらギターなんてものぁ、スペインの片田舎でフラメンコをチャラチャラかき鳴らすしか能のねぇ低俗な民族楽器くれぇにしか思っちゃいなかったのによぉ。そいつがいっぱしにあのバッハを弾いちまうなんざぁ、よっぽどの天才か間抜けな世間知らじゃねぇのかい?」。
A:「しかしよぉ、これだけ世間さまが騒いでるんだ。話のネタにいっけぇぐれぇ(一回ぐらい)聴いてみたらどうでぇ。ひょっとしたらこりゃ、えれぇ拾いもんかもしれねぇぜ」。
B:「そうさなぁ、あちこちでいろんなもんを聴きに行ってるおめぇの言うこった。騙されたと思っていっけぇ(一回)行ってみるとするかぃ。ところでそのセゴなんたらいうやつぁ、舞台の上で裸でギター弾くのかい?」
A:「それほどヤツもバカじゃねぇだろうヨ。何でだい?」
B:「だっておめぇ、チラシにゃぁ「アン・ドレス(服を着ていない)」ってけえて(書いて)あるじゃねぇか」
A:「ちげぇねぇ!間抜けなやつだったらそれぐれぇやっちまうかもしれねぇなぁ」。
B:「そうだなぁ、こりゃあおもしれぇことになってきやがった」。
とまあ落語に出てくる江戸の町人が、初めて吉原へ繰り出す前のような会話があったのではなかったかと想像する。それにしても当時セゴヴィアの演奏を目の当たりにした聴衆は、プロもアマも、ギターに関係するしないに関わらず、皆一様に度肝を抜かれたのではないだろうか。

そんな時代からずっと下って、そのセゴヴィアが晩年、前にもいったデッカに素晴らしい遺産を沢山、しかもステレオで残していってくれたことには我々は感謝しなければいけない。今回はその中の1枚で、A面が(懐かしいなぁこの言葉)なんとあのアグアドの超簡単な練習曲が8曲とソルの練習曲が4曲。これはセゴヴィアが自ら編纂した20の練習曲から抜粋したもの。セゴヴィアはこのようにソルの練習曲の中から特に有益と思える作品をわざわざ20曲選びだして校訂・運指を行っており、今でもギターにおけるバイブル的な存在となっているんだが、ご本人はそれらをまとめて演奏することなんぞにはまったく興味がなかったと見える。とにかく好きなときに好きな曲だけ演奏する。そこがまたセゴヴィアらしいといえばセゴヴィアらしいのかもしれない。
そしてB面はポンセの3つのメキシコ民謡から第2曲目の「歌」、同じくポンセの南のソナチネの第1楽章で、セゴヴィアが勝手につけたと解説にある「歌と風景」。(これも大変セゴヴィアらしいことで、ソナタの中のある楽章だけ取り上げて演奏するなどということは他の世界ではあまりないはずだが、この人くらいになると許されっちまうんだねぇ)。そしてアルベニスの有名なグラナダに続き、タンスマンのマズルカ、グラナドスのこれまた名曲、スペイン舞曲第5番「アンダルーサ」となっている。これらの曲はそれまでにセゴヴィアは何回となく録音しているが、このレコードにある録音が本当に最後の録音ではないだろうか。とにかくギターによる「うた」が素晴らしい。ギターという楽器をこれほど歌わせることが本当に可能なんだろうかと思えるほど歌心に溢れている。普通初心者がまず手がけるアグアドの練習曲も、ほんの数章節で終わってしまうのがもったいないほど美しい作品に聞えるし、ソルの練習曲のアルペジオもこれほどレガートに弾かれたことを私は知らない。まさに珠玉の名曲になっている。3つのメキシコ民謡はポンセがギターのために書いた作品の中でもほとんど初期の作品なので、手法としてあまりこなれているとはいえず、誰が弾いてもあまり様になっていることはないのだが、ここでのセゴヴィアの手からはさすがといわせる表現が聞かれ、これも小さな名曲として楽しむことができる。グラナダやスペイン舞曲といった自国の作品は当然ながら、タンスマンのような東欧ポーランドの作曲家の作品を聴いても、その音の繋がり、絶妙のグリッサンド、消え入るような弱音と輝かしい弦の響など、到底なまじっかな才能ではマネのできない個性と歌心が光を放っている。

当時私はあまりセゴヴィアのLPを購入できず、現在CDで復刻されたものは別として、いまだに数枚しか持っていないが、このボブリの手になる美しい装丁のLPは、ポンセの作品を聴いてみたくて購入したものと記憶している。しかし今ここに聴くそれ以外の演奏にも心癒され、あのころ多少の無理をしてでももっと手に入れておくべきだったと後悔しきりの思いがしてならない。
内生蔵幹

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<あれも聴きたい、これも聴きたい> ギターのアンサンブル

 先日大阪のいずみホールで行われた村治佳織さんと弟の奏一君の弾く二重奏を聴いて思ったことがある。勿論この日の演奏は大そう素晴しく、久しぶりに本物のギターデュオを聴かせてもらうことができた。
お2人それぞれの独奏は今まで何回となく聴いているのだが、二重奏となるとさすがに私としても今回初めての経験。年齢も近く、なによりも兄弟が演奏するわけだから、当たり前といえばあまりにも当たり前なのかもしれないが、普段我々が耳にすることができるギターの二重奏とは段違いに息が合っていただけでなく、驚くほど撥弦のタイミングが合っていて、それはもうゾクゾクするほどスリリングで気持ちの良いコンサートだった。
私も若い頃はギターの二重奏に随分打ち込んでいたことがあり、それなりに難しさは理解しているつもりだけれど、ギターの場合この撥弦のタイミングをぴったりと合わせることがとにかく難しい。
 そもそもギターの場合複数の演奏者のリズムを合わせることが難しい。これはヴァイオリンのように擦弦楽器のそれとは大違いだ。とにかく音そのものがパルスで出るわけだから、リズムにおける出だしの音だけではなく、全てに渡って2人の出す2つ以上の音を揃えて出すようにしなければならない。ヴァイオリンにしたところで全ての音をピツィカートで演奏してみればその難しさがわかるだろう。なかなかぴったりとは合わせ続けられないはずである。ギターの場合、最初から最後までそれを要求されるわけであるから、友人同士お手軽に楽しめる演奏形態の割には、コンサートのステージに乗せようというようなレベルを要求すると途端にそうはいかなくなる。2人が1st.2nd.に分かれて単に一緒に弾いているだけになってしまい、下手をすれば合わせるだけで精一杯というところが聴く側からも見えてしまうということになり勝ちである。これではお金を払って聴かされる方はたまったものではない。なにしろ音楽を聴きに来たつもりが、とてもじゃないが楽しむどころではなくなってしまうわけだから。聴きながら「何とか合わせろよ!」、「無事終わりまで行ってくれ!」と祈るような気持ちで聴き続けなくてはならないはめになる。何が悲しくて演奏会へ来て、演奏が無事に終わるよう祈らなくちゃいけないんだ?とおかしな気持ちになり、ちょっとオーバーかもしれないが、こんな演奏会へ来てしまったことに対し自己嫌悪にも陥りかねない。

 こんなことは意外とレコードやCDになっているほどの合奏団にもあって、現在世界中で発売されているレコードやCDの中には、よくもまあこの程度でCDなんか入れさせてもらえたもんだと感心するようなものにも結構出くわすことがある。それはそれで珍品レコード・CD収集として面白いんだが、いつもこんな調子ではそうも言っておれなくなる。やはり昔のプレスティとラゴヤのように得もいわれぬ魅力をかもし出すような演奏をしてほしいし(そう簡単に出来りゃ苦労しないって!)、昔瞬間的に存在した「アブリュー兄弟」や最近の「アサド兄弟」のように丁々発止、火花を散らすようなというか鬼気迫るというか、とにかく聴いていて胸のすくようなアンサンブルを聴かせてもらいたいと願うばかりである。(自分が弾くんじゃないと思ってむちゃくちゃ言うなぁ!)
 以上のようにたかだか2人で弾く二重奏ですら簡単にはいかないのに、3人、4人となるとますます難しくなることは当然だし、果たして「同じ音域のギターを2台以上並べてどうするだぁ!」という意見ももっともな気がするので、ここではギターの場合、せいぜい二重奏までということにしたいと思うが、いずれにしてもギターのように音がパルスでしか出せない撥弦楽器のアンサンブルというのは難しいものなのである。

 とにかくただでも難しいギターの二重奏で何が難しいかというと、2人が出すパルスとしての音の、出るタイミングそのものをぴったりと合わせることほど難しいことはないのではなかろうか。独奏の時はあまり分からないが、普通指が弦に触れたのち、爪が弦から離れる瞬間(これが音の出る瞬間なんだが)までの時間が人それぞれ微妙に異なる。これは癖といってしまえばそれまでだが、とにかく人さまざまだからいたしかたがない。(それだけでなく、そもそも右指と左指のタイミングがしっかりと合っていない人が多いので、まずはそこから訓練する必要があるが)
しかしこれが揃わないと音楽のリズムとしては合っていても、なんとなく音楽がなくきたなく聞えてしまって、二重奏の魅力を損ねてしまう大きな原因となる。これは一言では片付けられない困難さを伴うものなんだが、しかしこれを克服しないことには良いギターのアンサンブルは望めないので、目指しておられる方達はそのあたりに充分気をつけて練習に励んでもらいたい。
 またこれも重要なことであるが、アンサンブルで音楽を作っていくときに、誰がその音楽の主導権を握って引っ張っていくかということである。通常そこそこの腕前の演奏者がアンサンブルを行う場合は、お互いを尊重し合ってどうしても中間的な音楽作りになってしまうことが多い。結果それぞれの腕前の割にはただ楽譜通りに弾いただけになり勝ちなので、やはりここはどちらかが主導権をもって音楽作りをしていくとよい。当然のことだがオーケストラのように人数が多くなった場合も音楽作りを多数決でとはならず、指揮者がいてオーケストラを自分の楽器のように扱うわけだし、そのときはいかに優れたソリストが中に混じっていようと、「それはちょっとおかしいんでないかぃ?」とはなかなか言わないだろう。とにかくうまくやろうとすればそこは「お代官様」である指揮者に任せるしかないわけだ。
アンサンブルというのは、確かに独奏をすることからみればテクニック的にもそこまでは要求されないことが多く、しかも手軽に友人同士楽しめるものなので、皆さん大いに挑戦してもらいたいのだが、譲り合ってもだめ、我を張り合ってもだめ、かといって中間をとってもだめと、それなりになかなか難しいものなのである。そのあたり村治姉弟のデュオは近年稀なと思えるほど見事で、これからも末永く我々にアンサンブルの魅力を披露してもらいたいと願っている。
内生蔵幹

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先週の土曜日(5/14)から店内で「邦人製作家フェア」を開催していますが、今日も加納先生が追加で4本のギターを持って来てくださり、合計で加納ギターが16本揃いました。こんなに加納ギターが揃ったのは初めてで、加納木魂フェアと銘打っても良かったぐらいです。
皆さんご存知の通り、加納さんはショートスケールの名人で、今回揃っているギターも号数別、スケール別に次の様になります。
<40号>
650㎜  1本
630㎜  1本
610㎜  1本
<60号>
650㎜  1本
630㎜杉 1本
610㎜  2本
<80号>
640㎜  1本
630㎜  1本
<100号>
650㎜  2本
640㎜  1本
630㎜  2本
<120号>
650㎜  2本
合計  16本

凄いでしょ!如何にショートスケール作りの名人とはいえ、こんなにたくさんのショートスケールが揃うと驚きではないでしょうか?
しかも、加納さんのお話しでは、最近ショートスケールの高額モデルが良く出るそうです。今月は180万円の610㎜が2本売れたそうです。えっ!180万円!と驚かれるでしょうが、私も加納さんの180万円の630㎜を個人の楽器として所有しています。今回も40号から610㎜が入っていますが、これが610㎜?!!と言う出来栄えです。是非一度610㎜の世界をご確認ください。一両日中に100万円の610㎜も入ってくる予定です。
こんなに揃うことはありません。この機会に是非ご覧あれ!
山下高博

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<あれも聴きたい、これも聴きたい> ちょっと若い頃のシャロン・イスビン

 久し振りにワクワク・ドキドキしながらCDを聴いた気がする。近頃の私にしては珍しいこともあるもんだが、それがどんなCDかというと、今やアメリカを代表する実力派ギタリストといってよい女流ギタリスト、シャロン・イスビン(1956年、ミネソタ州)が1984年、27歳の時に行った録音で、バリオスから始まり、ラウロ、サヴィオなど南米もののほか、グラナドス、トゥリーナ、ロドリーゴなどのスペイン、そしてイタリアのテデスコと、主にどちらかといえば民族色の強い作品ばかりを収めたものだ。
 はっきりとは覚えていないが、録音されてから1・2年後に発売となり、私としてもそのころ手に入れたもので、現在7・8枚所有しているシャロン・イスビンのCDの内、一番最初に手に入れたものということになる。もちろん当時私はこの人のことはその名前しか聞いたことがなく、どんな演奏をするギタリストなのかまったく知らずに購入した。
解説書を読むと、何でもトロントの国際ギターコンクールで、あのマヌエル・バルエコを押さえて第一位優勝を果した経験の持主と書かれているが、それを読んだ時は「コンクールなんて所詮そんなもんで、女性ということが審査員に対して少し有利にはたらいたんじゃねぇべが」くらいに思っていた。何しろバルエコよりも優れていると審査員が認めたわけだが、正直「そんなアホなことがあるかぁ!」という気持ちが拭えず、このCDからは、その経歴とは裏腹に「なんという荒削りな、独りよがりな演奏をする田舎のねぇちゃん!」という印象を受け、それ後は自分で「我流で品の無い演奏」というレッテルを貼り、ほとんど聴く気がしなくなっていた。その後少なくとも4・5回は聴いたことがあるような気はするが、その都度このCDに対する印象はあまり変わらず、ここしばらくはまったくといってよいほど自宅で聴いたことがない。
 それがどうしたことか、日曜日の今日、思い出したかのようにこの演奏が聴いてみたくなり、朝起きて一番にかけてみたのだった。
 するとどうだろう。あんなにも悪い印象しかもてなかったこの演奏が、素晴しく活々としてスリルに満ち、最初にもいったようにワクワク・ドキドキするような感動に満ちた演奏に聞えてしまったのだ。
こりゃどうしたことだ。当然CDに入っている演奏の内容が変化するわけもないので、これは聴くこちら側の変化というしかない。こっちがブレちまった訳だ。それを認めるしかない。こりゃ困ったゾ。毎回ここで(ミューズの日記)あれやこれや演奏について偉そうなことを書いている私が、同じ演奏について、どこかの国の漢字の読めない元総理大臣のように、これほどブレてしまうとは「みぞうゆう(?)な」大事件だ。まずいことになっちまった。これからは自分の発言にもう少し気をつけて、あんまり偉そうなことは言わねぇ方がよさそうだ。いずれにしても勝手に印象が変わっちまったのは仕方がないとして、何故なんだろうと考えざるを得なくなった。

とにかくこの時のシャロン・イスビンの演奏は、お世辞にも洗練されたものとは言い難いし、その素晴しい指のテクニックにも関わらずいたってバタ臭い。バリオス(ワルツ)にしてもトゥリーナ(ファンダンギーリョ)にしても、そしてグラナドス(スペイン舞曲)にしても、かなり癖のある演奏だ。歌いまわしやアクセントの取り方もかなり自己流だし、テクニックに任せての弾き飛ばしと思われても仕方のないような箇所も随所に見られ、とても一般的に言う正統派な音楽とは言い難い。現に私もこのCDを手に入れたときはあまり気に入らなかったわけだし、聴く人によっては好き嫌いがはっきり分かれる演奏といえるだろう。しかし今日の私の耳には、正統派の音楽とは違うが、むしろ「これこそ本物のギター演奏」というように聞えてしまったのだ。しかも演奏されている音楽がすべて民族色豊かなラテン系の作品ばかりである。ドイツやウィーンを中心とした、いわゆる現在世間一般に正統派と考えられている音楽とは違い、何か別のものを容認するというか、むしろ王道とは違う何かを要求する作品ばかりである。だからこそ「そうよ、こういう曲はこう弾かれてこそ初めてその魅力を発揮するんだわサ」と思えるのだった。(実はイスビンの別なCDの解説には、1978年、イスビン初来日の時の演奏を聴いた感想として、「ギターを聴いている以上に音楽を聴いているという実感を覚えた」とあるが、正直そんなはずはないという気がして仕方が無い。それはあくまでも解説を依頼された方の演奏者に対するお世辞に近い発言であって、私としたら「正統的な音楽の王道とは言い難いが、ギターの魅力を存分に発揮した素敵な演奏。むしろこれこそギターだ」と言うだろう)

そもそも「個性」というものはそんなものなんではないだろうか。全てに渡って「完璧」であればあるほど個性というものの入り込む余地は少なくなってくるものだ。女性も完璧な美人ともなると、目鼻立ちなど全てが整いすぎて個性が薄れてくるものだ。世に出て人気を博しているタレントの顔やスタイルを良く観てみると、やはりどこか整い過ぎず、少しくずれた部分がある。人はその何か整い過ぎたところから少しはみ出た部分に「愛嬌」とか「可愛さ」、そして「他の人とは違う美しさ」つまり「魅力的な個性」そのものを感じているのではないだろうか。つまり少し危険な言い方をさせてもらえば「個性とは、正統とは異なる許せる範囲での欠点」とでもいったらいいのかもしれない。
(注)私だったら・・・、完璧な美人が出てきても我慢する覚悟はすでにできているが。
ともかく今日何年かぶりに若きシャロン・イスビンの演奏を聴いて、久しぶりにこういう感想を抱き、なんだかギターもまだまだ捨てたもんじゃないなという気になった。今私が件のコンクールの審査員だとしたら、やはりバルエコの上にこのイスビンをもってきただろう。どうやら私も少し歳を取って趣味が変わってきたようだ。
また録音に際して使用された楽器は「トマス・ハンフリー(1981)」とあるが、これがまたなかなかドスの効いた低音と明瞭な高音の魅力を発揮して、音色そのものも随分魅力的な録音となっている。以下に収録曲を上げておく。
●バリオス:ワルツ第3、第4番、フリア・フロリダ●ロドリーゴ:ファンダンゴ●ラウロ:エル・マラビーノ、ベネズエラ・ワルツ第3番、セイス・ポル・デレチョ●A.ヴィアナ:コチチャンド●サヴィオ:バッカーダ●トゥリーナ:ファンダンゴ●グラナドス:スペイン舞曲第5番●テデスコ:タランテッラ
内生蔵幹

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<あれも聴きたい、これも聴きたい>イエペスの弾くヴィラ=ロボスの練習曲と前奏曲

 先回はイエペスの弾くソルの練習曲集を紹介したが、今回はヴィラ=ロボスの12の練習曲と5つの前奏曲を紹介しようと思う。演奏は1971年なので、前回のソルの練習曲集の4年後の録音。1927年生まれのイエペスの46歳のときの演奏になる。イエペスはご存知の通り、それまでにも芸術家として充分な実績を上げており、今回取り上げたLPの初出の時のジャケットの写真(同じ写真が使われていた)にも、すでにベルナベの10弦ギターを構えている写真が出ていることもあって(ソルの時はラミレスの10弦を持った写真が出ていた)、このころ既にかなりの年齢だったのではないかと思っていたのだが、その若さに改めて驚いた。
ところでこのころのイエペスは、何か教育的な目的で強くこれらの録音を残しておく必要性を感じていたのだろうか。4年経っているとはいえ前回紹介したソルの練習曲集に続きさらに大作のヴィラ=ロボスの練習曲全曲。しかも前奏曲も5曲全て(当時)とは。当時のイエペスの心の中を覗いてみたいような思いがする。何か強い使命感のようなものを感じていたのかもしれないが、我々ギター音楽の愛好家としては、よくぞこの演奏を残してくれたものと深く感謝したい。解説を読み返してみると、私たちのそんな受け取り方を証明するかのように、ソルの練習曲のレコードにもイエペスの言葉として「ギターを学ぶ人達に非常に助けになると考えて…」とか、「教育的な配慮から…」といったコメントが紹介されている。いずれにしてもこのレコードを聴いて行くとその意図は十分かなえられているといってよい名演奏となっている。音色、歌い廻し、音楽の運び等には、あまり過度ではないが十分なイエペスの個性が発揮されており、ほとんどの作品が素晴らしい芸術となっている。

しかしながらこれほど高度な練習曲も12曲全てとなると、イエペスの不得意(?)な部分をも垣間見られて面白い。それらは主に練習曲の2番、3番に表れている。イエペスは同じ音形が高速に続くパッセージにはやたらと強く、たとえば練習曲1番に見られるようなアルペジオのスピード感などは見事というほかないし、後半1弦と6弦は開放のままに、同じ押さえ方で1フレットづつ順に下がってくる部分の強調された2弦の響きなど「あっぱれ!」というしか言いようの無い個性的な表現になっている。さらに7番冒頭のスケールなども機関銃のように気持ちいいほど決まっている。しかし2番に採用されている左手によるアルペジオとでもいえる音の連続や、3番に出てくる同じような多弦に渡る音階にスラーが入り混じったような動きになると、途端に音の連続性が不安定になる。このような一種の癖とでもいえるような特徴は、実はイエペスの演奏には若いころから見ることができた。普通であればなんでもないと思えるようなパッセージで、時としてリズムが前のめりになったり、突っかかったように不規則にリズムが乱れる。その部分だけ取り出して聴いてみると、とても正確さに欠ける素人っぽい弾き方に聞える。これをイエペスの個性とみるか欠点と見るかは人それぞれとは思うが、私としてはやはりイエペスが生涯不得意とした指の動きのような気がしてならない。なぜならその突っかかったような、または時として前のめりになったような音の繋がりが、私にはどうしても必然的な音楽表現とは思えないからである。このあたりはイエペスのことをよくご存知のはずの荘村清志さんにいつか訊ねてみたいと思っている。

しかしその他の曲に関してはまったく見事としか言いようの無いテクニックと表現で演奏されており、練習曲としての目的にプラスアルファ、イエペスの個性が随所に、しかもいやみなくちりばめられており、何度聴いてもまったく飽きることが無い。ただ一つだけ最後に演奏される5つの前奏曲の最後、第5番だけは今のところ私としても正直言ってよく理解できないでいる。中間の短調の部分がその前後の長調の部分とまったくといってよいほど速度が異なり、聴いているとまるで楽章が変わったかのように完全に遊離し、異常なほどにゆっくりと演奏されていることだ。私にはそこだけはどうしても理解できない。何度聴いても「なるほどなぁ、そういう表現もあるかぁ」と納得できないのだ。もちろんこれも人によって感じ取り方の違いはあろうかとは思うのだが。

まったくの私の個人的な感想なんだが、イエペスは若い頃は当然のことながら自分の弾きたいように弾きまくっていたように思う。それが私たちの耳には斬新で、若々しく、しかもこの上なく芸術性高く聞えたものであった。しかし歳を重ねるごとに自分がどう弾きたいかではなく、その音楽が「どう弾かれるべきか」を追求していったように思えてならない。それは時としてギターという楽器の表現力を超えることを要求するため、私たちの耳には不自然と感じられたり、わざとらしさを感じてしまったり、言い換えれば「やろうとしていることは解るが、なにもそこまでしなくても・・・・」と思わせてしまうような表現を我々につきつけてくることがあった。それはあまりにも自然さを追求するあまり、知らぬうちに不自然な世界に迷い込んでしまっているかのようにも思えた。晩年のイエペスにはそんな姿が時折見られたものであった。しかし、今回取り上げたヴィラ=ロボスの練習曲と前奏曲全曲の演奏は、新しい世界を切り開いていこうとしながらも適度なバランス感覚を維持した芸術家イエペスが、我々に残して言った貴重な遺産という気がしてならない。
内生蔵幹(うちうぞうみき)

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