2006年10月11日のブログ記事一覧-ミューズの日記
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<あれも聴きたい、これも聴きたい> イェラン・セルシェルの登場
 皆さんは、イェラン・セルシェルというギタリストが世に登場した時のことを、覚えておいでだろうか。スエーデンの出身で、28年前の1978年。第20回パリ国際ギターコンクールにおいて、例の11弦ギターでもって優勝を勝ち取ったわけだが、その時の演奏を、濱田滋郎さんが解説をされていたと思うがNHK-FMの放送で、しかも私は車の中で初めて耳にした。
その時彼は大胆にも、バッハのリュート組曲の第4番を弾いたのだが、こともあろうに世界で1番権威のあるとされるコンクールにおいて、わざわざバッハの曲を選ぶとはなんと大胆なことをする人だろうと思った。第一、バッハなんてよほど上手く弾いたところで、コンクールの審査員達をうならせることことなど不可能に思えたからだ。つまりコンクール栄えしないと思った。しかし、そこから聞こえてくるバッハは、私が今までに聴いたギターで演奏されるバッハの中で、最もバッハとして納得できるものであった。バッハとして聴いて何の違和感もなかった。ギター特有の変な癖が無い為ギターを意識させることがない。しかしギター以外何物でもない。そして最もバッハらしいバッハがそこにはあった。

それまでギターで演奏されたバッハでは、最初に聴いたのがやはりセゴヴィアだった。だが当時中学か高校で、音楽の知識について殆んど素人に近かった私の耳にも、セゴヴィアのバッハは何か変だった。普通認識しているバッハとは大きく隔たっていた。「ギターで弾く時は、バッハもこんな風に弾くのかぁ」と思ったが、そこには何か釈然としないものがあった。次に聴いたのはイエペスであった。しかも有名なシャコンヌ。あのイエペス自らの画期的な編曲、運指に感動した。楽譜を手に入れて自分でも大真面目に練習した。とにかくそれまでのセゴヴィアの流れを汲む編曲、運指方法とは根本から違っており、おかげでそこから多くのものを学び取ることができた。だから私はシャコンヌはイエペス版でしか練習したことがない。しかし暫くするとどうもおかしいと感じるようになってきた。これはやはりイエペスのバッハだ。イエペスの版で演奏する限り、誰が弾いてもイエペスになってしまう。考えようによっては、イエペスの抱いていた意向と反して、最もギター臭いバッハになってしまう。それは、ギターの長所も欠点も自分の意思とは関係なく、丸出しになってしまうもののような気がしてきて、段々いやになってしまった。

次はジュリアン・ブリームのバッハだった。これはリュート組曲の1番と2番が裏表になったLPだったが、このレコードには心底衝撃を受けた。バッハがこんなにかっこいい音楽だとは知らなかった。これこそ本物のバッハだと思った。音を聴きながら、自分の持っている楽譜との相違点を考え、ブリームの運指をひとつひとつ拾ってみた。しかしとにかくこれでバッハに対するひとつの目標ができたと思った。ところが、次にジョン・ウィリアムスがバッハのリュート組曲を全曲2枚組みのレコードに録音したものを聴いて、そこではたと困ってしまった。同じイギリス人であるブリームとジョンが、同じバッハのリュート組曲を弾いてくれたわけであるが、まったく違う音楽になってしまっている。楽譜が違うのかと思えるほどに違うのだ。例えば組曲なんだから、クーラントやメヌエット、そしてガボット、さらにサラバンドやブーレ、ジーグなど、おおむね舞曲で構成されているわけであるが、その舞曲が二人の演奏を聴いてみると、リズムも違えばアクセントも違う。当然装飾の仕方はまるっきり違い、はたまた曲のスピードもまったく違う。こりゃあどういうわけだ。何が何だかわからなくなった。自分の感覚で聴けばブリームの演奏の方に軍配が上がるが、その時のブリームの演奏は、あまりにも他の演奏家のものと異なりすぎている。かといってジョンの演奏はなんだか平坦で面白くない。バッハの音楽の繊細感があまり感じられず、いつものように、ただバリバリ弾いているだけのように聴こえ、きっとこんなんじゃないよなぁと言った感覚が支配的であった。そんな状態がずっと続いていた時、突如現れたのが、今回取り上げたセルシェルだったのだ。当然聴き方、好みは人それぞれなので、なんとも申し上げられないが、私はセルシェルのバッハ、リュート組曲第4番を聴いた時、やっと違和感なくギターでバッハを聴かせてくれる人が現れたと感じ、正直言ってほっとした。
管弦楽や室内楽、パイプオルガン、チェンバロ(ピアノ)、ヴァイオリン、チェロ、フルート、そして合唱と、いずれのバッハを聴いた耳で聴いても違和感なく聴くことができるバッハに初めて出会うことができたと感じた。勿論私はバッハはおろかバロック音楽や古楽器演奏といったものを、本気になって研究したことはないので、どこまでセルシェルのバッハが真のバッハたりうるか、自信の程は心細い限りではあるが、今のところ、ギターということに限っていうと、他にあまり目ぼしい演奏家は見当たらない。やはりセルシェルの演奏が私には1番バッハらしく聴こえる。

その後、セルシェルは何度も来日し、私も何度も演奏会に足を運び、時には食事をご一緒させて頂いたこともある。その時の演奏もやはりバッハが最も精彩を放っていた。
セルシェルはものすごいテクニシャンでもないし、またそのような名技性を要求されるような曲もあまりプログラムには入ってこない。しかしバッハに限って言えば、誰よりもしっかりしたテクニックで、音楽の真髄を表現して見せてくれる。それは目をつぶって聴いていると、今聞こえてくるのがギターであることを一瞬忘れてしまうほどだ。
セルシェルはそのほかにも、ソルなど古典音楽にもその適正ぶりを発揮して素晴しい演奏を残しているが、私の希望としては是非、ジュリアーニの協奏曲などを録音して欲しいと思っている。彼の音楽性、テクニックからいって、きっとその曲の決定版が生まれるのではないかと期待できるからだ。恐らく録音済みのアランフェス協奏曲なんかよりはずっと合っているのではないかと思う。
この写真にあるセルシェルのグラモフォンへのデビューレコード、これには期待したバッハは入っていないが、今でも私の最も大切なお宝レコードの中の1枚である。収録曲を紹介しておくと、A面がバイオスの「大聖堂」と「ワルツ 第3番」ポンセの「南のソナチネ」、B面は全てダウランドの作品7曲で埋められている。
内生蔵 幹(うちうぞう みき)

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