(写真:プールの底から撮影。)
メモ。
アウグスティヌスの
「si comprehendis non est Deus.
(もしあなたが理解できたら、それはもはや神ではない)」
は、-それとは知られずとも-有名なことばである。
それは、「神が実在するということの整合性は、人間の理性や言語によっては把握できない」という指摘。
言い換えると、
「神の実在をなんとか説明したとしても、そのことでわれわれが理解したとは言えず、
神のある根本的な性質の一部分を、ほんの少し垣間見るだけにすぎない」
のだということ。
確かに、わたしたちは、「神が行われるみわざ」(伝道者の書3:11)でさえ、見きわめることはできない。いわんや・・・をや、です。
(ちなみに、記している者はクリスチャンであるため、自然と「神がいること」を前提として記載してしまうが、そうではない人にとって、この個所は「私たちをとりまく自然(界)」「宇宙」、とでも言い換えていただければ、今、示しているニュアンス等、同じものを見ているハズです。)
だが、朝に夕に、自然を通しても、さまざまな出来事や事柄を通しても、私たちを創られた御方がいるということを、自明のこととして感じる。
****************
・・・そう、うん、すくなくとも、私はそう感じるのですよ。少なくとも、それは、誰にも否定できないでしょう?
むろん、あなたが「神がいる」と感じようと、「神なんていない」と感じようと、それ(=「あなたがそう感じている/考えている」ということ)を誰も否定できないのと同じように。
だが、以下の二つの点からも、「なぜ、そう信じられるのか」ということを問われたとき、人々が説明するのは難しいかもしれない。(ちなみに、「説明しているつもりかもしれないが、ただ単に『強要しているだけ』という場合を除く」)
1.「神」と呼ばれる存在は、人の限界・理解の範囲よりもはるかに大きいから。
・・・「そもそも、有限な“人”に、無限である“神”を理解することはできるのか?」と、友から問われたが、それはごくまっとうな質問だと思う。だが、「理解しえない」から「無い」と判断することはできないと思う。先に記した格言のように、逆の結論もありうる。
―同じ事実・ものを見て、真逆の判断が起こりうるのは、その前提が異なる故。―
2.「神」を、何がしかとして説明する/主張するものとして、認識しているのではなく、・・・「神の啓示と、それに対してどう人が応答するか」ということがもっぱら主題であるという点から。 ←語弊がある、というか、おそらく、個々人の前提・バックグラウンドで異なる見解に変化しそうな表現だが、今のところ、これ以上はメモしえない。
・・・<ひとこと>信仰、というと、日本人にはなじみのないようなことばに聞こえるかもしれないが、これは、「(神への)信頼」とも言い換えられる。
すでに、神を信じている者は、「神への信仰をあえて持つ人がいる」というような、(哲学的な?)仮定をそこにおいて信仰しているわけではない。
それは、他人の存在や、物の存在を信じる場合と同じである…※。他者や物がそこにあるとあえて仮定しているわけではないだろう。
また、それについては、説明すべきものではなく、すでに自明のものとして認識している(上、加えて、それを自分が説明し得るなどと、実は、考えていない)。
ある種、同じ価値観、同じ信仰、同じ考え方ではない方々に、それを説明しようと努力するというムズカシイことをするのは、むろん、聖霊の働きによるとはいえ、それによって、自分が頂いているものを再認識し、味わうためでもあるのかもしれない。
※ …座る椅子にしても、乗る飛行機や車にしても「これは、椅子だろうか、これは本当に飛ぶのだろうか、安全に動くのだろうか」と考える人は、あまり多くない。そんなことをしていたら、日常生活が成り立たなくなる。「信じる」というのは、それくらいごく普通にやっていることなんですよ、というようなことを(私はうまく伝えられないが)、昔、アメリカのある大学の、ある教授が言っていた←私でさえ聞き取れるくらい、わかりやすく。
ちなみに、です。
「○○さんって、ホントにいるんですか」という質問がなされた時、○○さんを知っている人(で、なおかつ丁寧な人)は、その人の話やその人がいる証拠やら色々示して、伝えるかもしれないが、あとは、それを聞いた人がそれを「信じるか、信じないか」に帰結してしまう。
だが、「○○さんって、どんな人なんですか」と質問した場合には、○○さんと仲良しの人は、「○○さんってね~、こんな人でね、あんな人でね・・・」と嬉々として話し始めるかもしれない(適当な所で、止めてください)。
たぶん、そのほうが、平和、なのかもしれない。
メモ。
アウグスティヌスの
「si comprehendis non est Deus.
(もしあなたが理解できたら、それはもはや神ではない)」
は、-それとは知られずとも-有名なことばである。
それは、「神が実在するということの整合性は、人間の理性や言語によっては把握できない」という指摘。
言い換えると、
「神の実在をなんとか説明したとしても、そのことでわれわれが理解したとは言えず、
神のある根本的な性質の一部分を、ほんの少し垣間見るだけにすぎない」
のだということ。
確かに、わたしたちは、「神が行われるみわざ」(伝道者の書3:11)でさえ、見きわめることはできない。いわんや・・・をや、です。
(ちなみに、記している者はクリスチャンであるため、自然と「神がいること」を前提として記載してしまうが、そうではない人にとって、この個所は「私たちをとりまく自然(界)」「宇宙」、とでも言い換えていただければ、今、示しているニュアンス等、同じものを見ているハズです。)
だが、朝に夕に、自然を通しても、さまざまな出来事や事柄を通しても、私たちを創られた御方がいるということを、自明のこととして感じる。
****************
・・・そう、うん、すくなくとも、私はそう感じるのですよ。少なくとも、それは、誰にも否定できないでしょう?
むろん、あなたが「神がいる」と感じようと、「神なんていない」と感じようと、それ(=「あなたがそう感じている/考えている」ということ)を誰も否定できないのと同じように。
だが、以下の二つの点からも、「なぜ、そう信じられるのか」ということを問われたとき、人々が説明するのは難しいかもしれない。(ちなみに、「説明しているつもりかもしれないが、ただ単に『強要しているだけ』という場合を除く」)
1.「神」と呼ばれる存在は、人の限界・理解の範囲よりもはるかに大きいから。
・・・「そもそも、有限な“人”に、無限である“神”を理解することはできるのか?」と、友から問われたが、それはごくまっとうな質問だと思う。だが、「理解しえない」から「無い」と判断することはできないと思う。先に記した格言のように、逆の結論もありうる。
―同じ事実・ものを見て、真逆の判断が起こりうるのは、その前提が異なる故。―
2.「神」を、何がしかとして説明する/主張するものとして、認識しているのではなく、・・・「神の啓示と、それに対してどう人が応答するか」ということがもっぱら主題であるという点から。 ←語弊がある、というか、おそらく、個々人の前提・バックグラウンドで異なる見解に変化しそうな表現だが、今のところ、これ以上はメモしえない。
・・・<ひとこと>信仰、というと、日本人にはなじみのないようなことばに聞こえるかもしれないが、これは、「(神への)信頼」とも言い換えられる。
すでに、神を信じている者は、「神への信仰をあえて持つ人がいる」というような、(哲学的な?)仮定をそこにおいて信仰しているわけではない。
それは、他人の存在や、物の存在を信じる場合と同じである…※。他者や物がそこにあるとあえて仮定しているわけではないだろう。
また、それについては、説明すべきものではなく、すでに自明のものとして認識している(上、加えて、それを自分が説明し得るなどと、実は、考えていない)。
ある種、同じ価値観、同じ信仰、同じ考え方ではない方々に、それを説明しようと努力するというムズカシイことをするのは、むろん、聖霊の働きによるとはいえ、それによって、自分が頂いているものを再認識し、味わうためでもあるのかもしれない。
※ …座る椅子にしても、乗る飛行機や車にしても「これは、椅子だろうか、これは本当に飛ぶのだろうか、安全に動くのだろうか」と考える人は、あまり多くない。そんなことをしていたら、日常生活が成り立たなくなる。「信じる」というのは、それくらいごく普通にやっていることなんですよ、というようなことを(私はうまく伝えられないが)、昔、アメリカのある大学の、ある教授が言っていた←私でさえ聞き取れるくらい、わかりやすく。
ちなみに、です。
「○○さんって、ホントにいるんですか」という質問がなされた時、○○さんを知っている人(で、なおかつ丁寧な人)は、その人の話やその人がいる証拠やら色々示して、伝えるかもしれないが、あとは、それを聞いた人がそれを「信じるか、信じないか」に帰結してしまう。
だが、「○○さんって、どんな人なんですか」と質問した場合には、○○さんと仲良しの人は、「○○さんってね~、こんな人でね、あんな人でね・・・」と嬉々として話し始めるかもしれない(適当な所で、止めてください)。
たぶん、そのほうが、平和、なのかもしれない。