さすらうキャベツの見聞記

Dear my friends, I'm fine. How are you today?

産まれました

2011-10-02 20:31:14 | Thursday 生活





    ジジに、赤ちゃんが産まれた。




 従妹がひろってきた2匹の子猫、ジジとピカチュウは、
母方の祖母たちの家に住んでいる。

 黒猫のほうが、ジジ。
 白猫が、光(ひかる)。転じて、ピカチュウ。

 来たときは、やせ細っていた子猫たち。
 ―日中はキャベツ兄弟もおらず一人の、祖母の良い相手になっている(ハズ)。―
 いつしか「ちょび」も加わった。


        ************


 つい最近、そのジジが、赤ちゃんを産んだ、
せっかく作った家にも入らずに、段ボールの中から威嚇している、と
祖母が言った。
 (・・・ジジって、女の子だったんだ。(父親は、誰だ…!!?)

Yが、いろいろごはんを与えようとしても、それにさえすぐには出てこない、
食べ物をとってすぐ暗い隅の段ボールの中に戻っている、
人間より猫のほうがいいもの食べているかもしれない、と、祖母は苦笑していた。


        *************


 そして、先週、約束通り、Yが、写真を送ってくれた。

 (・・・か、かわいい。)

 (だが、実際に間近で見ていたら、もっと可愛いんだろうなぁ・・・)


     

 ちなみに、子猫を産んでから、ジジとピカチュウがケンカ中・・・とのこと。(おやおや。)


 ―いやはや、まだまだちびすけのつもりだったのに、もう赤ちゃんを産むなんて、と少々感慨深い出来事でした。―

(写真提供:キャベツ兄弟のYより。Thanks☆)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ピカチュウ飛行機

2011-10-02 20:21:25 | Thursday 生活
 あるとき、ピカチュウ飛行機を(初めて)発見した。

 子ども連れの親御さんやその祖父母らしき方々が、飛行機とともに子どもを写真に収めている。

 キャベツもまた、その合間をぬって、少し撮り、
携帯で撮ったものは、キャベツ兄弟たちに即、送った。

  

 すると、そのうち一人から、指摘を受けた。

「一つ、いってやる・・・

 ピチュウだ・・・

 ピカチュウではない」


     


 他の兄弟も反応した。

「確かに Σ(・□・;) 進化前だ。」



  


 ・・・なるほど・・・ピカチュウって、実は、進化していたのですね。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

non est Deus

2011-10-02 17:46:01 | Sunday 集会・生活
           (写真:プールの底から撮影。)

メモ。


 アウグスティヌスの

「si comprehendis non est Deus.
 (もしあなたが理解できたら、それはもはや神ではない)」

は、-それとは知られずとも-有名なことばである。

 それは、「神が実在するということの整合性は、人間の理性や言語によっては把握できない」という指摘。
 言い換えると、
 「神の実在をなんとか説明したとしても、そのことでわれわれが理解したとは言えず、
  神のある根本的な性質の一部分を、ほんの少し垣間見るだけにすぎない」
のだということ。



 確かに、わたしたちは、「神が行われるみわざ」(伝道者の書3:11)でさえ、見きわめることはできない。いわんや・・・をや、です。
(ちなみに、記している者はクリスチャンであるため、自然と「神がいること」を前提として記載してしまうが、そうではない人にとって、この個所は「私たちをとりまく自然(界)」「宇宙」、とでも言い換えていただければ、今、示しているニュアンス等、同じものを見ているハズです。)

 だが、朝に夕に、自然を通しても、さまざまな出来事や事柄を通しても、私たちを創られた御方がいるということを、自明のこととして感じる。

             ****************


 ・・・そう、うん、すくなくとも、私はそう感じるのですよ。少なくとも、それは、誰にも否定できないでしょう?
 むろん、あなたが「神がいる」と感じようと、「神なんていない」と感じようと、それ(=「あなたがそう感じている/考えている」ということ)を誰も否定できないのと同じように。


 だが、以下の二つの点からも、「なぜ、そう信じられるのか」ということを問われたとき、人々が説明するのは難しいかもしれない。(ちなみに、「説明しているつもりかもしれないが、ただ単に『強要しているだけ』という場合を除く」)

 1.「神」と呼ばれる存在は、人の限界・理解の範囲よりもはるかに大きいから。

   ・・・「そもそも、有限な“人”に、無限である“神”を理解することはできるのか?」と、友から問われたが、それはごくまっとうな質問だと思う。だが、「理解しえない」から「無い」と判断することはできないと思う。先に記した格言のように、逆の結論もありうる。

   ―同じ事実・ものを見て、真逆の判断が起こりうるのは、その前提が異なる故。



 2.「神」を、何がしかとして説明する/主張するものとして、認識しているのではなく、・・・「神の啓示と、それに対してどう人が応答するか」ということがもっぱら主題であるという点から。 ←語弊がある、というか、おそらく、個々人の前提・バックグラウンドで異なる見解に変化しそうな表現だが、今のところ、これ以上はメモしえない。

   ・・・<ひとこと>信仰、というと、日本人にはなじみのないようなことばに聞こえるかもしれないが、これは、「(神への)信頼」とも言い換えられる。

  すでに、神を信じている者は、「神への信仰をあえて持つ人がいる」というような、(哲学的な?)仮定をそこにおいて信仰しているわけではない。
  それは、他人の存在や、物の存在を信じる場合と同じである…※。他者や物がそこにあるとあえて仮定しているわけではないだろう。
 また、それについては、説明すべきものではなく、すでに自明のものとして認識している(上、加えて、それを自分が説明し得るなどと、実は、考えていない)。

  ある種、同じ価値観、同じ信仰、同じ考え方ではない方々に、それを説明しようと努力するというムズカシイことをするのは、むろん、聖霊の働きによるとはいえ、それによって、自分が頂いているものを再認識し、味わうためでもあるのかもしれない。




 ※ …座る椅子にしても、乗る飛行機や車にしても「これは、椅子だろうか、これは本当に飛ぶのだろうか、安全に動くのだろうか」と考える人は、あまり多くない。そんなことをしていたら、日常生活が成り立たなくなる。「信じる」というのは、それくらいごく普通にやっていることなんですよ、というようなことを(私はうまく伝えられないが)、昔、アメリカのある大学の、ある教授が言っていた←私でさえ聞き取れるくらい、わかりやすく



  ちなみに、です。

 「○○さんって、ホントにいるんですか」という質問がなされた時、○○さんを知っている人(で、なおかつ丁寧な人)は、その人の話やその人がいる証拠やら色々示して、伝えるかもしれないが、あとは、それを聞いた人がそれを「信じるか、信じないか」に帰結してしまう。

 だが、「○○さんって、どんな人なんですか」と質問した場合には、○○さんと仲良しの人は、「○○さんってね~、こんな人でね、あんな人でね・・・」と嬉々として話し始めるかもしれない(適当な所で、止めてください)。

 たぶん、そのほうが、平和、なのかもしれない。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする