『家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、
彼(イエス)は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされた』
(新約聖書・へブル人への手紙 3章3節,口語訳)
あるとき、友人から、
「そもそも、もし本当に、イエスが『神』であるならば、
人と比較すること自体が愚かなことではないか?
それなのに、『モーセよりもすぐれたイエス』などとクリスチャンが言うのは、
クリスチャン自身が、『神』を自分たちの位置まで貶(おとし)めていないか?」
という貴重なご意見を頂いた。
ここでいう、モーセと言うのは、いわゆる十戒(じゅっかい)を神から頂いたり、
エジプトから奴隷とされていたイスラエル民族をカナンの地に導いた人で、
ユダヤ教においても、イスラム教においても、キリスト教においても、
有名な預言者である。
人は、自分たちが知っていることでたとえを言ったり、比較をするわけだが、
なるほど、「モーセ=すごい」という共通観念(前提)がない状態で考えると、
「そもそも、神様を、人と比べて『すごい』」というのは、失礼である」と感じるのも当たり前なことだ。
いや、そんな前提があろうがなかろうが、
そのように感じてしかるべきではないか、とおしかりを受けるかもしれない。
(それを言ったら、へブル書・・・ごにょごにょごにょ)
さて、それについて、どう考えるべきか示されるのを待っていたところ、
あるとき、面白い(=興味深い)人に会った。
そこで、この問いについて、聞いてみた。
すると、その人を通して、こんな答えが返ってきた。
「その通り。
主(しゅ)を人と比較して言うのは、象(ぞう)と蟻(あり)とを比較するような
ばかばかしいものだ。
だが、モーセは律法(りっぽう)を代表する者であり、
律法は裁(さば)きを意味する。
その点で、「裁き」より「(イエスによる)赦(ゆる)し」「恵み」のほうがはるかに大きい、
という点で、それを言うことは可能である」。
なるほど、なるほど、そのように理解することができるのだな、と
新たに勉強になった。
確かに、『律法はモーセによって与えられ、
恵みとまことはイエス・キリストによって実現した』(ヨハネ 1章17節)とあり、そして、
『私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、
恵みの上にさらに恵みを受けた』(同上 1章18節)ともある。
(「で?」「だから?」「それを受けて、さらに何かないの?」 と問われると、
「う~~む。マルコ伝12章に出てくるような賢いお返事は、今の私には無理じゃ~!」 と言うしかないf(^^;) )
(故に、このあたりで。そろそろ…)
勝手ながら、またどうぞよろしくお願いします。
『…確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』
(新約聖書・コリント第2 6章2節)
(新約聖書・コリント第2 6章2節)