ある人が、別の人に尋ねていた。
「いったい、その人のどこが好きなの?」と。
それを聞いていたキャベツは、? と感じてしまった。
「どこ」。「どこ」ですか・・・ぁ。
**************
たとえば、この人の○○が好き、××が好ましい、◇◇っていうところはあるんだけどね・・・、と人は言うだろう。その相手を愛していたり、好きであったりする間は。
が、これがいったんそうでなくなると、
○○だったり、××だったりするんだけど、やっぱり◇◇だから嫌い、となるのだ。
また、ときには、同じ理由で、人は「好き」だといったり「嫌い」だという。
それらを見るにつれ、
人が人を愛する、人が人を好きになる、というのは不思議だなと感じる。
ましてや、神様が私たちを愛してくださっているということは。
だが、それを、その資格もとりえもないのにもかかわらず、あつかましくも受け取っているのが、私というクリスチャンであるといえる。
神様のなさってくださった、十字架のみわざを信じるということを通して。
神様を信頼するということを通して。
人は移ろいやすいのだが、この方はそうではないのだ、ということを、
この方は信頼に足る方なのだということを、
どうしたら、友人たちは知りえるだろう。
「いったい、その人のどこが好きなの?」と。
それを聞いていたキャベツは、? と感じてしまった。
「どこ」。「どこ」ですか・・・ぁ。
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たとえば、この人の○○が好き、××が好ましい、◇◇っていうところはあるんだけどね・・・、と人は言うだろう。その相手を愛していたり、好きであったりする間は。
が、これがいったんそうでなくなると、
○○だったり、××だったりするんだけど、やっぱり◇◇だから嫌い、となるのだ。
また、ときには、同じ理由で、人は「好き」だといったり「嫌い」だという。
それらを見るにつれ、
人が人を愛する、人が人を好きになる、というのは不思議だなと感じる。
ましてや、神様が私たちを愛してくださっているということは。
だが、それを、その資格もとりえもないのにもかかわらず、あつかましくも受け取っているのが、私というクリスチャンであるといえる。
神様のなさってくださった、十字架のみわざを信じるということを通して。
神様を信頼するということを通して。
人は移ろいやすいのだが、この方はそうではないのだ、ということを、
この方は信頼に足る方なのだということを、
どうしたら、友人たちは知りえるだろう。