それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

レコード大賞というゾンビ

2016-01-02 19:57:19 | テレビとラジオ
 誰もレコード大賞の権威を認めなくなった。つまり、レコード大賞(笑)、というわけだ。

 レコード大賞というのは、年末に放送される3時間あまりのCMで、視聴者にとってそれ以上の意味はない。

 今回、三代目~が大賞を取ったということに批判が出ているというネットニュースもあるが、それも小さな炎上。関心がそもそもなくなっているので、もうすぐ誰も何も言わなくなる。

 面白いのは、それでもレコード大賞を続けるメリットがある、という構造だ。

 TBSにもレコード会社にも確かなメリットがあるのだろう。たとえ、それが日本社会の需要からズレていたとしても、音楽の発展と無関係だったとしても、である。

 確かにレコード大賞の視聴率は悪化の一途をたどっている。今回のレコード大賞は13%と、2006年以降で最低ということだった。

 けれども、13%取れれば十分だろう。

 13%だと、500万人もの数の人間が視聴していることになるわけで、コストさえ十分抑えられれば、CMとしては上出来た。

 なにせレコード大賞はほぼ純粋にCMなのだから、これはすごいことである。



 レコード大賞を改革する案は容易に出せる。例えば、アメリカのグラミー賞の方向に変えるというものがある。

 アメリカのグラミー賞の趣旨は、音楽業界の発展に貢献した人に贈られる賞、というものだ。

 一方、日本のレコード大賞は、作品の優秀さ、パフォーマンスの優秀さ、大衆の支持および時代の反映、という3点を評価基準とする。

 似ているようだが、実際のところは、まったく違う。日本のレコード大賞は作品の音楽的な新しさや優秀さにまったく重きを置いていない。その年の幾つかの音楽雑誌の批評と比較すれば、一目瞭然だ。

 レコード大賞には批評性が皆無で、音楽の発展という観点はせいぜい言葉のあやにすぎない。

 しかし、それで問題なかった。むしろ、レコード大賞は一種の人気投票的な賞で、日本社会がひとつのランキングを共有しているかぎりでは意味があった。

 だが、音楽ジャンルが細分化して大衆音楽というジャンルが崩壊してからは、レコード会社の力学がむき出しになってしまった。



 問題はここからだ。もし仮にレコード大賞を批評的に改革し、グラミー賞並みの比較的真剣なものに変えたとしたらどうなるか。

 おそらく視聴率が良くなることはないだろう。

 結局、あまり知られていないアーティストがパフォーマンスを延々と行うものになる。

 だから、レコード大賞はしばらくはそのまま生き続けるに違いない。

 レコード大賞よ、お前はもう死んでいる。でも、そのままでいるがいい。

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