それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

エクスタティックな学問

2010-07-03 04:42:04 | 日記
この話、若干フェイスブックで触れましたが(つたない英語で書きましたが)、エクスタティックな学問について。

ミュージシャンの某菊地さんがとてもいいことを言っていた。

「無調ってのはエクスタシーなんです。調性の外に出るから。エクスタシーってのは外に出ていくことだから。まあ、いいや・・・」などなど。

解説すると、エクスタシーってのは元々ギリシャのekstasisが語源だそうで、その意味は「自分の外に立つこと」。

哲学的には魂の脱離であり、神との合一という神秘主義的な概念だという。

なるほど、調性の外に出ることを無調と定義するなら、無調をある種のエクスタシーと捉えることもできそうだ。

一見、快楽的な調性を超え出て、そこにエクスタシーという究極の快楽があるとすれば、それは何とも面白い。

単なる言葉遊びに聞こえないのがいい。やるなあ。



翻って、私の学問。アプローチはまあ「Criticalなんちゃら」というのに属しています。

どういうことかというと、我々が属している社会の規範の外に出て、それを批判的に分析するという話。

そう、こいつも社会の規範の外に出るわけだ。

考えてみれば、このアプローチにも快楽はあるのかも。それってエクスタティックかな?

ただ、自分の研究が「セクシー」であってほしいとは思う。

この表現は自分の指導教官(日本)の受け売り。

だとすれば、究極の目標はエクスタシーなのかも。

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