「亜人(デミ)ちゃんは語りたい」というアニメを見ている。
毎週見たくなるアニメである。原作はマンガだが、そちらは未読。
ストーリーは次のような感じ。
世界には、「亜人(あじん)」と呼ばれる人々がおり、差別の対象になってきた。バンパイアや雪女といった伝承は、そうした亜人と呼ばれる人々が元になった話とされる。
亜人はそれぞれ個性があり、その個性ゆえに、社会ではなかなか生きにくい傾向にある。
例えば、亜人としてのバンパイアは酷く貧血になりやすい人たちのことで、血液を摂取することが体質的に必要である、とされる。
また、五感が鋭く、強い光や臭いに拒絶反応を示す傾向がある、という。
かつては社会的に迫害されてきた亜人だったが、近年では亜人への理解が深まり、公的な支援体制も整備されてきた。
若い人々の間では、「亜人(あじん)」という呼び方はカタくて格好が悪いということで、「デミ」と呼ぶようになっている。
そんななか、とある高校で、亜人(デミ)の女子高生らと生物教師がハートフルな日常を過ごす。
亜人はマイノリティであり、ある意味で身体的な特性ゆえの困難を抱えている。
彼らは日常生活を過ごすのに、しばしば誰かの助けを必要とする。
例えば、首と胴体が分離している女の子(デュラハン)や、ちょっとしたことで異性を性的に興奮させてしまう先生(サキュバス)が登場する。
デュラハンは、首を持って移動しなければならないので、通学などで不便が生じる。
サキュバスは、周囲の人々を興奮させないように満員電車に乗れない。などなどである。
それゆえ、この物語は視聴者が生きている世界の様々なマイノリティの人々について想起させる。
実際、物語のなかでも、教員が亜人(デミ)の学生をどのように支援するかについて色々検討しているし、しっかりと説明している部分も少なくない。
けれど――――――。
僕はこの物語について、現実社会への示唆をあまり語りたくない。
というのも、この物語はそうしたある種の「押しつけがましさ」から距離を取ろうとしているように思えるからだ。
この物語の登場人物たちは、皆、とてもキュートだ。真っ直ぐで誠実で、優しくあろうと努める。
それでいい。このアニメはそれでいいのだ。
アニメ的なラブコメ要素も、結局、それほど何も起きない日常系の安心感も、僕はそのまま受け止めたい。
社会科学っぽい偉そうな口ぶりや、小難しい解釈は、このアニメの前では逆に不謹慎に思える。
確かに、物語の主人公とも言うべき男性の生物教師は、高校の教員としては問題があるかもしれないギリギリの行動を取りすぎである。
学生たちとやたらハグしたり・・・。
僕はひとりの大学教員として、見ていて頭を抱えてしまう部分もある。
けれど、そういう部分こそラブコメなのだし、どうしてマイノリティの話になった途端に、すべてが聖人君子にならねばいけないのだろう、と思う。
それよりずっと強く評価すべきなのは、このアニメが絶妙なバランスで、「マイノリティをめぐる悲哀の消費」を避けていることだ。
「可哀そうな人々が一生懸命生きる様子」とか、「周囲の悪意でやたら苛められるドラマ」とか、そういう安直な物語を書いてしまうことの方がよっぽど本質を見逃してしまう。
誰にだって日常があり、誰にだってちょっとだけドキドキする瞬間があり、誰にだってすごく優しくなれる場面がある。
このアニメは、亜人(デミ)という特徴をもったキャラクターが、どのような日常や瞬間を生きているのか、まったりと眺めるもので、それでいいし、それがいい。
毎週見たくなるアニメである。原作はマンガだが、そちらは未読。
ストーリーは次のような感じ。
世界には、「亜人(あじん)」と呼ばれる人々がおり、差別の対象になってきた。バンパイアや雪女といった伝承は、そうした亜人と呼ばれる人々が元になった話とされる。
亜人はそれぞれ個性があり、その個性ゆえに、社会ではなかなか生きにくい傾向にある。
例えば、亜人としてのバンパイアは酷く貧血になりやすい人たちのことで、血液を摂取することが体質的に必要である、とされる。
また、五感が鋭く、強い光や臭いに拒絶反応を示す傾向がある、という。
かつては社会的に迫害されてきた亜人だったが、近年では亜人への理解が深まり、公的な支援体制も整備されてきた。
若い人々の間では、「亜人(あじん)」という呼び方はカタくて格好が悪いということで、「デミ」と呼ぶようになっている。
そんななか、とある高校で、亜人(デミ)の女子高生らと生物教師がハートフルな日常を過ごす。
亜人はマイノリティであり、ある意味で身体的な特性ゆえの困難を抱えている。
彼らは日常生活を過ごすのに、しばしば誰かの助けを必要とする。
例えば、首と胴体が分離している女の子(デュラハン)や、ちょっとしたことで異性を性的に興奮させてしまう先生(サキュバス)が登場する。
デュラハンは、首を持って移動しなければならないので、通学などで不便が生じる。
サキュバスは、周囲の人々を興奮させないように満員電車に乗れない。などなどである。
それゆえ、この物語は視聴者が生きている世界の様々なマイノリティの人々について想起させる。
実際、物語のなかでも、教員が亜人(デミ)の学生をどのように支援するかについて色々検討しているし、しっかりと説明している部分も少なくない。
けれど――――――。
僕はこの物語について、現実社会への示唆をあまり語りたくない。
というのも、この物語はそうしたある種の「押しつけがましさ」から距離を取ろうとしているように思えるからだ。
この物語の登場人物たちは、皆、とてもキュートだ。真っ直ぐで誠実で、優しくあろうと努める。
それでいい。このアニメはそれでいいのだ。
アニメ的なラブコメ要素も、結局、それほど何も起きない日常系の安心感も、僕はそのまま受け止めたい。
社会科学っぽい偉そうな口ぶりや、小難しい解釈は、このアニメの前では逆に不謹慎に思える。
確かに、物語の主人公とも言うべき男性の生物教師は、高校の教員としては問題があるかもしれないギリギリの行動を取りすぎである。
学生たちとやたらハグしたり・・・。
僕はひとりの大学教員として、見ていて頭を抱えてしまう部分もある。
けれど、そういう部分こそラブコメなのだし、どうしてマイノリティの話になった途端に、すべてが聖人君子にならねばいけないのだろう、と思う。
それよりずっと強く評価すべきなのは、このアニメが絶妙なバランスで、「マイノリティをめぐる悲哀の消費」を避けていることだ。
「可哀そうな人々が一生懸命生きる様子」とか、「周囲の悪意でやたら苛められるドラマ」とか、そういう安直な物語を書いてしまうことの方がよっぽど本質を見逃してしまう。
誰にだって日常があり、誰にだってちょっとだけドキドキする瞬間があり、誰にだってすごく優しくなれる場面がある。
このアニメは、亜人(デミ)という特徴をもったキャラクターが、どのような日常や瞬間を生きているのか、まったりと眺めるもので、それでいいし、それがいい。
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