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バブルを笑うものがバブルと同じ空虚さのなかにいる:バブル懐古とTSUTAYA図書館

2015-10-20 22:38:05 | テレビとラジオ
 最近、テレビやラジオのなかでまたバブルを懐古する番組がちょっとずつ現れている。

 ただ、単に懐古するというよりは、ちょっと半笑いで振り返るという感じでもある。

 オードリーの若林は、バブルの頃に出された図書を読んだ感想として、「価値観のピラミッドがたった1つしかなかった時代」、「しかも、今ではまるで共感できない価値観」とラジオで述べている(「オードリーのオールナイトニッポン」10月17日)。

 この意見には私も大いに賛同する。バブルの頃の価値観は、今見ると異常に空虚だ。

 若林が指摘するように、当時「一流の何か」を盛んに求める言説が全盛だったが、今になってみると、その「一流」に合理的な魅力を感じることが難しい。

 例えば、一流のホテルの高級なレストランの食事の「効用」が一体どれほどのものなのか。

 今の日本社会では、同じコストでもっと自分独自の「善き生」を追求することがより合理的であるとされる。

 そこまでは良い。



 ところが、バブルが終わった後の日本社会は、徹底した合理性の追求ばかりが目立ち始めた。

 そのひとつの象徴がホリエモンだ。

 一見すると無駄にしか思えない儀礼(服装、あいさつ回り、根回しなどなど)をすべて否定し、経済的な利潤のみを良しとする経営。面白いことを徹底的に求め、最終的には既存の経営者層から大きなしっぺ返しを食らった。

 あの当時、すなわち2000年代半ば、彼の行動は痛快だった。

 日本を滅茶苦茶にした(としか思えなかった)既得権益に対する反逆のように見えたからだ。

 例えば、球団の買収では、古い経営によって野球の人気がどんどん低下しているなか、既存の経営陣の馬鹿げた政策は、多くの市民にとって害悪にしか見えず、ホリエモンはそれに対する救世主のようだった。

 合理性の追求は小泉政権の「構造改革」のスローガンとも調和し、あの時代の日本の精神を反映していた。

 自分たちの善き生を見つめ、社会的につくられた価値観を相対化することが、あの時期の若者の指針だったように思える。少なくとも私はそうだった。



 ところが、最近になって、その合理性の追求が置いてきたものについて考えざるを得ない事態が起きている。

 TSUTAYA図書館の問題だ。

 民間と協力した公的な図書館。まさに公共経営論的には合理的以外の何ものでもない試み。

 民間のノウハウを生かし、市民の満足度を引き上げ、経営も合理化する。

 素晴らしいことが起きるはずだった。

 ところがである。

 蔵書を古本で買ったところまでは良いとしても、そこで購入した本は滅茶苦茶な実用本の類いだった(これは報道の通り)。

 それ以上に問題だったのが、郷土資料などを廃棄していたことだ。

 利用者数、市民全体の満足度という指標では、ほとんどの人が読まないような郷土資料は捨てられるということらしい。

 これは実に興味深いが、実に絶望的な事態であった。

 郷土の歴史は郷土を形づくる根幹だ。

 歴史は書いておかなければ消える。歴史が消えれば、その町のアイデンティティそのものが消える。

 はっきり言って、その町は空き地だ。

 考えてみよう。もし、日本から日本史が無くなったらどうなるか。

 日本史が無くなったら、日本も無くなる。

 TSUTAYAの経営には、結局、カネを儲ける合理性以外に何の哲学もないんだな、と私は思わざるを得なかった。

 ヨーロッパなら笑いものだな。



 そんなことを思っていたら、そういえば、文科省の大学改革も似ている。

 文科省の最終的な目的は、単なる文系廃止ではない。

 これまでの流れを見れば分かるが、大学そのものを統廃合するつもりだ。

 大学関係者は知っているが、理系は経営が難しい。文系は研究結果や教育をするうえでコストが安く済むので、比較的経営しやすい。

 地方の大学で地方のサブエリートを生んでいない大学は、文系だろうと理系だろうと文科省は不要だと考えている。

 文系廃止は始まりにすぎない。

 私はこうした方針には一定の合理性があると思う。だから、文科省の方針をすべて否定するつもりはない。

 ただ、このまま行けば、日本で培われてきた文化や教養が崩壊寸前まで行くだろうとは思う。

 地方の中小大学は、案外、日本の文化や教養の集積地になってきたからだ。

 だが、それも維持できないほど、日本の経済状態は悪化しているのだということかもしれない(反社会勢力が分裂するくらいだから)。



 私だってこんなことは言いたくないが、日本の文化や教養は封建制の遺産とも言うべきエスタブリッシュメントの階層によって構築されてきた、

 それが日本各地に散らばっていて、北海道ですらその恩恵に浴してきた。

 北海道の地方都市ですら、十分に本州で戦えるエリートを生み、文化を育んできた。学問はもちろん、古典芸能から西洋芸術に至るまで、十分な消費人口と知識人が各地にいたのだ。

 だが、それも消費されきった。

 私はそれを肌で感じている。北海道の地方都市は確実に消滅する。文化を担ってきたエスタブリッシュメントの遺産ももう廃れている。

 悲しいから、これ以上具体的なことは言いたくない。



 私は職業柄多くの研究者に出会ってきたが、エスタブリッシュメントの出自の者は非常に多い。

 私は全くそうではないので、そうした人々に対する反骨心をずっと持ってきた。

 留学先もそうやって選んだし、自分自身の学問的アプローチも考え方も、それが反映されている。

 それが私のユニークネスにつながったから、それはそれで良い。

 言いたいことは、そんな私ですら、これ以上、エスタブリッシュメントの遺産が消えたら日本はまずい、ということである。

 こんな保守的なことを言う時代が来るとは思わなかった。

 でも、これ以上、教養と文化を支える基盤が消えたら、日本の政治は終わる。

 これは悲しい予言だ。

 イギリスは成長や発展を諦めた過去の帝国になったが、教養と文化は消えず、政治の強さが維持されている。

 日本はそれを支える地盤が消えかけている。

 これを意識化しないと大変なことになる。

 私は政治について基本的に全般楽観的だが、最近では、長期的には絶望的だと感じている。



 私は新しい教養の時代が到来するのではないかと考えてきた。私の周囲に空虚な合理性を超えて、文化や教養を備えた人たちが沢山いたからだ。

 しかし、社会の趨勢はその反対の方向に向かっているように見える。

 バブルを笑うのは良い。だが、我々は空っぽだ。あのバブルの時と全く変わらない。我々は笑われるべき存在だ。

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