それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

昔の僕の話

2010-12-13 00:57:19 | 日記
今日は何度も更新している。

研究はあまり進まなかった。

寝ようと思ったのだが、自分が大昔に書いた文書をたまたま少し読んでしまって、それで少し遅くなっている。

カナダにいたときの自分があまりに落ち込んでいたのを知って(自分のことなのに!)、驚いた。

今にも死にそうな勢いだ(った)。ちょっと心配になった(いやいや自分じゃん)。

まさかその少し後に君がイギリスで博士課程にいるとは思うまい・・・。

その前にさかのぼると、これまたすごく悩んでいる。進路に悩んでいる。

でも文章に力がみなぎっている。熱量がすごい。

僕は普段しずーかにしているけれど、何かピンとくると、理性が吹っ飛ぶくらい感情が高まる。

そういう自分は質疑や議論のときに良くないなあと思うこともあるのだけれど、そうではないと思う。

活動は熱量だ。熱量を生み出すのはパッションだ。

パッションは逆流すれば劇的な鬱にもなるが、うまく流れれば魅力的な作品や精力的な活動につながる。

だから、その熱量を保つことの方が大事なのだと思う。

僕はもう少し若い時の自分を見てそう思った。しかしまあひどく不器用だなと思って苦笑する。

後輩が今、卒論を書いている。前ここでちょっと文句めいたことを言ったけど、やっぱり心配だな。

熱量の高い文書がもうすぐ送られてくるのかどうか。

君に伝えたいことは山ほどある。書くことに要求されるテクニックは本当に沢山ある。

でも熱量は伝えられない。それは君の中から湧き出てくるのだ。

卒論で見たいのはね、テクニックじゃないんだ。熱量と執念なんだ。

でも、僕はそのことを伏せておく。

全ては書いたものが物語る。それ以上でもそれ以下でもない。

自分の過去の文書にほだされて、変なことを書いている。

「明日はいつもの僕さ~」(カントリーロード)。でも、まだ日本に帰りたくはないです(笑)

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