それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

ブラック・スワン:クラシックの精神病的な美しさ

2012-11-07 08:08:25 | コラム的な何か
先週末、映画「ブラック・スワン」を見た。

「白鳥の湖」で主役に抜擢された若いバレリーナが、精神的なプレッシャーと(とりわけ親子関係から生じている)精神病に苦しみながら、本番を目指す話である。

西洋的なサド・マゾが凝縮された映画だった。

クラシック音楽の教授法は、古来よりサド・マゾ関係に基づく。

当然、バレエも同じであろう。

先生が鞭でビシビシ叩いて、生徒はひいひい言いながら楽器を弾いたり、踊ったりするのだ。

クラシックの世界はトラウマとエロスだらけなのである。



主人公の母親は徹底的に娘を支配し続けようとする。

娘にとって母親はバレエの師であり、先輩であり、何よりライバルである。しかし、残念ながら彼女は母親なのだ。

その支配が娘にとってはいわば「貞操帯」であり、それゆえ、彼女のバレエの表現にその限界が出てしまう、というところが今回の主人公の抱える問題なのである。

クラシックおよびバレエと、この精神的なトラウマはとても相性がいい。

なぜなら、クラシックの教育法そのものがサド・マゾ関係だから、この親子の典型的なコンプレックスの関係と実質的にパラレルになっている。

おまけに、バレエの世界のジェンダーの異常性と、これまたセットになっている。バレエダンサーは言ってしまえば、多くの役柄において「去勢」されている(去勢という点では、少年合唱団もそうだ)。

つまり、処女・童貞、去勢、サド・マゾという、「ザ・ヨーロッパ」と言うしかない精神病的人間関係の宝石箱なのだ(© ひこまろ)。

俳優たちは見事にこのテーマを演じきっていた。



気になる点もあった。主人公の主観から映像(ほぼ妄想)が後半かなり増えるため、だんだんコントのようになってくる。

最終的に、これは結局、舞台が完成する話なのか、主人公の成長物語なのか、あるいは、精神病ダンサーの主観的な話なのか、分からなくなる。

主人公はあきらかに精神的な病を悪化させているだけで、ほぼトラウマの克服には向かっていない(この点は、舞台の成功とイコールではない)。

けれども、クラシックおよび西洋文化の根本的病の話だと思えば、どうだろう。

つまり、これは伝統的に克服できない病、それゆえに美しいクラシックの世界ということなのだ。



その夜、私は奇しくも夢を見た。

昔習っていたピアノの先生と再会する夢だった。

それは私のトラウマなのだろうか。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿