それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

さよなら、平成(1):永遠の日常

2017-06-03 19:46:22 | コラム的な何か
 映画「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」が公開されたのは、僕が生まれてから、すぐのことだった。

 僕はどういうわけか、うる星やつらの枕カバーを使って、毎晩眠っていた。

 アニメもマンガも一度も見たことはなかった。



 いつかは僕も高校受験を経て、大学受験を経るのだろう、と何故だかよく考えていた小学生の頃。

 時間が過ぎるのは遅く、まるで永遠に日常が続いていくような日々だった。

 ビューティフルドリーマーでは、永遠に学校祭の前日が繰り返される。物語はそこから始まる。

 ある意味で、僕の日常もそうだった。

 毎日が永遠に学校祭の前日のようだった。けれど、僕は学校祭にはかかわっておらず、友人もまったくいなかった。



 世界にいつか何かが起きて、そして、僕が特別な存在になったらいいな、と何となく考えていた。

 阪神淡路大震災が起きて、新聞もテレビもその話題になった。

 でも、僕の日常はまるで変わらなかった。

 オウム真理教のサリン事件が起きて、そして、新聞もテレビもその話題になった。

 でも、僕の日常はまるで変わらなかった。



 ところが、現実の凄まじい事件とは真反対に、アニメ「エヴァンゲリオン」が始まって、僕は夢中になって、周りの子どもたちも夢中になっていった。

 エヴァは僕らの奇妙な退屈と願望と性的衝動をくすぐり、日本の社会を覆った。

 僕たちのなかの一部は、現実の世界に興味を持ってもなおエヴァの世界から抜け出せず、

 自分のコンプレックスと世界の問題がまるで癒着しているかのような勘違いをしたまま、成長していった。



 日本経済は右肩下がりが顕著になり、それが僕らの前提になった。

 世界は良くならない。

 破たんもしなければ、改善もしない。ゆっくりと衰退していく。



 1997年、少年Aが殺人事件を起こした。

 僕たちは、みんな、少年Aだった。


 
 自分が誰なのか不明確なまま、不明確な恐怖と戦いながら、日常を変える方途を探していた。

 2001年、世界を変えるテロが起きた時、僕らは何も変わらない日常のなかにいた。

 ゆっくりと衰退していく小さな世界のなかで、僕はそこから脱出する方法を探していた。



 唯一見つけた方法が社会科学の研究で、僕はそれにのめり込んだ。

 それまで見てきた世界がすごく狭くて、馬鹿げていて、勘違いに満ちていたことに初めて気が付いたのは、社会科学のおかげだった。



 日本社会が徐々に終わらない日常に慣れ、衰退していく世界にも諦め、そこをスタート地点にし始めたことに、僕の世代は皆、気が付きはじめた。

 『希望の国エクソダス』は、僕らの世界観に寄り添っていた。



 僕がイギリスに住み始めた頃、日本は311を迎え、まるで革命のような変化に直面した、と誰もが思った。

 日本は悲しみに満ちていて、日常のすべてが張りぼてだと気づかされた。

 そして驚くべきスピードで、また永遠の日常を造り直し、沢山の亀裂に何かを塗りたくって行くのを黙ってみていた。



 アイドルブームはまるで翳りを見せることなく、日本社会を支え続けた。

 アイドルが頑張って搾取されている様子が、疲れ切った人々を勇気づけるという、奇妙な構造がつくられた。



 僕が東京に引っ越した時、日本ではひっそりとアニメ「おそ松さん」のブームが来ていた。

 そっくりな兄弟が沢山登場するアニメ。

 まるでうだつの上がらない男子が、子どもの妄想のようなストーリーを展開する。

 初見では、はっきりと区別できないキャラクター。

 市場に疲れ果てた人々は、その区別できないキャラクターに僅かな差異を見つけて、「自分らしさ」を生み出すことに成功した。



 「ヲタク」が当たり前の言葉になって、誰もがヲタクになることを許される社会になって、そして誰もヲタクではなくなった。

 ゆっくりと衰退していく社会で、311でも何も変わらず、僅かな差異を見つける、それぞれの物語が誰にとっても救済につながる細い糸となった。



 つづく 

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