それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

さよなら、平成(4):日本のヒップホップ

2017-09-20 12:47:34 | コラム的な何か
 1995年、EAST END×YURIのDA.YO.NEの大ヒットで、僕は初めて「ラップ」というものを聴いた。

 当時、実家にはソウルミュージックのCDやレコードはほんのわずかで、ヒップホップなどというものの存在を知らなかった。

 小学生の僕はラジオから流れてくるDA.YO.NE.を何度も耳にしていたので、ラジオで流れる一番のヴァースは、すぐに覚えて口ずさめるようになっていた。

 おそらく、ほとんどの小学生がそうだった。



 キングギドラを知ったのは、そのちょっとあとで、「ラップは恐いもの」というイメージが徐々に世間に浸透しはじめた。

 その後、ミクスチャーロックの凄まじい流れが来て、ヒップホップそのものよりも、それが混ざった音楽が大量にラジオで流れるようになった。

 そこからほとんど同じか、ちょっと遅れたくらいで、日本のR&Bブームが来て、ヒップホップもまた一緒に盛り上がっているように感じた。

 ヒップホップとして括るべきなのかよく分からなかったが、なかでも爆発したのがM-floだった。

 高校生になったばかりの僕は、周囲がM-floを聴きまくっていることに狼狽えた。

 M-floのメンバーたちは、僕の10歳ほど上で、彼らの育った環境や価値観は、僕がその後、大学に入って以降に触れていく何かの前触れのようだった。

 正直言って、VERBALのラップは意味不明だった。

 ただ、フロウの面白さは衝撃的で中毒性があった。

 同じ括りにするわけではないのだけど、そこに続いたのがRIP SLYMEだった。

 まだその当時、僕のなかに言葉はなかったけど、周りのませた高校生たちが背伸びして「パーティ・ピーポー」のなかに入っていく様子を、僕は不思議な顔をしながら見ていた。



 おそらく、自分のなかでヒップホップが大事になってくるのは、大学生になってR&Bについて勉強し始めてからだった。

 2000年代の(アメリカの)R&Bはヒップホップと結合し、混ざり合い、分かちがたくなっていたため、否が応でも少しずつ聴かざるを得なくなっていた。

 日本のホップホップとして自分が面白いと初めて思ったのは、「ウワサの真相」の頃のライムスターだった。

 ライム、つまり複雑なリズムで韻を踏む行為が独特のグルーブを起こすとともに、内容としても中身があることに非常に驚いた。



 1998年を頂点としたCDの売上は、その後、急速に落ち込んでいく。

 大学に入って数年すると、よく分からない方法で音源を入手する人々が、僕の周囲に登場しはじめた。

 それがインターネットを通じたものだということに、僕はなかなか気が付かなかった。

 CD売り上げの低下と反比例するかたちで、2000年代前半、インターネットの普及率が急速に伸びた。

 音楽をパソコンで作る人は、僕が中学生の頃から周囲にいたのだけど、その量も質もやはりこの時期に目立って上がっているように感じた。

 2000年代半ば、YOU TUBEが登場し、2000年代の終わり頃には、誰でもそこでライブ映像などを楽しむようになった。

 アマチュアや売れないプロの音楽家が、YOU TUBEやニコニコ動画で音楽を提供するようになったのもこの頃で、

 音楽制作や配信におけるコストの低下は、誰の目にも明らかになっていた。



 ところで、アメリカの西海岸でヒップホップが爆発的に広がった背景には、

 1980年代の深刻な麻薬の蔓延と犯罪率の上昇、さらに人種間の対立の激化、ロサンゼルス暴動への流れ、というものがあったのだが(乱暴な要約)、

 日本でもそこまでではないものの、ヒップホップの草の根の普及とともに、徐々に今まで光が当たっていなかった社会に光が当たるようになっていった。

 特に都市部の周辺に存在する郊外や工場地帯で、大人は知っていても口にしないような世界があることをヒップホップが周知していった。

 僕がイギリスに留学すると、高校生ラップ選手権などをきっかけに、僕のようなヒップホップ弱者でも

 社会の表舞台で言葉を持たなかった人々がヒップホップを通じて言葉を持つようになったことを知った。

 日本でも、まがいなりにも多様性に対する意識が高まったのは、そうした流れと無縁ではなかったかもしれない。

 そして、フリースタイルダンジョンが始まった時、ヒップホップや社会認識の変化が大きな流れになっていることを実感した。

 社会科学の研究者にとって、ヒップホップはサブカル的な趣味ではなく、もはや教養になりつつあることと、私の世代の人間は考えはじめた。

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