消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(147) 新しい金融秩序への期待(147) クレジット・デリバティブという怪物(4)

2009-04-30 07:01:26 | 野崎日記(新しい金融秩序への期待)

 
三 ウーォーレン・バフェットによるデリバティブ批判

 ウォーレン・バッフェト(Warren Buffet)は、二〇〇二年時点で、デリバティブへの危惧を表明していた(Buffet[2002])。デリバティブを時限爆弾であると断定したのである。それは当事者だけでなく経済社会全体にとっても危険なものである。デリバティブは取引者の間を転々と移り、価値も確定していない。

  価値は、つねに、時価評価(mark-to-market)されるといわれているが、確たる担保もなく保証されているわけではない。

 時価評価の英語表記には、マーケット(market)という用語が使われているが、実際に市場で価値づけられるわけでもない。ただ、デリバティブの価格設定は、取引相手の信用が作り出す想定価格である。それは往々にして不合理な「思いこみの評価」(mark-to-myth)である。取引は、「モデルによる評価」(mark-to-model)に従っているとされるが、モデル自体が公理になっているわけでなく、取引者がそれぞれのモデルをてんでばらばらに使っている。取引も気まぐれな想定(fanciful assumption)に基づく。

 しかも、デリバティブの期間は、しばしば、長期にわたる。ときには二〇年以上になることもある。そして、契約期間が終了する前に損得の可能性が公表される。しかし、儲けに関しては、算定の根拠が明確に示されることなく大げさに公表されがちである。デリバティブ取引の報酬は、契約期限が終了す前に支払われるので、経営陣はさしたる根拠もなく利益を大仰に公表し、多額の報酬をせしめるのである。CEO(Chef Exeptive Officer=最高経営責任者)が多額の報酬を得た後、かなりの時間が経って、公表された利益は嘘であったことが判明する。契約期間が長期であるうえに、利益が現実のものではなく算定されたものであることがこうした悲劇を生み出すのである。

 利益が上がるときには、大げさに囃したてるが、悲観局面では、企業倒産の可能性が過剰に報道される。これもデリバティブ取引につねにつきまとう悪弊である。デリバティブでは、ある企業の破綻が、取引相手に連鎖的な破綻を生み出すという怖れが過剰に生じる。デリバティブの世界では、企業は、逆境に立っていると取引者から判断されてしまえば、多額の資金積み増しを要求され、そのことが当該企業の資金繰りを悪化させて破綻への坂道を転げ落ちてしまうのである。

 デリバティブはリスクを連鎖させる。取引に膨大な数の企業が参加していて、リスクが短期間に増幅してしまう危険性が大きい。自分は十分に危険を分散させていると豪語する投資家でも、分散相手そのものが何らかの形で連鎖していて、一つの資金回収の途絶がすぐさま他の資金回収を困難にしてしまうのである。

 銀行業界には、こうした「連鎖問題」(linkage=リンケージ)が十分に認識されたからこそ、連邦準備制度(FRB)が作り出された。この制度ができる前は、ある弱い銀行の破綻が他の強い銀行の流動性危機をもたらすことが頻繁にあった。Fed(連銀=Federal Reserve Bank)は、弱い銀行が破綻するや否や、まだ健全な銀行がその破綻に煽られて連鎖破綻しないように、破綻の連鎖を断ち切る政策を打ち出す。ところが、デリバティブの世界にはこの遮断システムがない。一つの破綻がすぐさま連鎖破綻を生み出しかねないのである。

 デリバティブがシステム・トラブルを減少させると説く論者は多い。リスクを転嫁できるからであるというのがその論拠である。デリバティブこそは、取引の活発化が、個々のリスクを軽減させ、経済を安定化させるというのでる。

 ミクロ・レベルではそうであるもかもしれない。しかし、マクロ・レベルでは、膨大なリスク、とくにデフォルト・リスクが少数の大取引業者に集中してしまうのである。少数の大取引業者たちが相互にデリバティブを契約しているために、一つの倒産が全システムを破壊してしまう可能性が高いのである。

 こうした危険性は、一九九八年のLTCM(Long-Term Capital Management)の破綻によって十分に認識されていたはずである。このとき、Fedが介入しなければ、LTCMと関係のない金融機関までもが破綻していたであろう。

 LTCMが多用していたデリバティブは、「トータル・リターン・スワップ」(total-return swap)と呼ばれていたものである。トータル・リターン・スワップとは、クレジット・デフォルト・スワップよりも、リスクを包括的にカバーする取引のことである。たとえば、プロテクションの買い手は、保有している社債から得られる利子収入をプロテクションの売り手に支払う一方、LIBORベース等の金利をプロテクションの売り手から受け取る。また、契約期間終了時に、当該社債が値上がりしていれば、値上がり分をプロテクションの売り手に支払い、値下がりしていれば、値下がり分をプロテクションの売り手から受け取る。このように、トータル・リターン・スワップの契約を用いると、プロテクションの買い手は、実質的にLIBOR(London Interbank Offered Rate)(5)ベース等の運用をおこなうのと同等の経済効果を享受することができるはずであった(http://money.infobank.co.jp/contents/T500258.htm)。専門家集団ですら、瞬時にしてLTCMを崩壊させたのである。

 一九九四年創業し、わずか四年で倒産したLTCMは、流動性の高い債券がリスクに応じた価格差で取引されていないことに着目し、実力と比較して割安と判断される債券を大量に購入し、反対に割高と判断される債券を空売りするもの(Relative Value Trading=レラティブ・バリュー取引)であった。レバレッジを効かせて利益の拡大を図っていた。資本金六五億ドル程度の会社が、各国の金融機関の資金一〇〇〇億ドルを運用するという状態にまでなっていたのである。

 しかし、一九九七年に発生したアジア通貨危機と、九八年のロシア財政危機から、同社は、一挙に奈落に転落した。新興国の債券・株式は危険であるという認識が急速に広がり、投資家が、投資資金を引き揚げて先進国へ移し始めた。しかし、同社は、このような動揺は数時間から数日のうちに収束し、いずれ新興国の債権・株式の買い戻しが起こると判断して、それに応じたポジションをとった。これらの経済危機によって生まれた投資家のリスクに対する不安心理は収まらず、むしろますます新興国・準先進国からの資金引き揚げを加速させていった。先進国の債券を空売りし、新興国の債券を買い増していたLTCMの経営は深刻な状態となった。資産総額が下がり始めてから約八か月の間で九四年の運用開始時点の額を下回り、同年九月には誰の目にも崩壊寸前であることが明らかとなった。

 LTCMは、一〇〇〇億ドルもの資金を運用しており、さらには一兆ドルに上る取引契約を世界の金融機関と締結していた。

 ニューヨーク連邦準備銀行の指示により、一五行の銀行が、LTCMに三六億ドルの資金を融通し、当面の取引を執行させて緩やかに解体させた。


野崎日記(146) 新しい金融秩序への期待(146) クレジット・デリバティブという怪物(3)

2009-04-29 07:05:38 | 野崎日記(新しい金融秩序への期待)


 二 CDSの危険性


 CDSの売買を仲介するのは、初期は商業銀行であった。そして、投資銀行がこの仲介業務に乗り出すようになり、それを専業とするSIV(Structured Investment Vehicle=特定目的投資会社)(3)が大きな地位を占めるようになった。

 CDSは、商業銀行の必要な自己資本比率を決めたBIS規制(4)を避けるために発明されたものである。

 一九九〇年代後半、社債や自治体債を対象とした支払い保証手段として発売されるようになった。二〇〇〇年以前にはプロテクション発売額は九億ドルになっていた。エンロン(Enron)やワールドコム(Worldcom)の社債もプロテクションの対象になっていた。初期のプロテクションは相互に熟知した少数者の間柄の内部で取引されていた。プロテクションの発売者は、ローンや債券の引受者でもあったのである。

 しかし、二〇〇〇年以降、CDSは三つの大きな変化を遂げた。

 第一は、CDSが流動化して債権・債務の当事者ではない第三者に転売されるようになった。こうしてCDS市場に参加する組織が増えた。

 第二は、社債や自治体債だけではなく、ABS(Asset Backed Security=資産担保証券)やMBSまでもがCDSの対象になった。こうなると、なにを対象とした支払保証であり、誰が発行したものなのかへの関心がCDS取引参加者から薄れていった。

 第三は、債券の支払いを保証するという初期の意図から外れて、CDSが対象とする債券のデフォルトの可能性を重視し、デフォルトに陥れば支払ってもらえるという投機の対象にCDSが大きく変質してしまったことである。これが、前節で説明した第二の転形である。

 その結果、二〇〇七年末には、CDS市場は四五兆ドルにまで拡大した。

  しかし、CDSの対象である社債、自治債、SIV関連債(CDO、ABS、MBSなどの総称)が二五兆ドルであったのだから、その一・五倍もの市場であった。CDS取引のうち、二〇兆ドルは、デフォルトを避ける取引ではなく、デフォルトを期待した投機的な取引であった。CDSは、一〇回以上も持ち主が替わるといわれている    (http://www.opalesque.com/48859/Freight_derivatives_likely_to_survive_plummeting.html)。

 CDSの持つ危険性が広く認識されるようになったのは、二〇〇七年夏、サブプライム問題が深刻になってきてからである。サブプライム・ローンを証券化したCDOの価値評価に疑問が生じるとともに、CDOの価値保証をしていたCDSへの市場の不安感が一挙に増大したのである。CDOのデフォルト不安が実際にプロテクションによる支払い保証への懐疑を生みだしたのである。

 たとえば、保険会社のAONは、プロテクションの利子受け取りの権利を他の企業に売る。実際にデフォルトが生じると、AONは支払い保証額を約束によって支払うことになるが、この支払い金額の補填用として、プレミアムの権利を販売していた。しかし、実際に生じた一〇〇〇万ドルの支払いを補填するには、AONの利子販売額が不足し、AONは窮地に追い込まれた。そもそも、デフォルトなど生じないであろうと、たかを食ってプロテクションを売りまくったのであるが、実際にデフォルトが発生してしまえば、AONは膨大な保証金を支出しなければならなかった。そうした額は、AONがプレミアムの販売収入で補填できるものではなかった。

 スイス・リインシュアランス(Swiss Reinsurance)も破綻の瀬戸際に立った。同社は、合計一五億ドルの二種類のCDOを保証する二つのプロテクションを売った。ところが、CDOの対象となっていた担保不動産の価格が低落し、それとともに、CDOへの支払い保証を実行しなければならない可能性が高くなった。CDOのすべてが無価値になったのではないが、CDOの算定価値は一一億ドルに低下し、CDO保証価値一五億ドルを維持するためには同社は差額の四億ドルの支払いを覚悟しなければならなくなった。当該のCDOの価値低落はさらに進行し、〇八年四月には、同社はさらに二億四〇〇〇万ドルの支払い追加を覚悟しなければならなかった。

 保険会社は、プロテクションを売るだけではなく、買い方にも回る。保険会社は、ABS、MBS、CDOの大量保有者でもある。保険会社は、そうした保有資産の価値を維持すべく、プロテクションを買うのである。これが保険会社のリスクを増幅する。保険会社は、自身が売り出したプロテクションの支払いを実行しなければならないリスクに加えて、買ったプロテクションの売り手側の支払い不能というリスクにもさらされるからである。

 保険会社のこうした二つのリスクのうち、プロテクションの売る方がより多くのリスクをもつ。すでに説明したが、売ったプロテクションの利子はプレミアムと呼ばれる。プレミアムは年間で保証額の三~五%である。プレミアムは四半期ごとに支払われる。しかし、デフォルトが現実化してしまえば、こうしたプレミアムの受け取り総額をはるかに上回る損失をプロテクションの売り手は被るのである。AIGは、〇八年前半でプロテクションのために二〇〇億ドルの支払い準備を積み増した。

 CDS市場は、投機的なものになっていた。プロテクションの売り手は対象となっているMBS、ABS、CDOに関する正確な情報をもっていなかった。それら証券のデフォルト発生に関する正確な確率計算もできていなかったのいではないかとさえいわれている。多くのヘッジファンドや投資会社が、対象となる証券を保有していないのに、プロテクションを購入した。クレジット・イベント(Credit Event)と呼ばれるデフォルトが発生しそうだという賭(bet)の意識からプロテクション購入にいそしんだのである。

 デフォルトを期待することからプロテクションが買われるようになると、プロテクションの対象になっている証券の空売りを誘発した。空売りによって儲けた資金がさらにプロテクション買いに投資されるようになっていた。証券価格の急落が、当該証券のデフォルト・リスクを高め、それがプロテクションのプレミアを高め、プロテクションの売り手がさらに転売するプレミア取得権のCDSの空売りを誘発することになった。そうした投機の結果、保険会社は多額の支払い準備金の積み増しをプロテクションの買い手から要求されるようになったのである。保険会社は最後の頼みの綱としてディープ・ポケット(deep pocket)と見なされていたのだが、AIGの破綻に見られるように、保険会社が単独でCDS市場を支えることなできなくなっていたのである。

 これもすでに説明したが、CDS取引は市場を通さない相対取引である。法的な規制も受けていない。国際スワップ・デリバティブ協会(International Swaps and Derivatives Association=ISDA)という組織はある。CDS取引に関するガイドラインを出す機関である。しかし、この機関にはCDS取引を監督する権限はない。完全な無政府状態でCDS投機が横行していたのである。


野崎日記(145) 新しい金融秩序への期待(145) クレジット・デリバティブという怪物(2)

2009-04-28 07:03:06 | 野崎日記(新しい金融秩序への期待)
  いずれにせよ、デフォルトの不安を煽れば煽るほど、プロテクションは価値をもつ商品として取引されるようになる。かくして、金融システムが不安定化する。プロテクションは保護の手段ではなく投機の対象に転化してしまったのである。

 しかも、CDS市場は、規制が一切、課せられていない相対取引である。つまり、市場で売買されるものではなく、売り手と買い手との力関係で値が付くものである。金融市場を混乱させている最大の要因がCDSである。デフォルトを避けるべき金融システムの中に、デフォルトを促進させたいという欲望をCDSが潜ませているからである。

 契約期間が通常五年間であるプロテクションの売り手には、必要資本額という規制がない。デフォルトが生じないという思惑で、売り手はあらゆるCDOをプロテクションの対象にしてしまう。プロテクションを売れば売るほど儲けが大きくなるからである。もちろん、プロテクションの売り手はデフォルトのリスクを計算しているであろう。しかし、リスクは自動車事故とは異なる。自動車事故は、車の台数や走行距離との関係で経験的に推測できる。自動車保険の売り手は、そうした計算式をもっている。
 しかし、デフォルトの事故率は自動車保険とは質的にまったく違う。デフォルトは連鎖するのである。一つのデフォルトが他のデフォルトを生み出す。取引先の社長が自動車事故を引き起こしても、自分もつられて自動車事故を起こすわけではない。 しかし、取引先の企業が倒産してしまえば、自社も倒産してしまう可能性は非常に高い。銀行による貸し渋りがあれば、デフォルトは急速に連鎖してしまう。

 AIG(American International Group)(2)の破綻は、デフォルトの危機が予想を上回る速度で進行し 米連邦準備制度理事会(FRB=Federal Reserve Board)とニューヨーク連銀(Federal Reserve Bank of New York)が、二〇〇八年九月一六日、AIGに対して最大八五〇億ドル(約九兆円)を融資する方針を決めた。二年契約である。融資と引き換えに、米政府がAIG株式の七九・九%を取得する権利を確保するという公的管理下にAIGは置かれた。FRBは、「AIGの破綻は金融市場での資金調達コストの急上昇につながる恐れがあった」と支援に動いた理由を説明した。AIGはリーマン・ブラザーズ(Lehman Brothers)の経営破綻(〇八年九月一五日、連邦破産法一一条=Chapter 11 of the Bankruptcy Codeの適用申請)を受けて資金繰りが悪化、さらに米格付け会社が相次いで格付けを引き下げたため、保険業務上必要な高い格付けを維持できないとの懸念が強まっていた。リーマン破綻直前の九月一一四日には、格付けの維持に向けて一〇〇億ドル規模の増資計画とリストラ策に加えて、FRBへの四〇〇億ドルのつなぎ融資申請などを発表したが、FRBから一旦、融資を断られていた。それまでに、AIGはサブプライム問題に絡む損失を計三三〇億ドル(約三兆四六〇〇億円)を計上していた( http://mainichi.jp/select/today/archive/news/2008/09/17/20080917k0000e020044000c.html)。

 AIG破綻への道筋を整理したおこう。

 AIGの不動産担保証券(Mortgage Backed Security =MBS)関連商品の累積損失額は、〇八年一~三月期では一九〇億ドルであったが、四~六月期には、二五〇億ドルに激増した。この期、同社の最終赤字は五三億六〇〇〇万ドルに膨らんだ。三期連続赤字であった。

 四~六月期の決算発表があった翌日の〇八年八月七日、同社株の終値は前日比五・二五ドル(一八・〇五%)安の二三・八四ドルとなった。格付け会社スタンダード・アンド・プアーズ(Standard & Poor's =S&P)が、「〇八年七~九月期までに業績が安定しなければ、格下げする可能性がある」とした。格下げされれば、AIGは、プロテクションの追加担保として最大一〇〇億ドルの差し入れを迫られるはずであった。このときまでに、AIGは、プロテクションの担保としてすでに一六五億ドルを差し入れており、さらに困難に見舞われる可能性があった。

 AIGは、〇七年八月、米国が一九二九年の大恐慌の二倍の衝撃を受けるような事態にならない限り、プロテクションで損失を出すことはないと主張していた。〇八年一~三月期末には、最終的な損失は一二~二四億ドルになる可能性があるとしていた。そして、〇八年八月、この予想レンジを五〇~八五億ドルに引き上げていた。しかし、〇八年八月七日に出されたモルガン・スタンレー(Morgan Stanley)の調査リポートでは、損失は一三〇億ドルに上る恐れがあるとされた(〇八年八月八日付、http://online.wsj.com/public/page/news-wall-street-heard.html)。それは、CDSが如何に不透明なものであるかを示す証左であった。

野崎日記(144) 新しい金融秩序への期待(144) クレジット・デリバティブという怪物(1)

2009-04-27 07:07:08 | 野崎日記(新しい金融秩序への期待)


 はじめに

 今日の金融危機は、J・P・モルガンの小さなチームが生み出したモンスターに起因する。モンスターとは、CDSと表記される金融派生商品である。CDSとは"Credit Default Swaps"の頭文字からなる言葉で、「デフォルト(支払い不能)の危険性にまつわる取引」という意味である。債務者が支払い不能になったときに、債務者に代わって債権者に債権額を支払うことを約束する保証契約(プロテクション=protection)がCDSである。


 一 CDSの変質


 保険会社などが、このプロテクションを債権者に売る。プロテクションの売り手は債務者の支払い不能というリスクを引き受ける。つまり、リスクを引き受けるという約束を売る。プロテクションを買った債権者は、リスクを引き受けてくれるという約束を買う。

 こうして、支払いが不能になるかもしれないというリスクが交換される。スワップというのはそういう意味である。通常、支払い保証は、利子としての分割払いの形式(プレミアム=premium)をとる。

 CDSは、三つの転形をする。

 この契約の対象になっているのは、社債などの証券である。社債の発行元を参照主体という。参照主体にクレジット・イベント(Credit Event)が生じれば、当該社債は無価値になるか、そうならないまでも、大幅に価値減少する。クレジット・イベントとは、破綻、支払い不能(デフォルト)など、参照主体側に社債の返済に難が生じるできごとをいう。この社債の支払い保証をするというのがCDSである。これが、第一の基本的なCDSである。それは言葉の真の意味での保険契約である。

 投資会社などが、CDSを付けられた多数の(通常一〇〇〇種と超える)銘柄の社債を含む証券を一つの固まりにまとめる。クレジット・イベント発生の可能性の低い銘柄から順に並べる。比較的上位の部分をシニア(senior)という。このグループは、CDSの保証料が低く、証券自体の格付けも高いグループである。その次のランキングがメザニン(mezzanine)である。メザニンとは、中二階という意味である。つまり、上位と下位の中間にある部分という意味である。そして、もっとも信用度の低いグループがエクイティ(equity)部分である。シニア部分は、最優先で支払い保証が付けられているもので、エクイティは劣後支払い、つまり、もっとも支払いの優先順位が低い部分である。

 こうしたランクを付けられた証券を束にして、一つの証券にしたものが、CDO(Collateralized Debt Obligation=合成債務担保証券)である。シニア部分からなるCDO、メザニン部分を主体とするCDOなどが組成される。組成するのは、通常、投資銀行である。個々の証券を束にしたので、合成債務担保証券と呼ばれる。

 投資会社は、こうしたCDOを顧客に気に入られるように、構成証券を組み替えて仕組み債として顧客に売りつけるのである(1)。

 つまり、こうしたCDOにCDSが組み込まれた状態でCDOが転売される。CDSの保証料(プレミアム)を支払うのはCDOを購入した投資家である。しかし、プロテクションを売りつけた最初の保険会社は、当該証券の所有者が変わっても、クレジット・イベントが発生すれば、証券の価値保証をしなければならない。

 CDS自体が転売されるが、それでも、証券を対象としたCDSであることに変わりはない。つまり、CDSの第一形態にこの段階では留まっている。

 そして、CDSは第二の形態に移る。こともあろうに、価値を保証してもらう証券なしに、CDSが契約されるようになったのである。参照主体が倒産する可能性が強いと判断した投資家が、プロテクションを買うのである。証券がないのに、参照主体が破綻すれば、プロテクションの買い手は売り手から資金を支払ってもらえる。もちろん、証券がないので、証券がある場合よりも支払ってもらえる絶対額は小さいが、それでも、支払いを受ける権利をプロテクションの買い手は持つ。プロテクションの売り手は、参照主体がまず破綻しないであろうとの判断のもと、プロテクションを売りまくる。プレミアムをせしめたいからである。

 他方で、プロテクションの買い手は、価値保証をしてもらう証券がないのに、プレミアムを支払う。これは安心を買うのではなく、れっきとした投機のための支払いである。参照主体は必ず倒産する。そうなればプロテクションの売り手から金を支払ってもらえる。企業破綻を避けるための保険システムから企業破綻を願う保険システムにCDSが変質してしうのである。まさに、クレジット・イベントが賭の対象になってしまった。まさに、倫理なき資本主義への突入である。

 そして、もっとも危険な第三形態にCDSが移行する。プロテクションの売り手が、そのプロテクションがもたらすプレミアムを取得する権利を転売してしまうのである。これは、悪質な契約である。プレミアムを受け取る権利は、プロテクションの対象となる証券の想定元本の額で売られる。この場合、クレジット・イベントが発生しても、価値保証はしない。価値保証をしないどころか、想定元本もゼロになってしまう。もちろん、プレミアムを受け取る権利も消失させられてしまう。想定元本が一〇〇万ドルであれば、このCDOを組成した投資銀行は、一〇〇万ドルで顧客に売る。買い手はプレミアムを得る。通常、期間は五年である。五年後、投資銀行はこのCDOを買い戻す。CDOの買い手は、五年間を無事に切り抜ければ、初期投資額の一〇〇万ドルが返ってくるうえに、プレミアムを取得できる。これをシンセティックCDO(Synthetic CDO)という。シンセティックとは合成という意味であり、通常は一〇〇〇程度の銘柄からなる想定元本で売られるCDOである。合成債務担保証券とでも訳せる。

 しかし、参照主体が破綻すれば、実際の価値保証金はオリジナルのCDS契約者に支払われる。シンセティックCDOの買い手は、参照主体が破綻すれば、購入したそのCDOは無価値にある。非常に恐ろしい契約である。買い手は参照したいの破綻などはないであろうとの見込みの下に、この種のCDOを買う。売り手は、参照主体の実際の破綻にさいして、支払わなければならない資金を調達するために、買い手にとって過酷な契約を売るのである。この点については、本章第六節で詳しく解説する。


野崎日記(143) 新しい金融秩序への期待(143) 大きな国家(12)

2009-04-25 07:02:39 | 野崎日記(新しい金融秩序への期待)
(20) ミューチュアル・ファンド(Mutual Fund)は、米国のオープンエンド型の投資信託のことをいう。その呼び名は、一九四〇年代の投資会社法制定の時期に、「ファンドの投資家は損益を均等にシェアする」と言う意味でミューチュアル(相互に)という言葉が使われたことに由来する。ミューチュアル・ファンドには、会社型と契約型とがあり、会社型においては、投資家はその株式を買うことにより株主としてファンドに投資することになり、一方で契約型においては   一方で契約型においては投資家とファンドの設定者との間での契約により受益証券を買う仕組みとなっている。米国では、会社型が大半を占める(http://www.ifinance.ne.jp/glossary/fund/fun074.html)。受益証券は、投資信託の利益を受ける権利(受益権)を証券化したものをいう(http://dictionary.goo.ne.jp/index.html?kind=
jn&mode=0&kwassist=0)。

(21) MBS(Mortgage Backed Security)は、モーゲージ(住宅ローン)を証券化したものモーゲージバック証券とも呼ばれている。不動産担保融資の債権を裏付けとして発行された証券のことで、オリジネーター(不動産の原所有者で、証券化のために不動産を仕組みの中に供給する人)が、住宅ローンを貸し出し、この住宅ローン債権を証券発行体に売却をする。証券発行体は、これをもとにしてモーゲージ証券を発行する。発行された証券は、元利金支払の保証がされるなど信用力や格付が高められた上で、投資家に販売される。米国においてモーゲージ証券の大部分は、政府系の機関であるジニーメイ(連邦政府抵当金庫)、ファニーメイ(連邦住宅抵当公庫)、フレディマック(連邦住宅金融抵当金庫)により発行されている。モーゲージ証券は、米国国債と並ぶ高い信用力を有しているが、期限前償還のリスク(貸付期間が短くなることにより償還金額が減る)があり、よって投資家は一般的な債券より比較的高い利回りを享受することができる。モーゲージ証券の代表的な例として、同じ種類の債券を集め証券化したパススルー証券(pass- through entity)、期限前償還リスクを緩和すべく、担保となる証券やローンと異なる何種類ものキャッシュフローをもつ別々の債券として発行されるCMO(Collateralized Mortgage Obligation)や、住宅ローンを担保として発行される証券、RMBS(Residential Mortgage-Backed Securities)がある。

(22)世界四大会計事務所の一つ。プライスウォーターハウスクーパーズの前身、プライスは、ロンドンにて一八四九年に創設。一八七四年、合併してからプライス・ウォーターハウスとなり、一八九〇年にニューヨークに進出。一九九八年、クーパーズ・ライブランド(Coopers & Lybrand)と合併後、現在の社名になる。一方の、クーパーズ・ライブランドの前身、クーパー(Cooper)は、同じくロンドンで一八五四年に創設。一八九八年にニューヨークに進出。一九五七年、ニューヨークの会計事務所と合併して、クーパーズ・ライブランドとなる。新会社は、ニューヨークを本社とした。〇七年度の収益は二五〇億ドル、一五〇か国に事務所があり、従業員総数は一四万六〇〇〇人と、世界第三位の規模である。四大会計事務所とは、同社の他に、KPMG、アーンスト・ヤング(Ernst & Young)、
 デロイト・トウーシュ・トウマツ(Deloitte Touche Tohmatsu)である(Wikipediaより)。

  米国には、会計監査とコンサルタント業務との相反関係を禁止する企業会計改革法がある。二〇〇二年七月に成立した、サーベーンズ=オクスリー法(Sarbanes-Oxley Act of 2002)がそれである。同法を実施する責務は、米国証券取引委員会(Securities and Exchange Commission=SEC)にある。企業会計改革法は、二〇〇一年一一月のエンロン(Enron Corporation)や二〇〇二年六月のワールドコム(WorldCom)等の会計不正による企業破綻を契機として制定された包括的な証券改革立法である。同法は、会計事務所に対する監督強化のための公開企業会計監督委員会(Public Company Accounting Oversight Board=PCAOB)の設立、会計監査人の独立性の強化、コーポレート・ガバナンス(Corporate Governance)の強化等の企業責任の強化、企業のディスクロージャー(disclosure)の強化、企業犯罪への罰則強化等、広範な内容を含むものとなっている。しかも、同法の適用が、米国内だけでなく、外国の会計事務所に対しても拘束できる規定を含んでしまっていることから、同法はつねに紛争の種になっている(http://www.fsa.go.jp/news/newsj/15/sonota/f-20030918-1b/213-216.pdf)。

(23) モーリス・グリーンバーグ。愛称、ハンク(Maurice R. "Hank" Greenberg )。一九二五年、ニューヨーク生まれ。〇五年にAIGを追放された後、金融会社C・V・スター(C.V.Starr & Co.)を設立。この会社名は、AIGの創始者、バンダー・スター(Cornelius Vander Starr)の名にちなんだもの。陸軍で活躍後、弁護士になる。一九六二年、乞われてAIG創業者のスターからAIGの子会社で苦況にあったノース・アメリカン・ホールディングズ(North American holdings)の経営を任され、一九六八年に本体のAIGでスターの後継者に指名され、〇五年までCEO。取って代わったのは、サリバン(Martin J. Sullivan)。

 アジア展開で、グリーンバーグの相談相手は、キッシンジャー(Henry Kissinge)である。一九八七年、グリーンバーグはキッシンジャーをAIGの国際顧問にしている。

 彼は、米国外交問題評議会(Council on Foreign Relations=CFR)の名誉副議長兼理事を務めた。デービッド・ロックフェラー三者委員会(David Rockefeller's Trilateral Commission)メンバーでもある。一九八〇年代、レーガン政権からCIA副長官就任を要請されたが、丁重に断った。米韓経済会議(US–Korea Business Council)、米中経済会議メンバー。ニューヨーク証券取引所理事、大統領貿易委員会顧問(the President's Advisory Committee for Trade Policy and Negotiations)、ニューヨーク連銀議長、副議長、理事を歴任(past Chairman, Deputy Chairman and Director of the Federal Reserve Bank of New York)。

 〇五年三月一四日、AIG取締役会がグリーンバーグに会長職辞任を要求。ニューヨーク州司法長官(Attorney General)のエリオット・スピッツアー(Eliot Spitzer)は、グリーンバーグ親子が共謀して、AIGを食い物にしていると糾弾した。
 ニューヨーク州司法当局は、保険仲介業で米最大手のマーシュ・アンド・マクレナン(Marsh & McLennan Companies=MMC)を民事提訴した。ニューヨーク州最高裁に提出した訴状によると、マーシュは特定の保険会社に大量の契約を回す見返りに、高額な成功報酬を受け取っていたという。仲介業者は顧客に代わって有利な契約先を探すのが仕事だが、懇意の保険会社に偽りの見積もりを出させて競争入札があったかのような演出もしていた。この会社のCEOは、ジェフリー・グリーンバーグ(Jeffrey W. Greenberg)。ハンク・グリーンバーグの息子であり、AIGでの勤務経験がある。訴状によると、不正取引に加担していたのはAIGやエース(ACE Limited)などであった。そして、このエースのCEOもハンクの息子のエバンズ・グリーンバーグ(Evan G. Greenberg)で、この息子もAIGの元監部であった。このスキャンダルによって、ハンクはAIGを追われたが、スピッツアーも売春スキャンダルで、〇八年に司法官を辞職している(Wikipediaより)。

 〇五年、五億ドルの架空の損失引当金計上による粉飾、保険および証券法違反などの容疑でモーリス・グリーンバーグは起訴された。モーリス・グリーンバーグは会長を辞任し、後任はマーチン・サリバン(Martin Sullivan)。サリバンも〇八年六月一五日にサブプライム問題で辞任、後任のシティグループのバンカーであったロバート・ウィルムスタッド(Robert Willumstad)も、わずか三か月後の九月一八日に辞任(http://jp.reuters.com/article/topNews/idUSN1543003120080616)。後任にはエドワード・リディ(Edward M. Liddy)が就任した。

(24)ピムコ(Pacific Investment Management Company LLC=PIMCO)のアナリスト、ビル・グロス(Bill Gross)によれば、"Shadow Banking System"という表現を最初に使ったのは、同じピムコのポール・マッコーレー(Paul McCulley)であった(Gross[2007])。

 ピムコは、 債券専門の運用会社として一九七一年に、カリフォルニア州にて設立された。安定した高いパフォーマンスが信頼を集め、設立以来三〇年を経て、世界最大級の債券運用会社に成長した。米国をはじめ、東京、シドニー、シンガポール、ロンドン、ミュンヘンに拠点を設け、グローバルにビジネスを展開し、世界中の投資家の資金を運用している(http://www.smam-jp.com/image/wn/about_pimco.html)。

(25)Blackburn, Robin, "The Subprime Crisis,";http://www.newleftreview.org/?getpdf=NLR28403&pdflang=en は、サブプライム問題の世界的な波及を綿密に叙述した秀作である。


野崎日記(142) 新しい金融秩序への期待(142) 大きな国家(11)

2009-04-24 07:00:21 | 野崎日記(新しい金融秩序への期待)
(17)  ベーシス・スワップとは、変動金利と変動金利のスワップ取引のこと。異なるリスクを持つ変動金利をスワップする取引、異なる期間を持つ変動金利をスワップする取引、異なる通貨の変動金利をスワップする取引などがこれにあたる( http://www.exbuzzwords.com/static/keyword_2712.html)。

(18) 一九三三年銀行法のこと。このグラス・スティーガル法(Glass-Steagall Act P.L. 73-66, 48 STAT. 162)は、一九九九年の金融近代化法ができるまでの六六年間、曲がりなりにも機能していた。米国社会には、ジェファソニアン・デモクラシー (Jeffersonian Democracy) の伝統がある。州権の尊重、 金融独占に対する反発、 コミュニティ重視等々がその内容である。

 その原則に基づいて、世界大恐慌以降の米国の預金金融機関制度は、一九七〇年代半ばに至るまで、一九三三年銀行法 による厳格な規制下に置かれてきた。 この規制の骨子は三点あった。

 ①預金金利規制。世界大恐慌以前の米国の銀行は、 預金獲得のために、ハイリスクの融資先に貸し付けていた。一九二九年一〇月二四日の株価大暴落と、 それに続く世界大恐慌のなかで、こうした銀行の多くが破綻に追い込まれたため、 一九三三年のグラス・スティーガル法では、 要求払い預金 (いつでも引き出せる預金) に対する付利を禁止し、 さらに連邦準備制度理事会 (Board of Governorsof the Federal Reserve System) の前身である連邦準備局 (Federal Reserve Board) に対して、 同制度加盟銀行定期預金上限金利を規制する権限を付与した。 FRB (「一九三五年銀行法」 (Banking Act of 1935 P.L. 74-305, 49STAT. 684 )により連邦準備局を継承) は、 連邦準備制度法に基づく 「レギュレーションQ(Regulation Q)」 によりこの規制を成文化し、金利競争が過熱しないよう上限金利を低く抑制してきた。

 ②地理的業務規制。銀行の過度の拡張主義を防ぐため、 銀行の支店設置可能な地域は、 「一九二七年マクファーデン法」 (Mc-Fadden Act of 1927 P.L. 69-639, 44 STAT. 1224)及びグラス・スティーガル法によって、 国法銀行・州法銀行いずれの場合においても州銀行監督当局により規定されるものとされた。 大部分の州では、 州銀行法によって州境を超える支店(州際支店) の設置を禁止しており、 また商業銀行の州内への支店設置も認められなかったため (これを単店銀行制度 (Unit Banking System)という)、 この規定は銀行の営業範囲を厳格に規制するものとなった。 結果として、 米国は欧州・日本と比べて、 小規模な銀行が多数存在する金融構造を持つことになった。

 ③業務範囲規制。世界大恐慌時の株価暴落に伴って、 高リスク、 高利回りの不健全な証券へ投資をおこなっていた銀行は経営危機に陥った。 また、 銀行が証券業務に参入することは、 系列証券会社の関与した証券の売却を促進・成功させるため、 銀行の当該証券の発行者に対する与信判断が甘くなったり、 あるいは倒産寸前の融資先企業に系列証券子会社を通じて社債を発行させ、 調達された資金を融資の回収に充当して倒産リスクを投資家に転嫁するといった利益相反が発生する懸念があった。このためグラス・スティーガル法では、 以下の四か条により、 銀行業と証券業との分離を厳格に規定していた (この四か条をとくに 「グラス・スティーガル条項」 といい、 狭義では同条項のみを指して 「グラス・スティーガル法」 の語を用いることがある)。(1)銀行本体で証券業務をおこなうことを禁止する。 米国債や州の一般財源債などの「適格証券」 を除き、 株式・社債 (これを「非適格証券」 という) の引受けやディーリングを、 銀行が自己勘定でおこなうことはできない。(第一六条)。(2)銀行は、 銀行本体でおこなうことができない証券業務に主として従事する会社と系列関係を持つことができない (第二〇条)。証券会社は預金受け入れをおこなうことができない (第二一条)。(3)銀行の役員は証券会社の役員を兼任してはならない (第三二条)。またグラス・スティーガル法では銀行が保険業務その他の一般事業会社を所有することの禁止が明文化された。

 グラス・スティーガル法はこうした規制を通じて金融制度の安定化を図る一方で、 連邦預金保険公社 (Federal Deposit of Insurance Corporation=FDIC) を設立して預金保険制度を創設した。さらに 「一九五六年銀行持株会社法 」(Bank Holding Company Act of 1956 P.L. 84-511, 70 STAT. 133 )では、 ある州に本社を置く銀行持株会社が、 他州の銀行を取得することが明確に禁止された。 ただし、この一九五六年の法にある、ダグラス修正条項 (Douglas Amendment) により、 進出先の州法が明示的に許容している場合には取得が認められた。 この場合には銀行持株会社を利用して複数の州の銀行を子会社として傘下に置くことによって、 州際業務をおこなうことが可能であった。この法では、 当初、 複数銀行持株会社 (二つ以上の銀行を傘下にもつ持株会社) のみを規制し、単一銀行持株会社 (傘下に一つしか銀行を持たない持株会社) を規制の対象外としていた。 このため一九六〇年代末には、 単一銀行持株会社の形態を取って、 銀行が一般事業に進出することが盛んになった。 しかし、この抜け穴は、「一九七〇年銀行持株会社法修正法」 (Bank Holding Company Act Amendments of 1970 P.L. 91-607, 84 STAT.1760)によって塞がれた。一九三〇年代に確立した米国の金融制度は、 以後約半世紀にわたり継続した。

 米国の預金金融機関には大別して①商業銀行、 ②貯蓄金融機関、 ③クレジット・ユニオンの三種類があり、 商業銀行はさらに、 連邦法免許の国法銀行 (National Bank) と各州銀行法免許の州法銀行 (State Bank) の二種類に分けられる ( 「二元銀行制度」 という)。国法銀行は連邦準備制度・連邦預金保険制度への加盟が義務づけられるが、 州法銀行の両制度への加盟は任意である。 ただし連邦準備制度に加盟した州法銀行は、 連邦預金保険制度にも加盟しなければならない。連邦準備制度に加盟していない銀行に対しても、 一九三五年、 FDIC(上述) に定期預金の上限金利規制権限が付与され、 レギュレーションQと同水準の金利上限規制が適用された(樋口[2003]に依拠)。

(19) MMMF(Money Market Mutual Fund)は、一九七一年に創設されたオープンエンド型の投資信託。高利回りの短期証券(CD、CP、TB、BAなど)で運用するもの。換金が自由なほか、小切手の振り出しも可能なことから、銀行預金の強力な対抗商品として急成長した(http://ten-navi.com/fin/glossary/a/52.php)。

 オープン・エンド型(open-end type)とは、いつでも換金可能なタイプの金融商品。CD(Negotiable Certificate of Deposit)は、譲渡性預金証書の略称。第三者に譲渡可能な銀行の預金証書。日本では、一九六一(昭和三六)年に米銀によって導入された。日本のCD市場は、一九七九(昭和五四)年に証券会社の債券現先取引に対抗して創設された。銀行が企業の余裕資金を吸い上げる手段として考え出された取引で、日本の自由金利商品の先駆けとなった。

 CPは、コマーシャルペーパー(Commercial Paper)の略。信用力のある優良企業が割引方式で発行する無担保の約束手形。日本では、一九八七(昭和六二)年に創設された。

 日本のTB(Treasury Bills)は、短期国債、短期割引国債、割引短期国債などと呼ばれている。TBは、一九七〇年代後半から大量に発行された国債の、償還・借換えを円滑におこなうための資金繰りとして、一九八六(昭和六一)年から公募入札方式で発行されている。米国では財務省証券のこと。

 BA(Banker's Acceptance)は、銀行引受手形。輸出入業者などが貿易決済のために振り出し、銀行が引き受けた期限付為替手形。銀行は、自らを支払人として期限付為替手形を引き受け、BA市場で売却して資金を調達する。市場では、投資家やディーラーに転売される。BA市場は、ニューヨークやロンドンでは発達しており、主要な短期金融市場となっている。円建BAは、円建期限付為替手形。日本では、一九八三(昭和五八)年一〇月の「総合経済対策」で円建BA市場の創設が検討され、一九八四(昭和五九)年五月の「日米円ドル委員会報告書」で円建BA市場の創設が決定され、一九八五(昭和六〇)年六月に円建BA市場が創設された。創設直後には五八七億円の残高(一九八五年六月末)があったが、現在、取引はほとんどない(http://www.findai.com/yogo/0035.htm)。

野崎日記(141) 新しい金融秩序への期待(141) 大きな国家(10)

2009-04-23 06:57:19 | 野崎日記(新しい金融秩序への期待)
(13) クーン・レーブ商会(Kuhn Loeb & Co.)は、 一八六七年、アブラハム・クーン(Abraham Kuhn)とソロモン・レーブ(Salomon Loeb)によって創設された投資銀行である。その後、クーン家の娘イーダ(Ida Kuhn)とレーブ家のモリス(Morris Loeb)が結婚して一族となっている。 その娘であるテレサ(Teresa Loeb)と結婚したのが、ジェイコブ・ヘンリー・シフ(Jacob Henry Schiff)である。 ジェイコブ・ヘンリー・シフはドイツ・フランクフルトのゲットーでロスチャイルド家(Rothschild)と共に住んでいた歴史をもつ。また、日本政府が日英同盟を根拠にして日露戦争の日本公債をロンドンで販売したさい、当時世界最大の石油産出量を誇っていたカスピ海(Caspian Sea)のバクー油田Baku oil)の利権を持つロスチャイルド家は購入を拒否、その代わりロスチャイルド家と行動を共にするジェイコブ・ヘンリー・シフを紹介され、その力で日本は、戦費を調達できた。

 一九世紀末から二〇世紀にかけてジェイコブ・シフの下でJ・P・モルガン(J.P.Morgan & Co.)の最大のライバルとして金融界に君臨した名門である。一八七〇年代以降、クーン・レーブ商会は、成長産業と目されていた、当時の鉄道事業に積極的に投資。一八七七年のシカゴ・ノースウェスタン鉄道(Chicago and North Western Railway)への資金調達を皮切りに、一八八一年にはペンシルバニア鉄道(Pennsylvania Railroad)、シカゴ・ミルウォーキー・セント・ポール・アンド・パシフィック鉄道(Chicago, Milwaukee, St. Paul and Pacific Railroad)への資金調達をおこなった。シフは、一八九七年に、ユニオン・パシフィック鉄道(Union Pacific Railroad)の事業再建の資金調達を支援した。一九〇一年のモルガン財閥とのノーザン・パシフィック鉄道(Northern Pacific Railway)の買収攻勢防戦劇は当時の大きな話題となった。クーン・レーブ紹介は、鉄道債の取引において、米国では第二位の地位を確保し続けた。とくに鉄道王のE・H・ハリマン(Edward Henry Harriman)が優良顧客であった。経営陣にはオットー・カーン(Otto Kahn)、フェリックス・ウォーバーグ(Felix Warburg)といった大物が一九二〇年のシフの死後も続いた。また、ウェスティングハウス(Westinghouse Electric Corporation)、ウェスタン・ユニオン(Western Union)、ポラロイド(Polaroid Corporation)など、米国の新興企業と密接な関わりを持ち、長期の財政的な後ろ盾となった。またオーストリア、フィンランド、メキシコ、ベネズエラなど一部の外国政府の財政アドバイザーも務めた。ジョン・ロックフェラー(John Davison Rockefeller, Sr)へのメインバンク・財政アドバイザーとしても有名で、国内の主要産業への投資のみならず、クーン・レーブは、中華民国や大日本帝国などの公債引き受け等にも参画していた。一九一一年にはクーン・レーブはロックフェラーと共同で、後にチェース銀行(the Chase Manhattan Bank)と合併するエクイタブル・トラスト社(Equitable Trust )を買収した。

 一時はモルガン財閥と並立する存在になったが、第二次世界大戦後、資金調達の方法が銀行家同士のやりとりから、ウォール街などでの証券市場での取引が中心となって、クーン・レーブの勢いに翳りが見え始め、一九七七年にリーマン・ブラザーズに統合された(http://blog.goo.ne.jp/motoyama_2006/e/a7a67f1ee50a825c9d4eb2f4c3168047)。

(14) ジェイコブ・ヘンリー・シフ(1847~1920)は、ドイツ生まれ。ドイツ名は、ヤーコプ・ヒルシュ・シフ(Jacob Hirsch Schiff)。フランクフルトの旧いユダヤ教徒の家庭に生まれる。代々ラビの家系で、初代マイアー・アムシェル・ロスチャイルド(Mayer Amschel Rothschild, 1744~1812)時代に緑の盾と呼ばれる建物にロスチャイルド家とともに住んでいたことが確認できる。

 一八六五年、一八歳で渡米し、いくつかの銀行を転々とした後、レーブ家の親族となる。当時「西半球でもっとも影響力のある二つの国際銀行家の一つ」と謳われたクーン・レーブの頭取に就任。シフはユダヤ人社会への強い絆を感じ続けた。ロシアでポグロム(pogrom、反ユダヤ主義)に苦しむユダヤ人を解放するために尽力し、ヘブライ・ユニオン・カレッジ(Hebrew Union College)の創立と発展を助け、ニューヨーク公共図書館(the New York Public Library)にユダヤ区画を作った。

 日露戦争にさいしては、日銀副総裁であった高橋是清による外債募集に応じ、二億ドルの融資を通じて日本を強力に資金援助し、帝政ロシアを崩壊に導いた。その訳はロシアの伝統的なポグロムに対する報復だったといわれている。日本は、国家予算の六倍以上の戦費を注ぎ込み、継戦不可能というギリギリで掴んだ戦勝。その戦費の約四割を調達したのがシフであった。

 日露戦争のときの日本国家予算も外貨準備高も、ロシアの十分の一以下だった。まさに巨人と小人の戦いだった。

 アルゼンチンが発注して、イタリアのジェノア(Genoa)の造船所で建造中だった二隻の装甲巡洋艦を、日本は、日露戦争(一九〇四年二月八日開戦)の前年一二月三〇日に、アルゼンチンから一五〇万ポンド(商社口銭込み価格一五三万ポンド)で購入した。このとき、日本政府の外貨資金を扱う正金銀行ロンドン支店には一五万ポンドしかなかった。この年の日本国家予算が二億六〇〇〇万円、海軍省予算が二九〇〇万円、巡洋艦二隻一五三万ポンドは当時の日本円で一五〇〇万円以上。「春日」「日進」と命名されて軍艦旗を掲げて日本へ出向した。日露開戦の前年一二月には、日本銀行には一億六七九六万円しかなかった。開戦三か月後の翌五月には、六七四四万円にまで落ち込んだ。国債の売り込みに、一〇〇〇万ポンド調達の任務を帯びて高橋是清が米英を走り回ったが、引き受け手は誰もなかった。日英条約締結(二年前)していたロンドンで、ようやく半分の五〇〇万ポンドの約束を取り付けた(英国銀行団)。締結の晩餐会に臨席したヤコブ・ヘンリー・シフが、残りの五〇〇万ポンドを引き受けてたのである。リーマン・ブラザースも、日露戦中に、シフの呼びかけに応じて、日本の国債を購入している。シフのこの時の滞日日記が出版されている(トケイヤー[2006])。

 シフは天皇から直ちに、勲二等瑞宝章を授与された。その後、戦勝祝いにシフは招かれ、陪食前に明治天皇から旭日大綬章を叙勲された(トケイヤー[2006]; 田畑則重[2005])。

 シフの帝政ロシア(The Russian Empire)打倒工作は徹底しており、第一次世界大戦の前後を通じて世界のほとんどの国々に融資を拡大したにもかかわらず、帝政ロシアへの資金提供は妨害した。一九一七年にレーニン(Vladimir Lenin, 1870~1924)、トロツキー(Lev Davidovich Trotsky, 1879~1940)に対してそれぞれ二〇〇〇万ドルの資金を提供してロシア革命を支援した。同年にツァーリ(Tsar)が倒れると、これで反ユダヤ主義が終息すると信じたシフはケレンスキー(Aleksandr Fyodorovich Kerenskii, 1881~1970)政権に対して期待を寄せたが、やがてケレンスキーやレーニンの考えていることが明らかになると、以後、「彼らには何も貸すまいと決心するようになった」といわれる。

 しかし、経営者一族がシフの縁戚となっていたファースト・ナショナル銀行ニューヨーク(First National bank of New York)は、ロックフェラーのチェース・マンハッタン銀行(Chase Manhattan Bank )、ユダヤ系のJ・P・モルガンと協調して、ソビエト(the Union of Soviet Socialist Republics=USSR)に対する融資を継続していた。

 政治的・世俗的なシオニズム(Zionism)には反対だったが、ユダヤ人のパレスチナ(Palestina)入植には多額の寄付をおこない、ハイファ工科大学(Haifa Institute of Technology))の設立をも援助した(Wikipediaより)。

(15) FFレート(金利)は、フェデラル・ファンド金利と訳されている。フェデラル・ファンド金利は、米国の代表的な短期金利。FF金利は、フェデラル・ファンドを民間銀行同士で貸し借りする時の利率で、米国の金融政策の誘導目標金利。FF金利は、FRBの連邦公開市場委員会(Federal Open Market Committee from the Federal Reserve Board.=FOMC)で決定する。また、フェデラル・ファンドは、米国の民間銀行が連邦準備銀行に預けている準備預金のこと。通常、フェデラル・ファンド(準備預金)は無利息なので、民間銀行は、超過残高分(法定準備預金と決済用準備金を超えて預けられている額)を他行に貸し付けて運用している。この時のレートがFF金利。二〇〇八年一〇月の金融安定化法案の成立により、フェデラル・ファンドのうち、法定準備預金と超過残高分に関して、それぞれ金利を付与することを決めた( http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%EF%BC%A6%EF%BC%AF%EF%BC%AD%EF%BC%A3&lr=&aq=f&oq=)。

(20) サムライ債とは、海外の企業が日本国内で円建てで発行する債権のことを指す。一九七〇年にアジア開発銀行が六〇億円の債権を発行したのが日本初のサムライ債。当初は国や州などの公的なものが中心であったが、その後、様々な発行主体や形態のサムライ債が登場するようになった。日本ではずっと金利の低い状態が続き、海外の発行体にとっては低金利で資金調達をすることができるのが魅力となっていた。また、日本国内の個人投資家も預金金利の低下を背景に資産運用の手段としてサムライに傾斜した。

 サムライ債は途上国が発行体となっている場合も多く、そのようなケースでは利回りも高いが、リスクも高くなる。二〇〇一には、経済危機の際にアルゼンチン債がデフォルト(債務不履行)になった。類語としては、海外の企業が日本国内で外貨建てで発行するショーグン債がある(http://m-words.jp/w/E382B5E383A0E383A9E382A4E582B5.html)。

 リーマン・ブラザースがサブプライムローン損失で経営不安に陥り、同社の株価が二〇〇八年九月九日に四五%急落したとき、米国のシティグループは 日本の個人投資家向けに三一五〇億円のサムライ債(期間三年、利回り年三・二二%固定金利)を売出した。シティーグループの格付けは、当時まだAAマイナス(S&Pによる)と信用度が高く、三年以内(償還前)に債券を売却しない限り 為替変動の影響を受けずに、元本と利息が確保されるので、日本の投資家が競って買い、翌日の一〇日には、完売した。定期預金は安全だがインフレヘッジできない。株や外貨預金や外債はリスクが高い。このように考える人が多い中で、運用先に悩む日本の個人投資家が殺到した。しかし、この市場も急速に萎んでしまった(http://hakuzou.at.webry.info/200809/article_6.html)。

野崎日記(140) 新しい金融秩序への期待(140) 大きな国家(9)

2009-04-22 06:53:48 | 野崎日記(新しい金融秩序への期待)
(12) ドイツからの移民、ヘンリー・リーマン(Henry Lehman)が、一八四四年、アラバマ州(Alabama)モンゴメリー(Montgomery)市に小さな雑貨店(general store)を開く。六年後の一八五〇年、二人の兄弟、エマヌエル(Emanuel)、マイヤー(Mayer) が経営に加わり、商店の名前もリーマン・ブラザーズ(Lehman Brothers)に変えた。

 当時、米国の南部では、棉花が通貨として流通していた。レーマン商店も、農夫に商品を棉花対価に売っていた。そして、次第に棉花取引に彼らは傾斜していった。一八五八年、当時、商品取引の中心地であったニューヨークに事務所を構えた。南北戦争によって、彼らのビジネスが中断したが、終戦後、彼らは本拠をニューヨークに移した。そこで、「棉花取引所」(the Cotton Exchange)設立に寄与した。

 南北戦争後は、一大鉄道建設ブームが到来した。後にリーマンのビジネス・パートナーになるクーン・レーブ(Kuhn Loeb)が鉄道債の引き受けをおこなっていた。

 リーマンも鉄道債の取引に乗り出した。一九世紀後半には、マーチャント・バンクに衣替えしていた。一八八七年、ニューヨーク証券取引所に上場。クーン・レーブのジェイコブ・シフ(Jacob Schiff)に促されて、リーマンもヨーロッパと日本での投資銀行業務に乗り出した。二〇世紀に入るや、シアーズ・ローバック(Sears, Roebuck & Company)、ウールワース(F.W. Woolworth Company)、メイ・デパート(May Department Stores Company)、ジンベル(Gimbel Brothers, Inc.)、マシィ(R.H. Macy & Company)などの新興企業の社債を積極的に引き受けるようになる。一九二〇年代には映画、小売り、航空、等々の分野を積極的に支援。RKO、パラマウント(Paramount)、二〇世紀フォックス(20th Century Fox)、等々の映画会社を育てた。

 一九二九年投資会社、リーマン・コーポレーション(Lehman Corporation)を設立して、優良銘柄株(ブルー・チップ)を個人投資家に積極的に勧める業務に傾斜し、恐慌を乗り切った。一九三〇年代はラジオに傾斜。米国初のテレビ受像器制作会社のデュモン(DuMon)の株式公開、RCA(the Radio Corporation of America)を支援した。三〇年代は資源採掘会社を支援、顧客にはハリバートン(Halliburton)、ケール・マッギー(Kerr-McGee)がいた。第二次大戦後は、一大消費ブームと自動車ブームに乗る。一九五〇年代にはエレクトロニクス産業を育てる。コンピュータのデジタル・エクィップメント(Digital Equipment)を育て、コンパック(Compaq)に買収させる。さらに、フォード(Ford Motor Company)、TWA、アメリカン航空(American Airlines)、コンチネンタル航空(Continental Airlines)の株式を上場させる。ジェネラル・フーズ(General Foods)、フィリップ・モリス(Philip Morris)も有力な顧客であった。

 顧客の海外進出に応じるべく、一九六〇年、パリに支店開設。一九六九年、ロバート(Robert)・リーマン死去後、経営にリーマン一族が関わらなくなった。一九七二年、ロンドン支店、七三年東京支店開設。

 一九七七年CEO、のピート・ピーターソン(Pete Peterson)の下でクーン・レーブと合併し、リーマン・ブラザーズ・クーン・レーブ(Lehman Brothers Kuhn Loeb Inc.)となる。しかし、この会社は投資バンカー(Investment Banker)とトレーダー(Trader)との角逐が深刻になり、ピーターソンは、トレーダーのキャップのルイス・グラックマン(Lewis Gluckman)を一九八三年五月に共同CEOとして遇するが、結局はピーターソンが追い出され、グラックマンが実権を握る。このグラックマンがCEOの時の一九八四年に、三・六億ドルでアメリカン・エクスプレス(Ameican Express)に買収されてしまう。名称も、シェアソン・リーマン・アメリカン・エクスプレス」(Sheason Lehman American Express)になる。名門中の名門であるクーン・レーブ商会の名がここに消えた。そして一九八八年、この会社とE・F・ハットン(Hutton)が合併して シェアソン・リーマン・ハットン(Sheason Lehman Hutton Inc.)になる。そして、一九九三年、アメックスが手放し、再度、リーマン単独の名前に復帰する。

 一九九四年、テルアビブ(Tel Aviv)支店開設。一九九五年、年間最優秀社債取り扱い機関として称揚される("Global Bond House of the Year" by International Finance Review)。

 一九九九年、三菱東京銀行(Bank of Tokyo-Mitsubishi)と提携。この年、年間収益が一〇億ドルを超す。二〇〇〇年創業一五〇周年。二〇〇二年、KKRのために、ヨーロッパ史上で最大のM&Aを実現させる。二〇〇二年、リンカーン・キャピタル(Lincoln Capital Management)買収。二〇〇三年ノピベルガー・ベルマン(Neuberger Berman)、クロスロード・グループ(the Crossroads Group)買収。シンギュラー・ワイアレス(Cingular Wireless)によるAT&Tワイアレス(AT&T Wireless Services)買収、スプリント(Sprint)によるネクステル・コミュニケーション(Nextel Communications)買収に関与。二〇〇五年、同社史上最高の収益を達成。それとともに、スタンダード&プアーズ社(Standard & Poor's)が長期シニア社債をAからAプラスに引き上げた。資産も史上最高の一七五〇億ドルになった。

 『ユーロマネー』(Euromoney)が、二〇〇五年の「最高の投資銀行」(Best Investment Bank)の 栄誉を同社に与えた(2005 Awards for Excellence)。二〇〇六年も最高益であった。株式取扱高でロンドンで第一位になった。二〇〇七年、『フォーチュン』誌によって、「賞賛される最高の証券会社」として誉められた(#1 "Most Admired Securities Firm" by Fortune)(本社ホームページ、および、http://blog.goo.ne.jp/motoyama_2006/e/a7a67f1ee50a825c9d4eb2f4c3168047)。

 数々の褒賞、空前の高収益、最優秀の投資銀行が、線香花火のごとく消え去った。公表される統計のいい加減さ、第三者評価の頼りなさをリーマン・ブラザーズの倒産劇は遺憾なく現している。

野崎日記(139) 新しい金融秩序への期待(139) 大きな国家(8)

2009-04-21 07:00:42 | 野崎日記(新しい金融秩序への期待)
(3) 一八〇一年、米国屈指の老舗新聞。一九三三年からタブロイド版になった。一九七六年、マードックのニューズ・コーポレーション(News Corporation)によって買収された。しかし、マードックがテレビのフォックス買収に乗り出したことから、新聞と放送の兼営を制限する米国のメディア規制にひっかかり、一九八八年、マードックはこの新聞を一度は手放した。しかし、一九九三年、買い戻す。当時のニューヨーク州知事で、民主党員のマリオ・クオモ(Mario Matthew Cuomo)の請願もあって、マードックがメディア規制の例外扱いを受けるようになったからである。この新聞は、派手な見出しを売り物の保守的イデオロギーで彩られた編集方針である(Wikipediaより)。

(4) ブルームバーグの両親はポーランド(Republic of Poland)からのユダヤ(Ashkenazim)系移民。ソロモン・ブラザーズ(Salmon Brothers)証券の共同経営者を経て、一九八一年、企業に金融情報を売る通信会社、ブルームバーグ(Bloomberg)を創設。二〇〇一年、同じ共和党員(Republican)のジュリアーニ(Rudolph William Louis "Rudy" Giuliani III)の後を次いでニューヨーク市長。選挙戦費用はすべて私財。市長歳費をすべて返上、年間一ドルのみ報酬として受け取る。共和党員であるのに、中絶容認、同性婚容認、銃規制強化を容認するリベラルな面をもつ。自伝にBloomberg[1997}がある(Wikipediaより)。

(5) "Bloomy Fears National-Debt Crisis," New York Post, September 18, 2008.

(6) GSE(Government-Sponsored Enterprise)とは、政府系住宅金融会社など、政府が支援する企業の総称である。厳密には、政府機関ではなく民間企業である。しかし、政府の管理下に置かれているので、そう呼ばれている。

(7) ファニーメイの正式名称は、FNMA(Federal National Mortgage Association)。民間金融機関から住宅ローン債権を買い取り、それを元にしてパススルー証券(Pass-through Securities)を発行する。パススルー証券とは、担保の種類、金利、償還期限などが似ている複数の債権をまとめて証券化したものである。ファニー・メイは、このパススルー証券を裏付けとした不動産担保証券(モーゲージ証券)の発行もおこなっている。一九三八年に創設されたときには、政府系金融機関であったが、一九六八年に民営化され、一九七〇年に株式をニューヨーク証券取引所(NYSE=New York Stock Exchange)に上場した(http://www.nomura.co.jp/terms/english/f/fannie_mae.html)。

(8) フレディマックの正式名称は、FHLMC(Federal Home Loan Mortgage Corporation)。ファニーメイがモーゲージ市場で十分にカバーできなかった部分に資金供給するために一九七〇年に設立された。ファニーメイもフレディマックも、連邦議会によって設立され、住宅都市開発庁(HUD=Department of Urban and Housing Development)と連邦住宅公社監督局の(OFHEO=Office of Federal Housing Enterprise Oversight)という二つの監督官庁の管理下にある。定款は連邦議会の承認を必要とする点で純然たる民間会社ではない。監督を受けているにもかかわらず、政府からの出資を受けていなかった。ニューヨーク証券取引所に上場している。発行証券は政府債に次ぐ信用を得ている(http://www.nomura.co.jp/terms/english/f/fhlmc.html)。住宅関連の政府金融機関として、ジニーメイ(Ginnie Mae)というのもある。正式名称は連邦政府抵当金庫(GNMA=Government National Mortgage Association)。住宅都市開発庁の下で、全額政府出資で設立された金融機関。ジニーメイは、債権を保有せず、モーゲージ証券を組成しているローンの債務者が元利金支払いを滞納した場合に、元利金の支払いを保証する役割を担う(http://www.nomura.co.jp/terms/english/g/gnma.html)。

(9) 債権を直接移転することなく、信用リスクのみを移転するデリバティブ(本体に関連するが本体そのものではないもの)取引がCDS取引である。CDS取引ではプロテクション(保証される権利、protection)を売買する。保有債権の信用リスクを回避したい場合、CDS取引ではプロテクションを買う。プロテクションの買い手は、プロテクションの売り手に対して対価を払う。これをプレミアム(premium)という。プレミアムは通例四半期ごとに支払い、契約元本金額の年率で値決めする。通例、年率一二bp(ベーシスポイント)である。ベーシスポイントとは一〇〇分の一%の大きさである。

(10) ベアスターンズ救済策とは、次のようなものであった。米商業銀行大手のJ・P・モルガン・チェース(JP Morgan Chase)が公定歩合の利率で、連銀から借り入れ、その資金を二八日間の期限付きでベアに迂回融資する。J・P・モルガンが仲介するのは、証券会社が公定歩合を直接利用できないためであった。ベアはサブプライム関連の金融商品で巨額損失を計上。金融市場で貸し渋りの動きが強まり、資金繰りが急激に悪化した。また、融資先の投資ファンド会社の経営破綻観測で信用不安に拍車がかかった。シュワルツ(Alan Schwartz)最高経営責任者(CEO)は二〇〇八年三月一四日の電話会見で「一三日に大量の資金流出があった」と述べ、取り付け騒ぎが起きたことを明らかにした。

 米紙『ウォールストリート・ジャーナル』(電子版、Wall Street Journal)によると、二〇〇八年三月一四日早朝、NY連銀(the Federal Reserve Bank of New York)のガイトナー総裁(President, Timothy F. Geithner)、バーナンキ(Ben Shalom Bernanke)FRB議長(Chairman)、ポールソン(Henry Merritt Paulson)財務長官が、緊急電話会議を開催。同社に対する異例の救済策を決定し、財務長官がブッシュ大統領に報告したという(http://sankei.jp.msn.com/economy/finance/080315/fnc0803152042008-n1.htm)。

(11) MMF(Money Market Fund)とは、公社債などの優良債券を中心に投資する投資信託の一種。政府発行の短期証券などに投資して、元本の安全を確保しながら安定した利回りを得られるような運用をおこない、即日の購入・解約が可能となっている。一九七一年、それまで銀行の預金しか利用してこなかった客を証券会社に呼び寄せるべく、米国のブルース・ベント(Bruce Bent)、ハリー・ブラウン(Harry Brown)の二人が設立した「ザ・リザーブ」(the Reserve)がその創始である。従来、公社債などの債券は購入単位が大きく、小口の個人投資家には手が出せない商品であったが、このような投資信託が生まれたことで、それらへの間接投資が可能になった。一九七三年のオイルショックでインフレーションが起こり、銀行預金の実質的価値が目減りしたことや、CMA(証券総合口座、Cash Management Account)の設定により、MMFで運用した資金をそのまま株式などの購入に当てられるようになったこと、小切手の振出しができ当座預金の機能を有するようになったことも、MMFへの大量資金流入の要因となった。銀行側ではこの動きに応じ、それまで規制がかけられていた預金利率の撤廃を一九八〇年代に実現させ、MMC(市場金利連動型預金、Money Market Certificate)を作って対抗した(Wikipediaより)。

野崎日記(138) 新しい金融秩序への期待(138) 大きな国家(7)

2009-04-20 07:09:23 | 野崎日記(新しい金融秩序への期待)

  おわりに

 世界が戦後最大の不況に苦しんでいる。金融危機が世界経済の危機に拡大している。米サプライ管理協会(the Institute for Supply Management=ISM)が二〇〇八年一〇月一日に発表した九月の製造業景況調査では、製造業の活動が二〇〇一年以来の低水準に落ち込んだことが示された。

 FRBが発表した〇八年一〇月一日までの一週間におけるCP市場の残高は、前週比九四九億ドル減少し一兆六〇七〇億ドルとなった。二〇〇一年にFRBが統計を開始して以降では、最大の落ち込みだった。

 一方、上院を通過した修正金融安定化法案(Emergency Economic Stabilization Act of 2008)は、〇八年一〇月三日に下院で再採決された。しかし、この救済策を講じても、米政府が金融機関から不良資産を買い取るまでには時間がかかる。すでに、七〇〇〇億ドルの不良資産処理計画が、特効薬にはならないことがはっきりしてきたのである。恐慌がくるのが先か、システム改革が間に合うのか。間に合わないだろう思われる(http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/media/djCKK4824.htmlを参照した)。

 

(1) ハミルトン(1755~1804)は、一七八七年のフィラデルフィア憲法起草会議の発案者で、米国憲法の起草者(同年九月)。米国初代財務長官(1789~1795)、バンク・オブ・ニューヨーク(Bank of New York)の創業者。米一〇ドル紙幣の肖像画。一八〇四年、決闘により、四九歳で死去。米国建国の父たちが入植者で成功した名門の出自であったのに対して、ハミルトンは誇るべき家柄の出自でなかった。このハンディもあって、彼は政治家としては、恵まれた環境にはなかった(Wikipediaより)。

 このハミルトンの名を冠したプロジェクトが、二〇〇九年一月二〇日に発足した米オバマ(Barack Obama)政権の基本形を提供している。

 ワシントンのブルッキングス研究所(the Brookings Institution)が、二〇〇六年四月にブッシュ政権の経済政策に挑戦する「ハミルトン・プロジェクト」(Hamilton Project)を発表した。このプロジェクトは、ハーバード大学(Harvard University)やプリンストン大学(Princeton University)を主席で卒業した実務者を始め産官学の約三〇人のメンバーからなり、実践向きに政策を設計するものである。発足式には、当時ブルッキングス研究所に在籍し、オバマ新政権の行政管理予算局(OMB=Office of Management and Budget)長官 (Director)に就任することになったピーター・オーザック(Peter Orszag)の司会により、ロバート・ルービン(Robert Rubin)元財務長官(United States Secretary of the Treasury)とオバマが基調講演をおこなった。この時点で、米国の民主党系エリートたちは、次期大統領にオバマを担ぎ出していたのである。

 ブッシュ政権の経済戦略と違う、中間層や弱者への教育や勤労の機会の増大を通じた米国の経済成長戦略が訴えられた。同時に、無益な世界への干渉をできるかぎり排除し、国内に投資することにより米国を活性化させる政策が主張された。ハミルトンの名を冠したのは、伝統的な米国の価値観を代弁する人物になぞらえたからであろう。

 プロジェクトは、三つの柱からなる。①大多数の国民が経済成長の恩恵を受けることができる経済政策の遂行。一九四七~七三年の中間層の年間平均の所得上昇は、二・八%であったのに、七三年以降、生産成長率が二・七%あったにもかかわらず中間層の年間平均所得の上昇は一%であった。高額所得層に不均衡に分配されるシステムを是正することが必要。②経済保障と経済成長の両立。経済成長は経済保障を増大させると同時に、経済保障は、経済成長を実現させために必要である。教育、健康保険、トレーニング等への適度な財政支援。③効率的な政府。市場経済は経済成長の礎であるが、民間セクターの投資が拡充されない分野への政府の効率的な投資をおこなう。

 以上の三つの基軸に加えて、さらに、四つの具体的な基軸を打ち出していた。①教育分野への投資と仕事の機会の提供。米国経済の成長は、人的資源に依存している。米政府の試算によると、米国の民間の建物等の資産は一三兆ドルであるが、人的資源は四八兆ドルとなる。幅広い層へ教育の機会が提供されることにより競争力のある分野への潜在的な労働力を生み出す。②イノベーションとインフラ整備。科学技術の発展を目指すインフラ整備は、経済発展の機軸である。スイスの研究機関(IMD International)の発表によると、世界のトップ五〇の科学技術研究機関のうち、三八が米国の研究機関が占めている。しかし、米国の科学技術の影響力が低下傾向にある。四年以内に、中国人のエンジニアの博士の人数が米国を追い抜くと予測されている。科学技術の分野への本格的な投資・社会資本整備が必要である。③貯蓄と社会保険。米国の貯蓄率は急激に低下している。その一因は、健康保険のコストが影響している。④効率的な政府。民間経済と効率的な政府の相互補完的な統合的な協調が経済成長を維持させる。米国はグローバル経済の指導者として様々な挑戦を受けている。次世代に向けた幅広い層が経済成長の恩恵を享受できる先行投資が期待されている(中野有、http://www.yorozubp.com/0604/060423.htm)。

(2) 一九三一年、オーストラリア(Commonwealth of Australia)のメルボルン(メルバン、Melbourne)に生まれる。一九六四年オーストラリア初の全国紙『ジ・オ-ストラリア』(the Austrarian)創刊。六九年ロンドンの『ザ・サン』(the Sun)買収。一九七五年、それまでの労働党(the Australian Labor Party)支持から自由党(the Liberal Party of Australia)、英国の保守党(the Conservative Party)支持に転向。七六年、『ニューヨーク・ポスト』(the New York Post)、八一年、英国の『ザ・タイムズ』(the Times)、八四年二〇世紀フォックス(20th Century Fox)、八五年、メトロメディア(Metromedia)買収。八五年九月四日米国に帰化。八六年フォックス(FOX)設立。九六年日本でJスカイB設立。九八年、スカイパーフェクト(Sky Perfect)TV設立。二〇〇七年、『ウォール・ストリート・ジャーナル』(the Wall Street Jornal)買収。その他の主要傘下企業は以下の通り。ハーパー・コリンズ(Harper Collins)(出版)、BスカイB(B sky B、英国衛星放送)、フォックステル(Foxtel、オーストラリア衛星放送)、スカイ・イタリア(Sky Italia、イタリア衛星放送)、スター(Satellite Television for Asia Region、アジア全域衛星放送)、タータ・スカイ(Tata Sky、インド衛星放送)(Wikipediaより)。