消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.199 ナチ科学者争奪戦その1

2007-12-16 13:28:52 | コンスピラシィ
 この稿は、http://www.murderingainesville.com/mig/usintelligence/index.htmlの記述に依拠している。ただし、まだ、記述の真偽を確かめられないでいる。それでも、そういうこともあったのだろうなという思いで、参考のために書いてみた。

  やはり、私は陰謀史観の持ち主ではないかとの揶揄を受けることを覚悟して、「コンスピラシィ」(陰謀)コーナーを設けることにした。

 第二次世界大戦前の米国の諜報組織は、タコ足的に分散していた。例えば、米国陸軍は、一個大隊(Battalion)ごとにS2と呼ばれる諜報機関をもっていた。その情報に基づいて作戦(Operation)を構築するS3があった。各大隊のS2の統括をするのが、G-2であった。

 大隊の下部組織である各部隊もそれぞれ諜報スタッフを抱えていた。兵器装備担当部隊などはその典型である。これら部隊は、敵の装備の情報を得ることも大きな任務の一つであった。

 海軍も、海軍情報局(Office of Naval Intelligence)をもっていた。
 国家レベルでは、国務省(the department of State)と「対敵諜報機関」(the Counter-Intelligence Corps=CIC)が諜報活動を行っていた。

 しかし、第二次世界大戦前の諜報組織は分散されすぎて、情報のダブりがあるばかりか、総合的な判断を得にくいという難点があった。

 情報を総合化し、全体の分析を行うために、すべての情報が一点に集まるシステム作りが、第二次世界大戦に入る米国にとって、焦眉の課題になった。

 この問題に当たるべく、ローズベルト(Roosevelt)大統領は、ニューヨークの弁護士で、荒くれビル(Wild Bill)というニックネームを付けられていた、ウィリアム・ドノバン(William Donovan)を抜擢して、統合的な諜報機関設立を託した。この諜報機関設立準備組織が、CIAの前身であると誤って言われているあの「戦略任務局」(the Office of Strategic Services=OSS)である。

 新たな政府組織を作るときには、往々にして官僚の「縄張り争い」(turf fight)の標的にされるものである。OSSもあらゆる政府組織から攻撃された。とくに、J・エドガー・フーバー(Edgar Hoover)率いるFBIからの攻撃がもっとも強烈であった。しかし、ローズベルトは、ドノバンを強力に擁護したという。

 ドノバンは、慣例をまったく意に介しなかった。彼は、エリート大学卒を好んで新組織に採用した。その上で、彼らに自分への絶対服従を誓わせた。組織の長が、国家全体の利益を考えて行動している限り、たとえ、それが法や憲法に違反していても、長の指令に従うべきだとドノバンは、新人たちに訓辞していたという。理屈を言わずに従え(='reason-is-treason')というドノバンの方針は、ドノバン追放後もいまなおCIAの哲学として残っている。

 ドノバンは、自身を頂点とする一元的支配網を作り上げた。官僚たちのドノバン批判に対して、ローズベルトは徹底的に彼をかばい続けた。情報の集中という点で、彼は、かなり大きな成果を挙げた。

 OSSは、市民をも動員した。例えば、ヨーロッパの情報担当は、海軍のウィリアム・ケーシー(William Casey)が担っていたが、ケーシーは、時には、軍籍から離れて一市民として任務を遂行したほどである。ちなみに、このケーシーは、レーガン政権時代にCIA長官(一九八一~八七年)を勤め、タカ派として知られた人である。こうして、ドノバンは非常に短い期間に世界トップクラスの諜報機関、OSSを効率的に作り上げることに成功した。

 戦争という異常事態下では、ドノバンのこの行動も一定の意味はあっただろう。しかし、政府組織、軍隊組織は、平和になると、ドノバンにそっぽを向くようになった。官僚たちに完全に離反されて、戦後のOSSは、急速に機能不全に陥った。しかも、ローズベルトが、終戦を目前にした一九四五年に急逝した。情報システムの再構築が、次期大統領のトルーマン(Harry S. Truman)の課題になった。

 一九四六年一月二二日、トルーマンは、大統領令によってCIGを創設した。ドノバンは更迭された。

 国家情報局(the National Intelligence Authority=NIA)がCIGの監督機関にされた。NIAは、大統領補佐官、国務長官、戦争長官、海軍長官から構成されていたものである。

 一九四六年一月二三日、つまり、CIG創設の翌日、海軍情報局(Navy Intelligence)の局長で、沿岸警備隊少将(Rear Adm.)のシドニー・W・ソーズ(Sidney W. Souers)が、トルーマン大統領から初代CIG長官(the First Director of CentralIintelligence)に任命された。

 ソーズは、右腕として、海軍提督(Col.)ルイス・フォーティア(Lois Fortier)を指名した。フォーティアは、ソーズ大将の署名入りの「中央情報グループ最高機密指令第三号」(Central Intelligence Group(CIG)Top Secret Directive No.3)を出し、CIGを諜報機関の中枢に位置づけ、それまでの情報機関のすべてを洗い直すという方針を表明した。後のCIAは、CIGのGに替わってAを呼称名に入れたが、Cの「中央」とは、過去の情報機関をすべて統合するという意味である。

 CIGは、徹底的に隠密組織になることが至上命令になった。フォーティアは、疑い深いフーバーの機嫌をとって、この洗い直しにFBIの協力を求めた。ワシントンを本拠とする職員は、世間に目立たないように行動した。情報収集者に対して指令を出す場所も転々と変えた。フォーティア自身も表舞台には出なかった。要するに、すべてが隠密裡に運ばれてのである。このCIGがCIAの正しい意味での前身となった。

 一九四〇年代、CIGのこうした秘密裏の活動は公衆の目には明らかでなかった。しかし、一九五〇年代に入ると、例えば、フランシス・ガーリ・パワーズ(Francis Gary Powers)が操縦していたスパイ機、Uー2の墜落からメディアがCIAの活動を追うようになり、もはや、CIGの後継、CIAは、それまでの秘密行動をとりにくくなっていた。

 一九四六年三月二日、そのソーズが、ダン(Dun)商会経営者ベンジャミン・ダグラス(Benjamin Douglass)の孫である(http://www.familyorigins.com/users/k/i/n/Peter-Bryant-Kingman/FAMO1-0001/)、キングマン・ダグラス(Kingman)を副長官に指名したのである。彼は、後述のように、すぐに、特殊作戦局(Office of Special Operations)に移動させられるが(http://www.murderingainesville.com/mig/usintelligence/index.html)、一九五〇~五二年にはCIAの副長官を務めた("Lynn Matthews, a Copywriter, Is Wed," The New  York Times,  December 3, 1989)。

 ダン商会は、大恐慌後、ダン&ブラッドストリート(Dun & Bradstreet)となり、さらに、D&Bという会社名に変更して、世界最大の格付け会社(rating agency)ムーディーズ・インベスター・サービス(Moody's Invester Serveice)を参加にもつムーディーズ・コーポレーション(Moody's Corp.)を、一九九六年から二〇〇〇年にかけて支配したことがある。

福井日記 No.199 ナチ科学者争奪戦その2

2007-12-16 13:02:54 | コンスピラシィ

 話を転じる。第二次世界大戦終結に至る過程で、米ソは、戦争中に開発されたドイツの軍事技術を獲得する競争において鎬を削っていた。ドイツの科学者たちは、米国に協力することを説得されて、米国に連れてこられた。多くのドイツの科学者たちは、米軍の捕虜になって米国に連れてこられることを願っていたが、実際に彼らを米国に連れて帰る行為は、非合法の行為であった。なぜなら、当時、米国には、ナチ関係の人物の米国上陸を禁止する法律があったからである。

 そこで、戦争省(the War Depatment)と海軍省は、科学者たちに関してこれまで掴んでいた情報の書類を書き換えて、彼らをナチとの関わりが薄かったというものにした。こうして、法的には許されていまかったドイツの科学者たちを入国させたのである。国務省もそれに従った。

 米国が欲しかったのは、ドイツの核爆弾とロケットの技術であった。
 ソ連よりも先にドイツの原子物理学者たち、とくにベルナー・ハイゼンベルク(Werner Heisenberg)を連れてくるという作戦が「アルソス」(Alsos)作戦と名付けられた。アルソスとは、ギリシャ語で地球(grove)を意味するアルソの複数形である。つまり、グローブズ(guroves)である。これは、米国の原爆開発計画である「マンハッタン計画」(Manhattan Project、一九四二~四七年)の軍側の最高責任者であったレズリー・リチャード・グローブズ(Leslie Richard Groves)の名前をもじったものである。グローブズは、一八九六年生まれ、一九七〇年に没している。一九四四年時点では少将であった。

 それはともかく、ハイゼンベルクの尋問にによって、ドイツの核爆弾開発が米国の開発レベルより遅れていることが比較的早期に判明したために、照準はロケット技術の獲得に絞られた。

 ナチは、ロケット開発に膨大なエネルギーを注いでいた。とくに、V-1ロケット爆弾は、すごいうなり音をだすので、「ハチの音」(buzz)というニックネームで呼ばれていたが、羽をつけてロンドン上空にまで飛来し、そこで、目標に向かってエンジンを切り落として目標を焼き払うという代物であった。

 V-2というのもあった。これは非常に優れたものであった。移動式ミサイルで、最初は、ハーグ(Hague)の基地から打ち上げられた。一トン爆弾を搭載して、ロンドン、パリ、アントワープ(Antwerp)などを攻撃した。大戦中二五〇〇発ものV-2が発射された。ただし、V-2は、目標地点の着弾という面での正確さにおいて信用できないものであった。しかし、核弾頭を装備したミサイル開発のためにも、米国は、ドイツの技術を獲得したかったのである。少なくとも、ドイツのロケット技術は、米ソよりもはるかに進んでいた。

 敗戦直前の一九〇日間(一九四四年九月~一九四五年三月)で、ドイツは二九〇〇発ものVー2ミサイルを発射していた。つまり、一日に一五発、九六分に一発を発射していたのである。最後の発射は一九四五年三月一七日であったと、http://www.murderingainesville.com/mig/usintelligence/index.htmlは解説している。しかし、確証はない。いずれにせよ、ドイツのロケット技術を米ソが血眼になって獲得しようとしていたことは容易に想像できる。

 ドイツでは、ハインリッヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)の指揮下で、ベルンヘル・フォン・ブラウン(Wernher von Braun)が、ペーネムエンデ(Peenemuende)を基地として、ロケット開発計画の長を務めていた。ドイツの敗戦が濃厚になってくると、フォン・ブラウンは、弾道誘導の専門家、ヨハン・J・クライン(Johann J. Klein)などの優秀な配下の科学者たちを、ペーネムエンデ基地から連れ出し、オーストリアとの国境に近い保養地に連れて行った。そして、一九四五年五月二日、ベルンヘル・フォン・ブラウンの弟のマグナス(Magnus)を介して、フォン・ブラウンと配下の科学者たちは、米軍の第三機甲師団(the 3rd Armored Division)に投降した。

 科学者グループは、直ちにオーストリアにあるロイッテ(Reutte)の対敵諜報本部(Counter-Intelligence Corps)に護送され、最初の尋問が開始された。さらに、彼らは、ババリア(Bavaria)のガルミッシュ・パルテンキルヒェン(Garmisch-Partenkirchen)基地に移動させられ、そこでも一九四五年七月まで尋問を受けた。

 一九四五年七月から九月までのフォン・ブラウンの居所は不明である。彼が、いつ、ヨーロッパから米国に護送されたのかも不明である。ただ、ガルミッシュ・パルテンキルヒェンを引き揚げてから、彼は、アントワープ(Antwerp)ホルガー・N・トフトイ(Holger N. Toftoy)少将が統括していた基地に立ち寄り、そこに保管されていた接収品のミサイル部品の説明をさせられたことは判明している。ただし、ロケットそのものは、彼が立ち寄る前にニュー・オーリンズ(New Oreans)に輸送されていた。アントワープの後、フォン・ブラウンはロンドンに護送されて、そこでも尋問を受けたようである。

 トフトイが管理していたミサイル関連の部品は、トフトイが、ソ連軍の進駐のほんの数日前に、ペーネムエンデ基地から運び出したものである。彼は、フォン・ブラウンたちが洞穴に隠していたミサイル関係の膨大な資料を発見し、一九四五年五月二二日から六月一日の間に、貨車でアントワープにまで運んだのである。部品は、そこから、リバティ(Liberty)と呼ばれた輸送船一六隻で、ニュー・オーリンズ、さらに、そこからエルパソ(El Paso)に運ばれた。一九四五年七月から八月にかけてのことであった。エルパソは、テキサス州西端にあり、リオグランデ(Rio Grande)を望む都市である。リオグランデは、コロラド州南西部のサン・フアン(San Juan)山脈に発し、南東に流れてメキシコ湾に注ぐ河で、メキシコ名はリオブラボー(Rio Bravo)である。

 一九四五年九月一八日、フォン・ブラウンたちは、C五四輸送機で、デラウエア州(Delaware=DE)のウィルミントン(Wilmington)という小さな港町にあるニューキャッスル陸軍航空基地(Newcastle Army Air Base)に輸送され、そこから、ボストンのフォート・ストロング(Fort Strong)基地に輸送されて、そこでも、尋問を受けた。

 その後、エルパソの北方三五マイルにあるホワイト・サンズ実験場(the White Sands Proving Ground)に移送された。一九四五年一〇月一日、情報将校のジェームズ・P・ハミル(James P. Hamill)が、彼らの拘束状にサインした。

 ハミルは、フォン・ブラウンをワシントンに連れて行き、陸軍の上層部に引き合わせた。他の六人は、メリーランド(Maryland)のアバディーン実験場(Aberdeen Proving Grounds)に連れて行かれた。そこには、ペーネムエンデにあったミサイル関連の七トンもの書類が、移送されていたのである。科学者たちは、その整理を命じられた。

 一九四五年、一〇月三日、ハミルとフォン・ブラウンはエルパソに帰還し、フォン・ブラウンは、エルパソの北東にある軍事施設、フォート・ブリス(Fort Bliss)内にあるウィリアム・ボーモント陸軍病院(the William Beaumont Army Hospital)での数週間での療養を許可された。この基地で、ミサイル開発が行われたのである。一九四六年二月二三日時点で、一〇〇人を超えるドイツ人のロケット科学者たちがこの基地に集められていた。

 一九四五年一〇月頃、海軍の航空学部(Bureaus of Aeronautics)がホワイト・サンズでの開発に合流した。

 開発中に大きな事件が起こった。一九四六年五月二九日、ホワイト・サンズから発射されたミサイルが、予定の弾道を外れてメキシコ国内に落下してしまったのである。このとき、ドイツ人の技師たちは四発を発射していた。そして、最後の四発目がメキシコに飛び出してしまったのである。

 トルーマン大統領をはじめ、政府高官たちは狼狽し、ドワイト・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)将軍に事後処理を指令した。アイゼンハワーは、G2という陸軍の情報担当部のバンデンバーグ(Vandenberg)に処理を任せた。

 バンデンバーグは、当時、陸軍航空部隊(the Army Air Corps)の将校で、一九四七年に創設されるはずであった空軍の長官になりたがっていた。しかし、彼は陸軍のキャリアを捨てて、まだ海のものとも山のものとも分からぬCIGに移った。

 一九四六年七月一一日、ソーズがバーデンバーグによって辞任に追い込まれ、一九四六年八月、キングマン・ダグラスも、同じくバーデンバーグによってCIG副長官の地位を失い、CIG内の特殊作戦局に配置転換になった。バンデンバーグは、ソーズの右腕で、ミサイル作戦担当であったホーティアをも解雇した。

 こうして、CIG幹部は一掃されて、翌年、新たにCIAが発足することになったのである。