この稿は、http://www.murderingainesville.com/mig/usintelligence/index.htmlの記述に依拠している。ただし、まだ、記述の真偽を確かめられないでいる。それでも、そういうこともあったのだろうなという思いで、参考のために書いてみた。
やはり、私は陰謀史観の持ち主ではないかとの揶揄を受けることを覚悟して、「コンスピラシィ」(陰謀)コーナーを設けることにした。
第二次世界大戦前の米国の諜報組織は、タコ足的に分散していた。例えば、米国陸軍は、一個大隊(Battalion)ごとにS2と呼ばれる諜報機関をもっていた。その情報に基づいて作戦(Operation)を構築するS3があった。各大隊のS2の統括をするのが、G-2であった。
大隊の下部組織である各部隊もそれぞれ諜報スタッフを抱えていた。兵器装備担当部隊などはその典型である。これら部隊は、敵の装備の情報を得ることも大きな任務の一つであった。
海軍も、海軍情報局(Office of Naval Intelligence)をもっていた。
国家レベルでは、国務省(the department of State)と「対敵諜報機関」(the Counter-Intelligence Corps=CIC)が諜報活動を行っていた。
しかし、第二次世界大戦前の諜報組織は分散されすぎて、情報のダブりがあるばかりか、総合的な判断を得にくいという難点があった。
情報を総合化し、全体の分析を行うために、すべての情報が一点に集まるシステム作りが、第二次世界大戦に入る米国にとって、焦眉の課題になった。
この問題に当たるべく、ローズベルト(Roosevelt)大統領は、ニューヨークの弁護士で、荒くれビル(Wild Bill)というニックネームを付けられていた、ウィリアム・ドノバン(William Donovan)を抜擢して、統合的な諜報機関設立を託した。この諜報機関設立準備組織が、CIAの前身であると誤って言われているあの「戦略任務局」(the Office of Strategic Services=OSS)である。
新たな政府組織を作るときには、往々にして官僚の「縄張り争い」(turf fight)の標的にされるものである。OSSもあらゆる政府組織から攻撃された。とくに、J・エドガー・フーバー(Edgar Hoover)率いるFBIからの攻撃がもっとも強烈であった。しかし、ローズベルトは、ドノバンを強力に擁護したという。
ドノバンは、慣例をまったく意に介しなかった。彼は、エリート大学卒を好んで新組織に採用した。その上で、彼らに自分への絶対服従を誓わせた。組織の長が、国家全体の利益を考えて行動している限り、たとえ、それが法や憲法に違反していても、長の指令に従うべきだとドノバンは、新人たちに訓辞していたという。理屈を言わずに従え(='reason-is-treason')というドノバンの方針は、ドノバン追放後もいまなおCIAの哲学として残っている。
ドノバンは、自身を頂点とする一元的支配網を作り上げた。官僚たちのドノバン批判に対して、ローズベルトは徹底的に彼をかばい続けた。情報の集中という点で、彼は、かなり大きな成果を挙げた。
OSSは、市民をも動員した。例えば、ヨーロッパの情報担当は、海軍のウィリアム・ケーシー(William Casey)が担っていたが、ケーシーは、時には、軍籍から離れて一市民として任務を遂行したほどである。ちなみに、このケーシーは、レーガン政権時代にCIA長官(一九八一~八七年)を勤め、タカ派として知られた人である。こうして、ドノバンは非常に短い期間に世界トップクラスの諜報機関、OSSを効率的に作り上げることに成功した。
戦争という異常事態下では、ドノバンのこの行動も一定の意味はあっただろう。しかし、政府組織、軍隊組織は、平和になると、ドノバンにそっぽを向くようになった。官僚たちに完全に離反されて、戦後のOSSは、急速に機能不全に陥った。しかも、ローズベルトが、終戦を目前にした一九四五年に急逝した。情報システムの再構築が、次期大統領のトルーマン(Harry S. Truman)の課題になった。
一九四六年一月二二日、トルーマンは、大統領令によってCIGを創設した。ドノバンは更迭された。
国家情報局(the National Intelligence Authority=NIA)がCIGの監督機関にされた。NIAは、大統領補佐官、国務長官、戦争長官、海軍長官から構成されていたものである。
一九四六年一月二三日、つまり、CIG創設の翌日、海軍情報局(Navy Intelligence)の局長で、沿岸警備隊少将(Rear Adm.)のシドニー・W・ソーズ(Sidney W. Souers)が、トルーマン大統領から初代CIG長官(the First Director of CentralIintelligence)に任命された。
ソーズは、右腕として、海軍提督(Col.)ルイス・フォーティア(Lois Fortier)を指名した。フォーティアは、ソーズ大将の署名入りの「中央情報グループ最高機密指令第三号」(Central Intelligence Group(CIG)Top Secret Directive No.3)を出し、CIGを諜報機関の中枢に位置づけ、それまでの情報機関のすべてを洗い直すという方針を表明した。後のCIAは、CIGのGに替わってAを呼称名に入れたが、Cの「中央」とは、過去の情報機関をすべて統合するという意味である。
CIGは、徹底的に隠密組織になることが至上命令になった。フォーティアは、疑い深いフーバーの機嫌をとって、この洗い直しにFBIの協力を求めた。ワシントンを本拠とする職員は、世間に目立たないように行動した。情報収集者に対して指令を出す場所も転々と変えた。フォーティア自身も表舞台には出なかった。要するに、すべてが隠密裡に運ばれてのである。このCIGがCIAの正しい意味での前身となった。
一九四〇年代、CIGのこうした秘密裏の活動は公衆の目には明らかでなかった。しかし、一九五〇年代に入ると、例えば、フランシス・ガーリ・パワーズ(Francis Gary Powers)が操縦していたスパイ機、Uー2の墜落からメディアがCIAの活動を追うようになり、もはや、CIGの後継、CIAは、それまでの秘密行動をとりにくくなっていた。
一九四六年三月二日、そのソーズが、ダン(Dun)商会の経営者ベンジャミン・ダグラス(Benjamin Douglass)の孫である(http://www.familyorigins.com/users/k/i/n/Peter-Bryant-Kingman/FAMO1-0001/)、キングマン・ダグラス(Kingman)を副長官に指名したのである。彼は、後述のように、すぐに、特殊作戦局(Office of Special Operations)に移動させられるが(http://www.murderingainesville.com/mig/usintelligence/index.html)、一九五〇~五二年にはCIAの副長官を務めた("Lynn Matthews, a Copywriter, Is Wed," The New York Times, December 3, 1989)。
ダン商会は、大恐慌後、ダン&ブラッドストリート(Dun & Bradstreet)となり、さらに、D&Bという会社名に変更して、世界最大の格付け会社(rating agency)のムーディーズ・インベスター・サービス(Moody's Invester Serveice)を参加にもつムーディーズ・コーポレーション(Moody's Corp.)を、一九九六年から二〇〇〇年にかけて支配したことがある。
やはり、私は陰謀史観の持ち主ではないかとの揶揄を受けることを覚悟して、「コンスピラシィ」(陰謀)コーナーを設けることにした。
第二次世界大戦前の米国の諜報組織は、タコ足的に分散していた。例えば、米国陸軍は、一個大隊(Battalion)ごとにS2と呼ばれる諜報機関をもっていた。その情報に基づいて作戦(Operation)を構築するS3があった。各大隊のS2の統括をするのが、G-2であった。
大隊の下部組織である各部隊もそれぞれ諜報スタッフを抱えていた。兵器装備担当部隊などはその典型である。これら部隊は、敵の装備の情報を得ることも大きな任務の一つであった。
海軍も、海軍情報局(Office of Naval Intelligence)をもっていた。
国家レベルでは、国務省(the department of State)と「対敵諜報機関」(the Counter-Intelligence Corps=CIC)が諜報活動を行っていた。
しかし、第二次世界大戦前の諜報組織は分散されすぎて、情報のダブりがあるばかりか、総合的な判断を得にくいという難点があった。
情報を総合化し、全体の分析を行うために、すべての情報が一点に集まるシステム作りが、第二次世界大戦に入る米国にとって、焦眉の課題になった。
この問題に当たるべく、ローズベルト(Roosevelt)大統領は、ニューヨークの弁護士で、荒くれビル(Wild Bill)というニックネームを付けられていた、ウィリアム・ドノバン(William Donovan)を抜擢して、統合的な諜報機関設立を託した。この諜報機関設立準備組織が、CIAの前身であると誤って言われているあの「戦略任務局」(the Office of Strategic Services=OSS)である。
新たな政府組織を作るときには、往々にして官僚の「縄張り争い」(turf fight)の標的にされるものである。OSSもあらゆる政府組織から攻撃された。とくに、J・エドガー・フーバー(Edgar Hoover)率いるFBIからの攻撃がもっとも強烈であった。しかし、ローズベルトは、ドノバンを強力に擁護したという。
ドノバンは、慣例をまったく意に介しなかった。彼は、エリート大学卒を好んで新組織に採用した。その上で、彼らに自分への絶対服従を誓わせた。組織の長が、国家全体の利益を考えて行動している限り、たとえ、それが法や憲法に違反していても、長の指令に従うべきだとドノバンは、新人たちに訓辞していたという。理屈を言わずに従え(='reason-is-treason')というドノバンの方針は、ドノバン追放後もいまなおCIAの哲学として残っている。
ドノバンは、自身を頂点とする一元的支配網を作り上げた。官僚たちのドノバン批判に対して、ローズベルトは徹底的に彼をかばい続けた。情報の集中という点で、彼は、かなり大きな成果を挙げた。
OSSは、市民をも動員した。例えば、ヨーロッパの情報担当は、海軍のウィリアム・ケーシー(William Casey)が担っていたが、ケーシーは、時には、軍籍から離れて一市民として任務を遂行したほどである。ちなみに、このケーシーは、レーガン政権時代にCIA長官(一九八一~八七年)を勤め、タカ派として知られた人である。こうして、ドノバンは非常に短い期間に世界トップクラスの諜報機関、OSSを効率的に作り上げることに成功した。
戦争という異常事態下では、ドノバンのこの行動も一定の意味はあっただろう。しかし、政府組織、軍隊組織は、平和になると、ドノバンにそっぽを向くようになった。官僚たちに完全に離反されて、戦後のOSSは、急速に機能不全に陥った。しかも、ローズベルトが、終戦を目前にした一九四五年に急逝した。情報システムの再構築が、次期大統領のトルーマン(Harry S. Truman)の課題になった。
一九四六年一月二二日、トルーマンは、大統領令によってCIGを創設した。ドノバンは更迭された。
国家情報局(the National Intelligence Authority=NIA)がCIGの監督機関にされた。NIAは、大統領補佐官、国務長官、戦争長官、海軍長官から構成されていたものである。
一九四六年一月二三日、つまり、CIG創設の翌日、海軍情報局(Navy Intelligence)の局長で、沿岸警備隊少将(Rear Adm.)のシドニー・W・ソーズ(Sidney W. Souers)が、トルーマン大統領から初代CIG長官(the First Director of CentralIintelligence)に任命された。
ソーズは、右腕として、海軍提督(Col.)ルイス・フォーティア(Lois Fortier)を指名した。フォーティアは、ソーズ大将の署名入りの「中央情報グループ最高機密指令第三号」(Central Intelligence Group(CIG)Top Secret Directive No.3)を出し、CIGを諜報機関の中枢に位置づけ、それまでの情報機関のすべてを洗い直すという方針を表明した。後のCIAは、CIGのGに替わってAを呼称名に入れたが、Cの「中央」とは、過去の情報機関をすべて統合するという意味である。
CIGは、徹底的に隠密組織になることが至上命令になった。フォーティアは、疑い深いフーバーの機嫌をとって、この洗い直しにFBIの協力を求めた。ワシントンを本拠とする職員は、世間に目立たないように行動した。情報収集者に対して指令を出す場所も転々と変えた。フォーティア自身も表舞台には出なかった。要するに、すべてが隠密裡に運ばれてのである。このCIGがCIAの正しい意味での前身となった。
一九四〇年代、CIGのこうした秘密裏の活動は公衆の目には明らかでなかった。しかし、一九五〇年代に入ると、例えば、フランシス・ガーリ・パワーズ(Francis Gary Powers)が操縦していたスパイ機、Uー2の墜落からメディアがCIAの活動を追うようになり、もはや、CIGの後継、CIAは、それまでの秘密行動をとりにくくなっていた。
一九四六年三月二日、そのソーズが、ダン(Dun)商会の経営者ベンジャミン・ダグラス(Benjamin Douglass)の孫である(http://www.familyorigins.com/users/k/i/n/Peter-Bryant-Kingman/FAMO1-0001/)、キングマン・ダグラス(Kingman)を副長官に指名したのである。彼は、後述のように、すぐに、特殊作戦局(Office of Special Operations)に移動させられるが(http://www.murderingainesville.com/mig/usintelligence/index.html)、一九五〇~五二年にはCIAの副長官を務めた("Lynn Matthews, a Copywriter, Is Wed," The New York Times, December 3, 1989)。
ダン商会は、大恐慌後、ダン&ブラッドストリート(Dun & Bradstreet)となり、さらに、D&Bという会社名に変更して、世界最大の格付け会社(rating agency)のムーディーズ・インベスター・サービス(Moody's Invester Serveice)を参加にもつムーディーズ・コーポレーション(Moody's Corp.)を、一九九六年から二〇〇〇年にかけて支配したことがある。