消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(374) 韓国併合100年(52) 日英同盟(3)

2010-12-31 14:47:59 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 そして、ロシアの満州撤兵は嘘であったことが日本の新聞に暴露されるに至って、日本の世論は韓国併合に向かって一直線に進むことになったのである(「北清時談」、『日本』一九〇二年一一月二一日付。「露国の満州占領」、『万朝報』一九〇三年一月一三日付。片山[二〇〇三]、七九九ページ)。

 二 日露戦争の奇襲攻撃


 日露戦争開戦の一か月前、ロシア側の主戦派の一人と考えられていた政治家が戦争を回避しようと日露同盟案を準備しているとの情報を得ながら、日本政府が黙殺していたことを示す新史料を、和田春樹東大名誉教授が二〇〇九年一二月に発見した。日露戦争についてはこれまで、作家司馬遼太郎氏が小説『坂の上の雲』で展開された「追いつめられた日本の防衛戦」とする見方が日本では根強い。しかし、この新資料が正しけrば、これまでの通説は崩壊する。

 和田名誉教授は、サンクトペテルスブルク(St. Petersburg)の.ロシア国立歴史文書館(Russian State Historical Archive)で、ニコラス二世皇帝(Czar Nicholas II)から信頼されていた非公式貿易担当大臣の主戦派政治家ベゾブラーゾフ(Aleksandr Bezobrazov)の署名がある一九〇四年一月一〇日付の同盟案全文を発見。同盟案は「ロシアが遼東半島を越えて、朝鮮半島、中国深部に拡大することはまったく不必要であるばかりか、ロシアを弱化させるだけだろう」と分析、「ロシアと日本はそれぞれ満州と朝鮮に国策開発会社を作り、ロシアは満州、日本は朝鮮の天然資源を開発する」ことなどを提案する内容のものであった。

 ベゾブラーゾフが日露同盟案を準備していることを日本の駐露外交官の手で日本の外務大臣・小村寿太郎に打電された。一九〇四年一月一日のことであった。詳しい内容が、同月一三日、小村外相に伝えられた。日本の外務省は、その電文を駐韓公使館に参考情報として転電した。和田春樹は、この転送電文を、韓国国史編纂委員会刊行の「駐韓日本公使館記録」の中から見つけた。

 当時の小村寿太郎外相は日露同盟案の情報を得ながら、一月八日、桂太郎首相や陸海軍両大臣らと協議して開戦の方針を固め、同月一二の御前会議を経て、同年二月、ロシアに宣戦布告したのであると、共同ニュースは伝えた(共同、二〇〇九年一二月二日付。http://d.hatena.ne.jp/takashi1982/20091207/1260192623)。詳しくは、和田[二〇〇九]に収録されている。この文書の内容に沿ってロシアが動こうとしているとすれば、満州支配後にロシアが韓国領有に向かおうとしていたので、それを阻止すべく日本は韓国併合に出るしかなかったという司馬遼太郎的史観は崩壊するとの見方も出てきた(Japan Times, December 9, 2009)。

  しかし、開戦が近いことは、ロシア当局も十分承知していたであろうし、一片の電報で日本が開戦を思い止まるなどと思うほど、ロシアの軍部、政府は甘くはなかったはずである。資料発見は大きな成果だが、この電文程度で、日本政府も開戦を中止したとはとても思われぬことである。

 周知の史実であるが、少し、日露開戦前後のことを整理したおこう。

 日本政府内では小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋らの対露主戦派と、伊藤博文、井上馨ら戦争回避派とが対立していた。一九〇三年四月二一日、山縣の京都における別荘・無鄰庵で伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰菴会議」が開かれ、満洲については、ロシアの優越権を認めるが日本は韓国を確保すべく、日露開戦やむなしと述べたが(徳富編[一九三三]、五三九~五四一ページ)、実際には伊藤の慎重論が優勢であったと言われている
 一九〇三年八月から開始された日露交渉で、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案したが、ニコライ二世などの主戦派によってその提案は一蹴された。そして、一九〇四年二月六日、外務大臣・小村寿太郎が、ロシア公使に国交断絶を言い渡した。

 二月八日、旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まった。まだ、宣戦布告を日本側はしていなかった。日本艦隊は、同日夜、旅順港(Port Arthur)に停泊していたロシア艦隊の半数を拘束した。港外で哨戒の任に当たっていた二隻のロシアの駆逐艦が、日本の駆逐艦一〇隻から攻撃を受け、慌てて港内逃げ込み、ロシア艦隊に急襲を知らせたが、日本の駆逐艦が船尾に張り付き、ロシアの哨戒艇や軍艦を包囲してしまった。ロシア艦隊の乗組員たちは飲酒のために上陸していて、なす術がなかった。東郷平八郎率いる日本艦隊は、機雷を港外に配置し、ロシア艦隊の脱出を妨害した。それは、後の真珠湾攻撃と同じ憤激をロシア側に与えた( http://constantineintokyo.com/2009/12/22/112/)。

 宣戦布告前の奇襲攻撃は韓国でも行われた。二月八日、日本陸軍先遣部隊の第一二師団仁川に上陸した。日本海軍の巡洋艦群が、同旅団の護衛に当たった。日本の艦隊が、仁川港に入港する際に、偶然出港しようとしたロシアの航洋砲艦・コレーエツ(Koreets)が、すれ違う時に儀仗隊を甲板に並べて敬意を表した。しかし、日本の水雷艇が魚雷攻撃をかけ、コレーエツは、慌てて一発砲撃して引き返した。

 そして、二月九日、仁川港に停泊中のロシア太平洋艦隊所属の艦船に退去勧告を行い、退去しない場合は攻撃を加える旨を日本艦隊が伝えた。ところが、この退避勧告によってに仁川港から出航したロシア艦隊を待ち構えていた日本艦隊の砲撃で、一等防護巡洋艦・ヴァリャーグ(Varyag)は大破し、仁川港に引き返し、乗組員を上陸させた後、「コレーエツと共に自沈した(http://homepage2.nifty.com/daimyoshibo/mil/jinsen.html)。戦闘後、放棄されたが、ヴァリャーグは引き上げられ二等巡洋艦・宗谷として日本海軍に編入された。


野崎日記(373) 韓国併合100年(51) 日英同盟(2)

2010-12-30 14:42:06 | 野崎日記(新しい世界秩序)
 大隈が伊藤博文がまだ外遊中から帰国しないうちにいち早く祝賀会を開いたのも、政友会(立憲政友会)への対抗意識からである。当時の衆議院での第一党は伊藤博文を党首とする政友会であった。衆議院議員二九七名中、政友会は一五五名を占めていた。それに対して憲政本党は六九名しかなかった。しかも、政友会の伊藤は日英同盟に懐疑的であったために、街湯中の伊藤の真意を確かめることのできない政友会は身動きが取れなかった。大隈はこれを利用したのである(片山[二〇〇三]、七六九ページ)(3)。

 伊藤博文が日英同盟への批判者であるというのは、政党間の対立から作り出された捏造であろう。伊藤は、ロシア、ドイツ、英国という複数の国との協調路線を目指していたのであり、英国との単独同盟だけでは、満州、韓国における日本の権益を護ることが困難であるという全方位外交を目指していたのであろう。しかし、彼が携わっていた日露協商は秘密交渉であり、国民には途中経過は知らされてなかったし、伊藤の母体である政友会自体でさへ、伊藤の真意は分からなかった。伊藤が受けたロンドンでの厚遇ぶりが知らされてやっと、伊藤は日英同盟反対論ではないことに気付いてはいたが、それでも、伊藤自身の口から真意を聞かないかぎり、軽々に同盟成立祝賀会を開けなかった。そうしたこともあって、日英同盟直後の世間の伊藤評価は厳しかった(「伊藤侯と日英同盟」、『日本』一九〇二年二月一四日付。片山[二〇〇三]、七七一ぺージ)。日英同盟成立による天皇陛下万歳の声が全国にこだまするようになった情況では、伊藤は苦しい立場に追いやられていた。

 ロシアとの協調を訴えていた伊藤は、「恐露病」と揶揄されていたという(片山[二〇〇三]、七七一ページ)。事実誤認であるが、『都新聞』(一九〇二年二月一六日付)は、「日英同盟と伊藤侯」というタイトルで、伊藤が第四次政権時に、英国からの同盟の申し入れに二度も断ったと報じている。しかし、そうした事実はないと片山慶雄はいう(片山[二〇〇三]、七七二ページ)。伊藤が日英同盟に反対していたという、こうした決めつけは、東大医学部教授であったベルツまでが共有していた。親露派の伊藤が、ロンドンで日英同盟を推進したとはありえないことであると断じたのである(一九〇二年二月一七日付ベルツの日記、ベルツ[一九七九]、二四六ぺージ)。

 上記で指摘したように、大国英国を日本に振り向かせたという歓喜が、稚戯に等しい飲食を伴う万歳三唱の渦を全国に蔓延させたのであるが、それに立腹する人たちも中にはいた。幸徳秋水は日本人の外交感覚の幼さを嘆いた(「国民の対外思想」、『長野日々新聞』一九〇二年三月二八日付。片山[二〇〇三]、七七六ページ)。

 伊藤博文の関与があるのではないかと片山慶雄が推測する(片山[二〇〇三]、七八三ページ)『二六新報』は、ロシアやフランスとの協商を容易にする手段として日英同盟を結ぶのならいいが、ロシアを牽制するだけの日英同盟への懐疑論を展開した(「日英同盟と英露同盟」、『二六新報』一九〇二年一月七日付。片山[二〇〇三]、七八二ページ)。

 『万朝報』の日英同盟批判は激しかった。匿名記事ではあるが、幸徳秋水の死筆であろうと片山慶雄は推測している(片山[二〇〇三]、七八四ページ)。同新聞は以下のような批判を打ち出した。英国は、これまでの栄光ある孤立政策を維持できなくなったから日英同盟を結んだのである。英国を攻撃する可能性のある複数の国が出てきたからである。つまり、同盟を結んでしまったことによって、日本は自国の権益を保証されるどころか、英国の戦争に巻き込まれる可能性が高くなったのである。英国の方が日本よりも同盟利益は大きい。また、同盟が締結されたことで、将来日本の軍備が増強し、増税につながる流れができるであろうと批判した(「日英同盟条約(上・下)」、『万朝報』一九〇二年二月一四、一五日付。片山[二〇〇三]、七八四~八五ページ)。 

 『万朝報』は、内村鑑三の日英同盟批判も掲載している。内村は英国を信頼でき9ない国として切って棄てる。ボーア戦争を見ても、英国は弱小国を利用し尽くして結局裏切る。英国は利益のみを求め、義理も人情も持たない。「弱国に対する英国の措置は無情愧恥傀恥の連続である。そうして日本人が同盟条約を締結したとて喜ぶ国は此無情極る英国である」(「日英同盟に関する所感(上)」、『万朝報』一九〇二年二月一七日付。片山[二〇〇三]、七八五ページ)。

 内村は、日本の軍事侵略的体質を、日英同盟がさらに推し進めてしまうという。日本は、すでに朝鮮、遼東、台湾で大罪悪を犯しているのに、「今や英国と同盟して罪悪の上に更に罪悪を加えた」ことになる。そして、日英同盟は「罪悪であることを明言する」と内村は断言した(「日英同盟に関する所感(下)」、『万朝報』一九〇二年二月一九日付。片山[二〇〇三]、七八五ページ)。ボーア戦争の経緯を見ても、英国は小国を利用し尽くして棄て去る国であり、最終的には、世界は、二、三の「強国の専有する所」となる帝国主義に突入するという危機感を訴えた(「杜軍の大勝利」、『万朝報』一九〇二年三月一六日付。片山[二〇〇三]、七八五ページ)。

 一九〇二年四月八日、ロシアは清との間で「露清満州還付条約」を結んだ(4)。この条約は、半年ずつ、三回に分けて満州からロシア軍を撤退させるという密約であった。これは、露仏条約の延長でしかないが、当時の日本人は、この条約が日英同盟の成果と受け取ったのである。『日本』(一九〇二年四月一一日付)は、「満州問題の落着」と題した記事で、日英同盟が満州問題の解決を促したと日英同盟の存在を絶賛したし、『東京朝日新聞』(「満州還付条約調印」一九〇二年四月一一日付)、『毎日新聞』(「満州条約の調印、東洋平和の確保」一九〇二年四月一一日付)、『東京日日新聞』(「満州還付」一九〇二年四月一〇日付)等々、多くの新聞が同様の見解を表明した(片山[二〇〇三]、七八八ページ)。日英同盟批判の論陣を張っていた『二六新報』ですらロシアのバルチック艦隊が日本を襲撃しようとしても、スエズ以東の港は英国の許可なしに利用できないので、艦隊は補給面で日本攻撃が困難になるだろうとの理由で日英同盟を肯定的に評価するようになった(「海軍拡張」一九〇二年八月二五日付。片山[二〇〇三]、七九一ページ)。

 本稿注(1)に見られるように、日英同盟の全文に「極東全局の平和」が謳われ、第一条で日本が韓国において格段の利益を持つことが明記されたことは、「極東の平和」のために、韓国を侵略することの正当性を与えられたものと日本政府と軍部は解釈したがっていた。『万朝報』などがその論陣を張った(「清韓の経営」一九〇二年四月九日付、「韓国電線と日露」一九〇二年五月二六日付。片山[二〇〇三]、七九二ページ)。

 『毎日新聞』は、露骨に朝鮮人は無能なので、彼の地を発展させるためには、日本人の経営に委ねるべきであると主張した(「日韓間の経済的関係」一九〇二年六月八日付)。日英同盟は、日本の韓国進出を促したものであるとの解釈を示したのが『国民新聞』であった(「日英同盟及其将来(二)」一九〇二年四月一二日。片山[二〇〇三]、七九三ページ)。

野崎日記(372) 韓国併合100年(50) 日英同盟(1)

2010-12-29 14:39:01 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 はじめに

 日英同盟が締結されたのは、一九〇二年一月三〇日である。同盟が締結される直前の一九〇一年一一月から一九〇二年一月にかけて伊藤博文が欧州を歴訪し、各地で大歓迎された。それも過剰な接待ぶりであった(君塚[二〇〇〇]、三三~四八ページ、参照)。

 そもそも、日英同盟が検討されるきっかけを与えたのは、一九〇一年三月に、ドイツにうよる東アジアの安全保障に関する日、英、独の三国同盟の提唱であった。これに対して、英国首相のソールズベリー(Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury)が気乗り薄かったので、ドイツもあきらめることになった。

 日英独の三国同盟の気運が消え去ると日英の中で日英同盟の可能性が浮上してきた。つまり、長年の懸案によって日英同盟が成立したのではなく、突然にアイデアが浮上し、瞬く間に成立してしまったのである。
 ただし、ソールズベリー首相自身は、三国同盟案解消後に浮上した日英同盟構想にも消極的であったらしい(君塚[二〇〇〇]、三四ページ)。それでも、一九〇一年七月三一日、英国外務大臣になったランズダウン(Henry Charles Keith Petty-Fitz Maurice, 5th Marquess of Lansdowne)と在英日本公使・林菫(はやし・ただす)との間で、日英同盟を両国の正式の検討事項にすることが確認された。両者の会談では、清の門戸開放・韓国における日本の優越的地位が確認された。同年一〇月一六日に両者の会談が再開されたが、フランス滞在中のソールズベリー首相の帰国まで、会談内容を進展させないように、ランズダウンは林に要請した。つまり、日英同盟案に消極的な英首相の意向を無視することができなかったのである(同、三四~三五ページ)。

 この時期、ランズダウンは、清、ペルシャの問題でロシアと交渉していた。この交渉が決裂したのが一九〇一年一一月五日である。すでに帰国していたソールズベリーは、これまでの姿勢を一転させ、日英同盟の積極的推進者になったとされる(同、三五ページ)。

 まさにこの一一月時点で伊藤博文がロシアなどの欧州を歴訪したのである。日露同盟の成立が可能かどうかの交渉だった。伊藤は、ソールズベリーと同じく、一一月までは日英同盟に懐疑的であった。栄光ある孤立政策を続けていた英国が、何の見返りもなく日本と同盟を求めてきていることに不信感を持っていたのである(同、三六ページ)。

 それにしても、この時期の伊藤は華麗であった。〇一年一〇月に伊藤は米国のエール大学から名誉博士号を贈られるとの通知を受けた。その授与式に出席するために欧州周りで米国に行こうと旅立ったのである。つまり、あくまで私的な旅行であった。ところが訪問先の各地で大歓迎を受けたのである。

 伊藤は一一月二七日にペテルスブルグに到着し、翌二八日にロシア皇帝のニコライ二世(Nicholas II)との謁見を許され、一二月二~四日、ラムズドルフ(Vladimir Nikolayevich Lamsdorf)外相、ウィッテ(Selgei Witte)蔵相と会談、韓国における日本の優位をロシアに認めさせようとしたが結論はその時点では出なかった。そして、一二月一二日には日英同盟を締結するという方針が日本政府によって確認された。ベルリンに入って、伊藤は、駐独英臨時公使・ブキャナン(George William Buchanan)と会談した。しかし、一二月一七日、ロシアのラムズドルフ外相からロシアは、韓国における日本の特権的地位を認められない、つまり、日露同盟は無理であるとの返事を受けた(同、三七ページ)。このこともあって、〇一年一二月二四日にロンドンに入った伊藤は日英同盟締結を止むなしと受け入れる覚悟であったようだ(同、三八ページ)。

 一二月二五日のクリスマスにはさすがに動けなかったが、翌二六日には、ソールズベリー主宰の晩餐会に主賓として招待された。クリスマス休暇中であるにもかかわらず、重要人物たちが伊藤のために集ったのである。翌、二七日には、モールバラ・ハウス(Mallborough House)で、国王エドワード七世(Edward VII)の謁見を許されている。年明けの一月三日には、ランズダウン外相の邸宅・バウッド・ハウス(Bowood House)に招かれ、会談している。〇二年一月四日には、ソールズベリーの別荘、ハットフィールド・ハウス(Hatfield House)の午餐会に招かれ、各界の名士たちと会食している。その夕刻、日本公使館主宰の晩餐会が開催され、政府要人のほとんどが出席し、伊藤は、英国王からの最上級のバース勲章(Grand Cross of the Bath)を授与されている。一月六日午後、伊藤は英国外務省で再度ランズダウン外相と会談し、ロシアとの約束がないことを確認させられた(同、三八~三九ページ)。その後、伊藤はサンドリナム・ハウス(Sandringham Housei)に国王を表敬訪問し、礼を述べて、翌七日、パリに発った。

 英国政府関係者の伊藤への歓迎ぶりは、ロシア、ドイツと同程度のものであったことを、
ニシュ(Ian Nishh)が説明しているが(Nish[1966], p. 201)、ロンドンでの大歓迎ぶりが他国でもあったということは、驚くべきことである。しかも、ロンドンでは年末・年始の休暇中にこれだけの規模の歓迎がなされたのである。それは、日本における伊藤の地位の高さを示すものであるし、それだけ、東アジア情勢が緊迫化していたことの証左であろう。

 伊藤が、ロンドンを離れたその月末(〇二年一月三〇日)に日英同盟は締結された(1)。いかに慌ただしかったかが分かるであろう。

 一 韓国併合を促進させた日英同盟

 日英同盟のユニークさは、日本が熱望して英国に懇請したのではなく、英国側が締結を急いだという点にある。日本は、英国だけではなく、ドイツ、ロシアをも協調関係に巻き込もうとしていたのではないかというのが通説である。

 日英同盟を締結したということを明治政府が日本人に知らせたのは、一九〇二年二月一二日であった。伊藤は、まだ帰国していなかった。伊藤の帰国は二月二五日であった。

 日英同盟の締結日が一月三〇日だったのに、公表が大幅に遅れる二月一二日であったことも真相は不明である。しかし、二月一一日は紀元節で、当時の日本人の多くが戸口に日の丸旗を掲げる習慣があったことを計算に入れたものであろう。「天皇陛下万歳」という紀元節の唱和を翌日にそのまま利用することができたからであろうと想像される。

 日英同盟祝賀会は、一九〇二年二月一四日から全国各地で数百人規模で行われた。それはまさに狂騒そのものであったという(「狂気の痴態を演ずる勿れ」、『都新聞』一九〇二年二月二二日付。片山「二〇〇三]、七七六ページ)。政党としては憲政本党(2)が先陣を切って党本部で祝賀会を開いた。祝賀会の大隈重信の挨拶は、日英同盟の必要性を外相時代(一八八九年一月)時代から訴えていた政治家であったことから、新聞でも大きく取り上げられた(「大隈伯の演説」、『日本』一九〇二年二月一五日付。片山[二〇〇三]、七六八ページ)。清・韓国の保全、両地域における日本の経済的利益、日本を世界の大国に押し上げるという三点を同盟の効果として強調した。首相と外相とを兼任していた一八九八年九月には、フィリピンを米国が領有しなかったら、日英が協同でフィリピン統治をしようとの日英提携論を提起したことがある(片山[二〇〇三]、七六八~六九ページ。伊藤[一九九九]、一二八ページ)。憲政本党自体も、一九〇一年一二月から満州からロシアを追い出すために日英米の三国同盟を訴えた経緯もある。


野崎日記(371) 韓国併合100年(49) 韓国併合と米国(7)

2010-12-28 14:36:57 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(8) 例えば、『ニューヨーク・タイムズ』(New York Times)が、事件を執拗に報道していた。"American Missionary is Arrested in Korea"(一九一九年四月一一日)、"Japanese Arrest Americans in Kore"(四月一四日)、"Asks Sentence of Mowry"(四月二〇日)、"Admits Aiding Koreans"(四月二一日)、"Mowry is Sentenced"(四月二二日)、"Mowry Sentence Appeal"(五月一九日)、"Mowry Trial End"(八月二五日)、"New Trial For Rev. Mowry"(八月二九日)、Jail or Fine for Mowry"(一二月八日)。内容は反日感情に満ちたものであった。

 引用文献

伊藤一男[一九六九]、『北米百年桜』北米百年桜実行委員会。
外務省調査部編[一九三九]、『日米外交史』。
姜徳相編[一九七〇],『現代史資料』第二七巻(朝鮮・三)みすず書房。
姜徳相編[一九七二],『現代史資料』第二八巻(朝鮮・四)みすず書房。
小村寿太郎[一九一〇]、「一九一〇年一〇月六日付オブライアン宛て小村書簡」、『日本外
     交文書』第四三巻、第一号。
田中明[一九九七]、「日本における朝鮮研究の停滞と関連して」、『海外経済事情』第四五
     巻、七・八号。
尹慶老[一九九〇]、『一〇五人事件と新民會研究』一志社。
和田春樹・石坂浩一編[二〇〇二]、『岩波小辞典・現代韓国・朝鮮』岩波書店。
Bergholz, Leo A.[1934], "Bergholz to the Secreraries of the American Misso Stations in Korea,
          24 January 1919, Foreign Affairs of the United States, 1919, vol. II, Government
          Printing Office.
Brown, Arthur[1919], The Mastery of the Far East, Charles Scribner's Son.
Department of State Archieves[1905], Miscellaneous Letters, July, Part 3.
Dennett, Tyler[1924], "President Roosevelt's Secret Pact with Japan," Current History, XXI.
Nagata, Akifumi[2005],"American Missionaries in Korea and U. S.- Japan Relations 1910-1920,"
          The Japanese Journal of American Studies, No. 16.
Wilson, Hungtinton[1915], "Wilson to O'Braien, 17 September 1910," Foreign Relations of the
          United States, 1911, Government Printing Office.
Wilson, Robert. A. & Bill Hosokawa[1980], East to America; A History of the Japanese in the
          United States., William Morrow and Company, Inc.


野崎日記(370) 韓国併合100年(48) 韓国併合と米国(6)

2010-12-28 14:34:40 | 野崎日記(新しい世界秩序)

  注

(1) 備後安芸郡箱田村(現・福山市神辺町箱田)出身。一八三六年一〇月三日(天保七年八月二五日)生まれ、一九〇八(明治四一)年一〇月二六日没。昌平坂学問所で儒学を、ジョン万次郎の私塾で英語を、幕府が新設した長崎海軍伝習所入所で蘭学も学ぶ。航海術・舎密学(化学)も修めた。一八六二~六七年オランダに留学。普墺戦争を観戦武官として経験。幕府が発注した軍艦「開陽」で帰国。大政奉還後の一八六八(慶応四)年一月、幕府海軍副総裁に任じられ、新政府への徹底抗戦を主張。江戸城無血開城後、開陽を含む軍艦八艦で江戸を脱出。箱館の五稜郭に立て籠もるが新政府軍に敗北。榎本の才能を惜しむ蝦夷征討軍海陸軍参謀・黒田了介(黒田清隆、くろだ・きよたか)が助命運動。一八七二(明治五)年一月、特赦。蝦夷開拓使として黒田の配下として新政府に仕官。一八七四(明治七)年一月、駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結。帰国後、要職を歴任し、一八九七(明治三〇)年に農相として足尾銅山に関する第一回鉱毒調査会を組織し、政府として初めて解決に道筋をつけた(http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/28.html、アクセス二〇一〇年六月二九日)。

(2) 薩摩出水脇本村槝之浦(かしのうら)(現・阿久根市脇本槝之浦)出身。一八三二年六月二一日(天保三年五月二三日)生まれ、一八九三(明治二六)年六月六日没。一八六一年、幕府の第一次遣欧使節(文久遣欧使節)の通訳兼医師として参加、一八六三年薩英戦争で五代友厚とともに捕虜になる。一八六五年薩摩藩遣英使節団に参加、新政府で外交官、一八七三年、参議兼外務卿、一八七九年条約改正交渉に臨む、米国の賛成を得たが英国の反対に遭い挫折、外務卿辞任(http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/terashimamunenori.html、アクセス二〇一〇年六月二九日)。

(3) 一九〇五年時点の正式の外務大臣は小村寿太郎(一八五五~一九一一年)であったが、日本全権としてポーツマス(Portsmouth)会議に出席するために日本を不在にしていた。その間、首相の桂が外務大臣を兼務していたのである。

 小村は、ポーツマス条約を調印後、米国の鉄道王・ハリマン(Edward Henry Harriman)が満洲における鉄道の共同経営を提案(桂・ハリマン協定、一九〇五年)したのを首相や元老の反対を押し切って拒否した。件については評価が分かれる。一九〇八(明治四一)年成立の第二次桂内閣の外務大臣に再任。幕末以来の不平等条約を解消するための条約改正の交渉に従事。一九一一(明治四四)年、日米通商航海条約を調印し関税自主権を獲得した。

(4) 「桂・タフト覚書」の日本側原本は消失している。そのため、外交史料館で編纂している『日本外交文書』第三八巻第一冊(明治三八年)には、米国の外交文書から同覚書を引用している(http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/meiji_05.html)。

(5) 一八〇〇年代前半、米、英、スペイン、ドイツ、オランダがニカラグア、フランスがパナマを運河建設の予定地として、それぞれ調査・計画を進めていた。一八四八年に米国がメキシコから奪ったカリフォルニアでゴールドラッシュが起きた。東海岸から西海岸のカリフォルニアへの移動は、船でパナマまで行き、最短で五一キロ・メートルの陸路を渡り、太平洋を船をカリフォルニアに着けるというコースが選ばれた。そこで、米国の郵船会社が、パナマに鉄道を一八五五年に五年で完成させた。この鉄道は、米国が自国民の安全を確保するためという大儀を掲げて、軍隊を派遣できる口実となった。

 同時期にフランスのフェルディナンド・レセップス(Ferdinand Marie Vicomte de Lesseps, 1805~1894)が、一八八〇年、エッフェル塔建設で有名になったギュスターブ・エッフェル(Alexandre Gustave Eiffel, 1832~1923)と組んでパナマ運河建設に乗り出したが失敗。

 その工事は、米国に継承された。米国は、ニカラグアの工事を取り止め、パナマ一本に絞ることになった。米国はパナマをコロンビアから独立させようとした。独立運動の担い手が革命委員会でその中心人物が、当時パナマ鉄道に勤めていたパナマ出身のマヌエル・アマドール(Manuel Amador)、そして彼を直接焚きつけた人物こそ、もとレセップスの下で働いていたバリーヤであった。米国務長官ヘイと、バリーヤとの密室内での運河協定はパナマの主権を完全に踏みにじるものであり、パナマも表面的には独立を承認されたが、実質的には米国の属国となってしまった(http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=208137、二〇一〇年七月六日アクセス)。

(6) セオドアは、日本贔屓でもあったらしい。米国人初の柔道茶帯取得者。山下義韶から週三回の柔道の練習を受け、山下を海軍兵学校の柔道教師に推薦した。東郷平八郎が読み上げた聯合艦隊解散之辞に感銘を受け、その英訳文を軍の将兵に配布した。ただし、日露戦争後に次第に東アジアで台頭する日本に対して警戒心を強くし、日本には冷淡になった。日露戦争後は艦隊(Great White Fleet)を日本に寄港させて日本を牽制した(ウィキペディアよち)。

 金子堅太郎(嘉永六(一八五三)~昭和一七(一九四二)年)は、藩学修猷館を出た後、黒田長溥公の援助で団琢磨とともに米国ハーバード大学に入学(一八七六年)。帰朝後は伊藤博文を助け、大日本帝国憲法の制定に大きく貢献した。

 金子堅太郎は司法の分野だけでなく、外交官としても卓越した力を発揮した。日露戦争の開戦当初、金子は厳正中立の立場にあった米国を友好的中立国とし、戦争講和の調停役を引き受けさせる、という政府の密命を帯びて渡米した。強力な人脈は、当時の米大統領セオドア・ローズベルトであった(http://shuyu.fku.ed.jp/syoukai/rekishi/kaneko.htm、二〇一〇年七月六日アクセス)。

(7) 明石元二郎(元治元年八月一日(一八六四年九月一日)~大正八年一〇月二六日)は、藩校修猷館を経て陸軍士官学校、陸軍大学卒。一九〇一(明治三四)年、フランス公使館付陸軍武官。一九〇二(明治三五)年)、ロシア公使館付陸軍武官に転任、英国スパイと交遊。日露戦争時には、陸軍大佐。当時の国家予算は二億三〇〇〇万円程であった。山縣有朋の命令により、参謀本部から当時の金額で一〇〇万円(現在価値で四〇〇億円強)を工作資金として支給されロシア革命支援工作を画策した。ヨーロッパ全土の反ロシア帝政組織にばら撒き、その工作の内容を、手記『落花流水』(非売品、国会図書館蔵)にまとめられている。ジュネーブにいたレーニンをロシアに送り込んだ。血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与したとされている。レーニンは明石に感謝していたという。

 一九一〇(明治四三)年、寺内正毅韓国統監の下で憲兵司令官と警務総長を兼務し、韓国併合の過程で武断政治を推し進めた。一九一五(大正四年)第六師団長を経て、一九一八(大正七)年、第七代台湾総督に就任し、陸軍大将。在任中は、台湾電力を設立し水力発電事業を推進、鉄道海岸線を建設、日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正、これにより台湾人にも帝国大学への道が開かれた。華南銀行を設立。台湾の三板橋墓地(現林森公園)に埋葬されている(http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/221.htm)。


 四 三・一運動で増幅された米人宣教師に対する朝鮮総督府の憎悪

2010-12-27 14:30:20 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 一九一六年、寺内正毅が日本の首相に転じるとともに、後継の朝鮮総督は、長谷川好道(はせがわ・よしみち)がなった。国際環境が激動する中での日本の朝鮮支配であった。一九一七年にはロシア革命、一九一八年一月のウィルソン(Woodrow Wilson)米大統領による「平和一四原則」(Fourteen Points Adress)が世界の独立運動を刺激した。そして、一九一九年一月二一日、日本政府から徳寿宮李太王の称号を受けていた前韓国皇帝、高宗(Kojong)が死去(六七歳)し、毒殺の風聞が流れて、三月三日の葬儀芽の三月一日、朝鮮で反日・独立運動が大規模に発生したのである。

 米国の伝導教会は、朝鮮半島南部のよりも、北部の方が多かった。そして、三・一運動は、北部の方が激越であった。日本政府は、ウィルソンによる民族自決と米国長老派教会に対してますます神経を尖らせることになった。
 当初は、米国政府も日本政府に気を遣っていた。駐ソウル米総領事レオ・バーゴルツ(Leo A. Bergholz)は、朝鮮における米人宣教師たちに、朝鮮国内の問題、とくに政治問題に関与しないようにと要請したほどである(Bergholz[1934], pp. 458-59; Nagata[2005], p. 165)。しかし、日本の新聞は三・一事件は米人宣教師の扇動によったものであると書き立てた(Nagata[2005], p. 166)。駐日米大使ローランド・モリス(Roland S. Morris)は、本国の国務省に、事件は米人宣教師が関与したものではなく、朝鮮人のナショナリズムの発露であるとわざわざ報告しなければならなかったほどである。朝鮮総督府側も米人宣教師を追い詰めることは、米国の反日感情を掻き立てるとして宣教師に対しては慎重な姿勢を示していた(Nagata[2005], p. 166)。
 しかし、一九一九年四月四日、米人宣教師が事件に関わった朝鮮人五人をかくまったという容疑で平壌で宣教していたエリ・モーリー(Eli M.Mowry)という長老派の牧師が官憲によって逮捕された。上記のバーゴルツは直ちに朝鮮総督府に抗議した。そうそたこともあって、モーリーは、四月一九日には、六か月の強制労働の刑を言い渡されていたが、一二月には一〇〇円の罰金刑に減刑された(姜[一九七〇]、五八七ページ)。米国の新聞はこの事件を連日、大きく取り上げていた(8)。

 日本側は、米国の反日感情を高める愚策を重ねてしまった。四月一〇日、三・一運動で官憲によって負傷させられた多数の朝鮮人たちが、長老派教会が運営する病院("Serverance Hospital")に収容された。しかし、日本の憲兵隊は、病院側が犯人を匿ったとして、首謀者たちの引き渡しを要求し、幾人かを憲兵隊本部に連行した。バーゴルツや長老派の牧師たちが憲兵隊に抗議したが聞き入れられなかった(Nagata[2005], p. 167)。

 四月一五日、いわゆる「提岩里虐殺事件」が起きた。事件の起きた京畿道(Gyeonggi-do)水原郡(Suwon-gun)提岩里(Cheam-ri)は、現在の華城市(Hwaseong-si)である。約三〇人の住民が日本軍によって虐殺された。日本側は、三〇人は、憲兵に襲いかかった暴徒を射殺したものであると説明した。この日、憲兵隊が提岩里の堤岩教会に、小学校焼き討ちと警察官二名の殺害の容疑者として提岩里のキリスト教徒の成人男子二〇数名を集めて取調べをしていた。その中の一人が急に逃げ出そうとし、もう一名がこれを助けようとして憲兵に襲いかかってきたので、憲兵はこの二人を犯人だと即断して殺害してしまった。これを見た教会に集められていた人々が騒ぎ出し暴徒化。兵卒に射撃を命じ、ほとんど全部を射殺するに至った。教会もその後近所からの失火により焼失した、これが日本側の説明である(朝鮮総督府資料「騒密770号,提岩里騒擾事件ニ関スル報告(通牒)」大正八(一九一九)年四月二四日、ウィキペディアより)。

 しかし、駐ソウル米総領事、レイモンド・カーティス(Raymond Curtis)が、ソウルで活動していた長老派宣教師、ホリス・アンダーウッド(Horace H. Underwood)とAPニュース(Associated Press News Agency)通信員、A・テイラー(A. W. Taylor)を伴って、騒動があった村落を視察し、実際には、村民たちが憲兵たちによって教会に閉じ込められ、その上で教会ごと焼き殺されたとの認識を得、その事件を告発すべく、アンダーウッドは、「チアムリ事件」("the Cheam-ri Incident")というタイトルのレポートを世界に向けて発信した(Nagata[2005], p. 167)。

 日本側と米国側との認識に差があるが、二〇〇七年二月二八日付『朝日新聞』は、憲兵が村民を焼き殺したことを暗示させる資料を発見したと報道した。三・一運動の際に朝鮮軍司令官だった宇都宮太郎大将(一八六一~一九二二年)の一五年分の日記など、大量の史料が見つかったが、そこでは、独立運動への鎮圧の実態や、民族運動家らに対する懐柔などが詳細に記されている。宇都宮は、情報収集を任務とし、日露戦争前後に英国で世論工作に携わったほか、辛亥革命では三菱財閥から活動費一〇万円を提供させ、中国での情報工作費に充てた人である。

 日記の重要な個所は、一九一九年四月一八日のものである。そこには、堤岩里事件に関して、「事実を事実として処分すれば尤(もっと)も単簡なれども」、「虐殺、放火を自認することと為(な)り、帝国の立場は甚(はなはだ)しく不利益と為り」、そして、善後策を協議する会合では、「抵抗したるを以(もっ)て殺戮(さつりく)したるものとして虐殺放火等は認めざることに決し、夜一二時散会す」という、憲兵による放火虐殺の事実を認めているのである。
 独立運動が始まった当初、宇都宮は従来の「武断政治」的な統治策を批判し、朝鮮人の「怨嗟(えんさ)動揺は自然」と日記に記した。そして、後の「文化政治」の先取りともいえる様々な懐柔工作を行った。朝鮮人の民族運動家や宗教者らと会い、情報収集や意見交換に努めたことが日記から分かる。日記以外の史料は、書簡五〇〇〇通、書類二〇〇〇点など。日露戦争期に英国公使館付武官だった時に、ロシアの革命派らを支援して戦争を有利に導こうとする「明石工作」を、資金面で支えたことを示す小切手帳もあった
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20070228/p5、二〇一〇年八月一三日アクセス。「三・一運動鎮圧克明に、宇都宮太郎大将の日記発見、朝鮮人三〇人虐殺隠蔽、「怨嗟は自然」懐柔工作」、『朝日新聞』二〇〇七年二月二八日)

 破壊されたのは、虐殺のあった教会だけではない。周辺の一八もの村が運動弾圧で破壊されたのである。時の朝鮮総督は長谷川好道であった(Nagata[2005], p. 168)。

 おわりに


 一九二〇年頃から中国と朝鮮との国境地帯で、朝鮮独立運動が激しくなった。とくに、間島(朝鮮語でChientao、中国語でJiandao)地域には、日本の圧政から逃れてきた朝鮮人たちが多く居住していた。当初、朝鮮では豆満江の中洲島を間島と呼んでいたが、豆満江を越えて南満洲に移住する朝鮮人が増えるにつれて間島の範囲が拡大し、豆満江以北の朝鮮人居住地全体を間島と呼ぶようになった。

 間島地域内の都市の一つの琿春(Hunchun)には、日本の領事館が置かれていた。この領事館が一九二〇年の九月と一〇月の二回、襲撃された。これは、日本の官憲によって雇われた中国人であったと言われている。これを契機に、日本政府は現地在住日本人の安全を守るという口実で、一九二〇年一〇月一四日、この地に軍隊を派遣した。日本軍は、間島の六六もの町や村を破壊し、約二三〇〇人の朝鮮人を殺した(姜[一九七二]、三五〇ページ)。

 日本軍によって虐殺された人の多くがクリスチャンであった。中国、朝鮮で活動する米人宣教師たちが、この残虐行為を非難した(『東京朝日新聞』一九二〇年一二月五日付)。派遣軍の隊長、水町竹三(みずまち・タケゾウ)は、初めから、琿春事件が、英米人宣教師たちの扇動によって引き起こされたものであると広言していた(『東京朝日新聞』一九二〇年一二月三日付)。

 これに対して、日本政府は、水町発言を公式のものでなく水町個人の見方であると弁明したが(『東京朝日新聞』二〇一〇年一二月一二日、二七日付)、日本の当局が本音のところで米人宣教師に対して強い警戒感を持っていたことが、この事件によって示されたのである。

 


野崎日記(368) 韓国併合100年(46) 韓国併合と米国(4)

2010-12-26 05:04:30 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 三 セオドア・ローズベルトの対日意識を変えさせた朝鮮総督府による宣教師弾圧

 米国人の反日感情を高めた原因の一つに朝鮮総督府による米国人宣教師弾圧があった。米国のアジア進出は、キリスト教の布教を軸にしたものであった。米国政府は日本による韓国支配を認めてはいたが、米人宣教師を敵視する朝鮮総督府の行動には神経を尖らせていた。米人宣教師たちが反日運動を煽っているのではないかという朝鮮総督府の疑念に、米政府は危惧していたのである。事実、米国人宣教師の多くが朝鮮の独立運動に巻き込まれていたし、日本政府の米国人宣教師への警戒感は強くなっていた。

 こうした事情を反映して、韓国併合時に米国務長官であったハンチントン・ウィルソン(Huntington Wilson)が米国駐日大使のトーマス・オブライアン(Thomas J. O'Brien)に併合後の対宣教師政策を日本政府に質すように指示した(Wilson[1911], pp. 320-21)。それを受けたオブライアンが、当時の外務大臣、小村寿太郎に質問したところ、小村は、一九一〇年一〇月六日に返事し、宣教師による布教活動とミッション教育については、従来通り継続させると明言した(小村[一九一〇]、七一一~一四ページ)。

 しかし、キリスト教の布教活動が日本政府によって弾圧されるのではないかとの、ウィルソンの危惧は的中した。小村の明言にもかかわらず、本書第一章で述べたように、多数の韓国人クリスチャンが、初代朝鮮総督、寺内正毅(てらうち・まさたけ)暗殺計画の容疑で逮捕されるという事件が一九一一年に発生した。暗殺計画は一九一〇年の寺内の朝鮮赴任時を狙ったものであった。七〇〇人が逮捕され、朝鮮総督府によって一二二人が裁判にかけられ、うち、一〇五人が重労働の卿を科せられた。最終的には六人のみ有罪確定となり、それも一九一五年に特別放免された。これがいわゆる[一〇五人事件」である(尹[一九九〇]、参照)。
 この事件は日本の官憲によってでっち上げられたものではないのかとの疑惑が、当時もいまも囁かれている。米国の長老教会系(Presbyterian)の教団は、「韓国でっち上げ事件」(Korean Conspiracy Case)として、「一〇五人事件」を糾弾するキャンペーンを米国と韓国で直ちに展開した。

 米国人宣教師たちの動きが米国民の対日感情を悪化させる端緒になった

 以下は、長田彰文(ながた・あきふみ)の一連の研究、とくに、英文で書かれた「韓国における米国人宣教師たちと日米関係、一九一〇~一九二〇年」(Nagata[2005]に依拠したものである。
 ソウル(Seoul)にいた分離派長老教会病院(Prebyterian Severance Hospital)理事長のアビソン(O. R. Avison)、平壌(Pyongyang)にいた長老派宣教師のサミュエル・モッフェット(Samuel A. Moffett)、北の平安(Pyong-an)北道の成川(Seoncheon)にいた長老派宣教師のノーマン・ウィットモア(Norman C. Whittemore)の三人が、一九一二年一月二三日、寺内と面会し、韓国のクリスチャンたちの無実を訴えた。しかし、寺内はその訴えに耳をかさなかったという(外務省編[一九三九]、一二八~三二ページ)。

 米国では、ニューヨークを本拠とする米国長老教会海外伝道局長(Secretary of the Board of Foreign Missions of the Presbyterian Church in the United States of America)のアーサー・ブラウン(Arthur J. Brown)が精力的に動いた。ブラウンは、日本による韓国支配には好意的な意見の持ち主であったが、それでも、クリスチャンとして「一〇五人事件」への抗議行動に立ち上がった(Nagata[2005], pp. 161-62)。彼には、日本への傾斜とクリスチャンとしての矜恃の狭間で苦しんだことを告白した著作もある(Brown[1919])。

 ブラウンは、一九一二年二月、当時の駐米日本大使館の外務書記官(chargé d'affaires)であった埴原正直とニューヨークで面会し、逮捕された韓国人への穏便な対処を懇願した。さらに、数名の長老派教会の牧師とともに、ワシントンで駐米日本大使の珍田捨巳、タフト大統領、フィランダー・ノックス(Philander C. Knox)米国務長官、ウィリアム・サルツアー(William Sulzer)下院外交問題委員会議長)とも会っている。ブラウンの説明を聞いたザルツアーは逮捕された韓国人に一時は同情したが、その後で、珍田から説明を受けてからは、その同情心を引っ込めた。しかし、ブラウンの反日感情を強くなるばかりであった。日米関係を考慮して六人を除く他の逮捕者たちが日本の官憲によって無罪釈放された後も、米国長老派教会は事件になんら関与していなかったことを朝鮮総督府に執拗に訴え続けていたのである (Nagata[2005], p. 162)。

 ちなみに、「一〇五人事件」は米国の長老派教会によって企まれたものであることを自白させるために、検挙者たちに拷問を加えろと命令したのは、当時、憲兵司令官兼警務総長の明石元二郎(あかし・もとじろう)であった(7)。ただし、拷問はなかったという証言をも長田彰文論文は紹介している(Nagata[2005], p. 163)。

 結果的には、最後の六人をも日本当局は恩赦を与えた(一九一五年二月)のであるが、その背景には、本国の政府高官が朝鮮総督に米国宣教師たちの怒りをなだめるようにとの助言をしていたことがある。例えば、枢密院顧問の金子堅太郎が、当時の逓信大臣、前台湾総督府民政長官の後藤新平からの要請を受けて、新渡戸稲造に米国のキリスト教会への慰撫を依頼すると同時に、寺内正毅に事を納めるように諫めている。一九一二から一三年にかけてのことである。恩赦は、当時の首相、大隈重信の了承による((Nagata[2005], p. 164)。   


野崎日記(367) 韓国併合100年(45) 韓国併合と米国(3)

2010-12-25 23:02:44 | 野崎日記(新しい世界秩序)
 この決議は当時の日本領事・珍田捨巳(ちんだ・すてみ)らの運動によって取り消されたが、日本人排斥の動きはその後も活発になった。一九〇一年、カリフォルニア州とネバダ州の州議会が「日系移民を制限せよ」との建議書を連邦議会に送った。一九〇五年にはサンフランシスコに「日韓人排斥協会」(Japanese and Korean Exclusion League、後にアジア人排斥協会、Asiatic Exclusion Leagueに改名)が組織された。

 一九〇六年、またしてもサンフランシスコ学務局で以前と同じ決議が下された。日本人生徒を公立小学校から隔離し、中国人学校に編入させるという決定である。今度の理由は、同年起こったサンフランシスコ大地震の被害で学校のスペースが足りなくなっからというものだった。しかし、当時公立学校に通っていた日本人学生の数は、わずか、九三名であり、うち、二三名は米国生まれであった。残る六八名のうち、一五歳以下が三六名であった(Wilson & Hosokawa[1980], p. 53)。その意味で、一七歳以上の日本人生徒が多すぎるという当局の主張は言い掛かりでしかなかったのである。

 日系移民たちは、直ちに抗議運動を展開した。日本本国のマスコミに、この事件と、各地で頻発していた日本人経営レストランへのボイコット、日系人襲撃事件などが知らされた。

 日本贔屓のセオドア・ローズベルトは、迅速に行動した。公立学校から日本人を締め出すという行為は、日米通商航海条約に抵触するとして、サンフランシスコ市に学童隔離の撤回を命じ、一九〇七年、日本人生徒は復学を許された。
 しかし、その一方で、ローズベルトは、一九〇七年三月、大統領令(Executive Order)を出し、ハワイ、メキシコ、カナダからの日本人の転航移民を禁止した。サンフランシスコの学童隔離問題は、結局、移民制限という形で決着させられたのである。

 日本政府は、このような移民排斥に強硬に抗議しなかった。それどころか、移民排出を自主的に制限してしまったのである。日本政府は、一九〇八年、「日米紳士協約」(Gentleman's Agreement)なる取り決めを米政府と結んだ。これは、一般の観光旅行者や留学生以外の日本人に米国行き旅券を日本政府は発行しないというものであった(http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/shinshi.html、2010年7月14日アクセス)。この紳士協定による自主規制の結果、以後一〇年ほどは、日本人移民の純増はほとんどなくなった。

 当時の駐米・日本大使は、埴原正直(はにはら・まさなお)であった。埴原は、一八九八年、外交官試験に合格し、同年、東京専門学校(現在の早稲田大学)内で、日本で最初の外交専門誌『外交時報』を創刊した。翌年領事館補となり、廈門 (Amoy)領事館に赴任。一九〇二年、駐米日本大使館の外務書記官補となりワシントンに赴任。五年後二等書記官となる。米国内の反日感情が高まりつつあった一九〇九年、埴原はコロラド、ワイオミング、ユタ、アイダホ、ワシントン、オレゴン、カリフォルニア、テキサスの八州を回って日本人居留地を視察した。日本人町が排日論者たちの目にどう映っているのかを探るもためであった。視察は二か月以上にわたった。自らの足で日本人町を歩き、時には変装までして売春宿に潜入した埴原は、調査結果を「埴原報告」と呼ばれるレポートにまとめ、外務大臣の小村寿太郎宛に送った。これを読んだ外務省は、その内容に衝撃を受け、この「埴原報告」を機密文書扱いにして封印した。埴原のレポートには、日本人町の不衛生さ、下賤さ、卑猥さを赤裸々に綴られていたからである。

 日米紳士協定に話を戻す。紳士協定には「米国既在留者の家族は渡航可能」という条文があった。これが後に問題になった。当時の日本人は見合い結婚が一般的であった。親や親戚の薦めで、日本人の独身者たちは、写真を見ただけで結婚をしていた。花嫁が旅券発給を受けて入国していたのであるが、これが、米国人には「写真結婚」という擬制によって、日本人が不法移民をしているというように映った。見合結婚の習慣のない米国人にとってこの形態は奇異であり、非道徳的なものであった。カリフォルニア州を中心としてこの形態が攻撃された。米国で出生すれば、子供は、自動的に米国市民権を得ることができるので、日系人コミュニティーがより一層発展定着することへの危機感があった。結局、写真結婚による渡米は日本政府によって一九二〇年に禁止されることになった。また、一九二一年には、土地法改正により、外国人による土地取得が完全に禁止された。

 この一九二一年には、米国で「移民割当法」(Quota Immigration Act)が成立している。国勢調査に基づく出身国別居住者数に比例した数でのみ各国からの移民数を割り当てるとしたのである。認められるとしていた。
 そして、一九二四年、日本人移民の排斥を目指す法案が議会で審議されることになった。反日意識の強いカリフォルニア州選出下院議員の手によって「帰化不能外国人の移民全面禁止」を定める第一三条C項を「一八七〇年帰化法」(Naturalization Act of 1870)に追加する提案がなされたのである。一九七〇年帰化法には、自由な白人、アフリカ系黒人の子孫のみが米国人に帰化でき、他の外国人は帰化できない「帰化不能外国人」(Aliens Ineligible to Citizenship)という定義がなされ、、帰化不能外国人の移民は制限されていた。しかし、一九二〇年代には、日本人を除いて全面禁止になっていた。第一三条C項は、移民制限の徹底化であるが、当時、帰化不能外国人でありながら移民を認められていたのは、日本人のみであったから、実質的にはこの条項は日本人を対象としたものであった。

 米国務長官・ヒューズ(Hughes)が、こうした議会の動きを牽制するために、日本政府は日米紳士協定によって、対米移民を制限しているという事実を議会に説明すればよいと植原

野崎日記(366) 韓国併合100年(44) 韓国併合と米国(2)

2010-12-25 22:53:34 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 パナマ運河の領有権の取得も、セオドアの武断外交の事例であった。

 一八一九年、コロンビア共和国がスペインから独立したが、内戦が絶えず、二〇世紀に入っても政情は安定しなかった。当時のコロンビア共和国は、現在のコロンビア、ベネズエラ、エクアドル、パナマのすべてと、ペルー、ガイアナ、ブラジルの一部を含む北部南米一帯を占める大国家であったために、広大な領土の各地で分離を求める紛争が発生し、幾多の国家の離合集散が繰り返されていた。

 そして、一八九九年から一九〇二年にかけて、パナマのコロンビアからの分離独立を巡る、いわゆる千日戦争が勃発した。この内戦での戦死者は一〇万人に達したとされている(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/chronology/andes/colomb2.htm、二〇一〇年七月六日アクセス)。

 この内戦で、一九〇〇年一一月、米海兵隊が米国市民の保護とパナマ鉄道会社の運行確保のためパナマに上陸.二週間にわたり、コロンビア領に属していたパナマを占拠した。一九〇二年九月にも米海兵隊が派遣され、二か月にわたり占拠を続けた。同年一二月、フランス政府がパナマ運河会社を米国に譲渡することを決定。一九〇三年、パナマがコロンビアから独立。同年一月、コロンビアと米国との間でヘイ・エルラン条約(Hay-Herran Treaty)が調印され、一〇〇〇万ドルの一時金と年二五万ドルの使用料で、一〇〇年にわたる運河建設権、運河地帯の排他的管理権を米国が得た。条約更新の優先権は米国にあり、コロンビアは、米国以外の国に運河を譲渡できないなど、この条約は、コロンビアにとっては、屈辱的な内容であった。この内容に怒った正式のコロンビア大使は交渉を打ち切り、コロンビアに帰国してしまったが、大使に同行していていたトーマス・エルラン(Dr. Tomás Herrán)が代理大使として条約に調印してしまったのである。米国側の交渉責任者は、国務長官のジョン・ヘイ(John M. Hay, 1898~1905)であった。

 一九〇三年八月、コロンビア政府が議会にヘイ・エルラン条約の批准を求めたが、すべての議員がこの条約に反対し、一〇月には、条約批准を拒否した。
 同年一一月、セオドア・ローズベルトは、コロンビアを「腐敗した虐殺者の猿ども」と罵り、コロンビア政府の許可なしでも運河建設を強行すると述べた。それに呼応して、コロンビアからの独立を求めるパナマ革命委員会が反乱を開始し、セオドアも、軍艦四隻をパナマに派遣して革命委員会を支援した。反乱は成功し、臨時評議会政府が、パナマ共和国の独立宣言。同年一一月五日、米政府は直ちに新政府を暫定承認し、コロン市とパナマ市に軍艦九隻を配置してコロンビアを威圧、さらに海兵隊がパナマに上陸。六日、コロンビア軍が米軍の圧力に屈してパナマから撤退。同日、米政府は正式にパナマ新政府を承認した。

 一九〇三年一一月一八日、パナマ運河条約(Panama Canal Treaty=Hay/Bunau-Varilla Treaty)締結。ただし、この交渉にはパナマの革命委員会は排除され、レセップスの下で働いていたフランス人のビュノー・バリーヤ(Bunau-Varilla)だったのである。米国とフランスとの密約であり、パナマ人はあずかり知らぬことであった(5)。

 米国はパナマ政府から運河建設・運営権、幅一六キロ・メートルの運河地帯の一〇〇年間にわたる使用・占有・支配する権利を獲得。米国はパナマの独立を保障し、国内に混乱が生じた際には介入する義務を負うという内容であった。また、「パナマの完全な独立は米国により保障されるため、独自の軍を持つ必要はない」とされた。

 一九〇四年二月、パナマ議会が運河条約を批准.米上院もまもなく運河条約を批准.バリーヤはただちに全権大使を辞任しフランスに去った。ジョン・モルガン(John T. Morgan)上院議員や、 ウィリアム・マックドゥー(William MacAdoo)下院議員などは、パナマ「独立」は、セオドアの陰謀であると非難した(         http://www10.plala.or.jp/shosuzki/chronology/mesoam/panama.htm、二〇一〇年七月六日アクセス)。
 ただし、セオドアは典型的な武断外交の展開者ではあったが、バランス・オブ・パワー論者でもあった(Parker, Tom, "The Realistic Roosvelt, " The National Interest, Fall 2004, http://www.theodoreroosvelt.org/life/foreignpol.htm、二〇一〇年七月六日アクセス)。

 例えば、彼は、日本とロシアとの間に適切なバランスが必要であると認識していた。一九〇四年に旅順港(Port Arthur)を陥落させた日本軍の勝利を喜びつつも、共和党上院銀のヘンリー・ロッジ(Henry Cabot Lodge)宛の書簡で、「ロシアが勝利していたら、文明にとって打撃であったが、ロシアが東アジアにおける列強の地位を失ってしまっても、不幸なことであると私は思います。ロシアが日本と正面からぶつかるよりは、相互に穏やかな関係を保つのがもっともよいのです」と語った(上記ウエブサイトより)。ロシアが領土を放棄し、日本も賠償を求めないという和平条約を結ばせたことで、セオドアが米国人初のノーベル平和賞(Nobel Pease Prize)を受賞したのも、アジアにおけるバランス・オブ・パワーを維持したからであると、このサイトでトム・パーカー(Tom Parker)は指摘した。

 ちなみに、日露戦争時のセオドアは、ハーバード大学の同窓生であった金子堅太郎の影響もあって、かなりの日本贔屓であったらしい(6)。

 二 高まっていた米国の反日感情

 セオドアは別にして、一九世紀末の米国では、排日気運が高まっていた。本土に流入する日本人が増加していたことへの米国人の嫌悪感があった。統計的には、日本から米国本土に直接に渡航する日本人移民の数は、多くはなかったのだが、ハワイやメキシコを経由して米国本土に入国する転航移民が多かったのである。一八八五年に日本政府がハワイへの契約移民を正式に認めてから、ハワイへの移民は増えていた。

 米国政府は、一八八二年の排華移民法(Chinese Exclusion Act of 1882)によって中国人の移民を停止させた。その後に、日本人移民排斥運動が起こったのである。

 一八九三年、サンフランシスコの市教育委員会が、市内の公立学校への日本人生徒の入学を拒否する決定をした。「日本人生徒の年齢が他の生徒より高い」というのがその理由であった。学校に入学する日本人移民は、英語を学ぶために、実際の年齢よりも低いクラスに入る。当時一七歳以下の児童には一人当たり九ドルの補助が政府から下りていたが、一七歳以上の日本人生徒が多い学校は補助を得られなかった(伊藤[一九六九]一五ページ)。


野崎日記(365) 韓国併合100年(43) 韓国併合と米国(1)

2010-12-23 23:45:58 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 はじめに

 一八七六(明治九)年、駐露公使(Minister to Russia)であった榎本武揚(えのもと・たけあき)(1)は、当時の外務大臣・寺内宗則(てらうち・むねのり)(2)に書簡を送り、日本にとって、朝鮮の経済的貢献は小さいが、安全保障の視点からすれば非常に重要な政治的・戦略的位置にあると語った(田中[一九九七]、六一ページより引用)。

 経済的利益はないが、安全保障の見地からは、朝鮮は、戦略的重要な位置にあるというのが、当時の元老たちの共通認識であった。しかし、史実はそうではない。明治政府は朝鮮半島から経済的利益をむさぼろうとしていた。
 それは、すでに、一八七六年、日本と李氏朝鮮との間で結ばれた「日朝修好条規」に現れていた。この条約は一八七五年の江華島事件後に結ばれたことから江華条約(Treaty of Ganghwa)とか、一八七六年が丙子の年に当たるので、丙子条約(Treaty of Byon-Ja)とも呼ばれている。

 修好条規は、漢文と日本語で書かれている。条規は全一二款からなり、付属文書一一款、貿易規則一一則、公文からなる。条規第一款は、「大日本国」と「大朝鮮国」が相互に自主独立の国であること。条規第四款で、すでに日本公館が置かれている釜山(Busan)は言うに及ばず、即時に、元山(Wonsan、一八八〇年開港)、仁川(Incheon、一八八三年開港)をも開港させる。条規第九款で貿易制限禁止。条規第一〇款で、日本人の治外法権が定められた。
 付属第七款で開港場における日本の貨幣使用が認められた。貿易規則第六則では、それまでは禁止されていた朝鮮から日本への米の輸出が認められ、公文では朝鮮の関税自主権を奪い、日朝間の貿易は無関税になることが宣言された(http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m09_1876_01.html、アクセス二〇一〇年六月二九日)。日本が欧米列強によって押し付けられた不平等条約ですら、無関税でなく、一定の関税がかけられていたし、また、外国の貨幣の乱用も抑制されていた。そうした日本が苦しんだ不平等をさらに拡大させた条規を日本は朝鮮に強制したのである。日本は朝鮮を経済的に搾取する姿勢を初発から露骨に示した。
 ちなみに、朝鮮半島の植民地化によって、日本に在住する朝鮮人の数は激増した。一九一一年には二五〇〇人しかいなかったが、一九二〇年には約三万人、一九三〇年には約三〇万人、終戦直後には約二五〇万人になった(和田・石坂編「二〇〇二」、一〇二ページ)。

 このように露骨に朝鮮を支配する日本に対して、当時の列強は強硬に反対しなかった。

 一 朝鮮の期待を裏切ったセオドア・ローズベルト米大統領の武断外交

 一八七六年の「日朝修好条規」によって、開国を強制された朝鮮は、一八八二年に米国とも「米朝修好通商条約」(Treaty of Amity and Commerce betweenn the United States of America and Corea)を結んだ。条文の中には、両国は独立を保持するために協力するという趣旨が記されていた。しかし、米国は日露戦争に当たって日本を強く支持し、朝鮮の独立が脅かされても朝鮮を守る何らの行動をも取らなかった。

 米国は、フィリピン領有を日本が認めることと引き替えに、日本による韓国支配を黙認した。「桂・タフト覚書」(Taft-Katsura Memorandum)がそれである。これは、当時の首相兼臨時外務大臣であった桂太郎(弘化四(一八四八~大正二(一九一三年)(3)と、フィリピン訪問の途中来日した米国特使であり、後の第二七代米国大統領ウィリアム・タフト(William Taft, 1857 ~1930)陸軍長官との間で一九〇五年七月二七日に交わされた協定である。

 この協定は、両国の首脳が署名した正式のものではなく、両国の合意メモ程度のレベルのものであった。しかも、公表されない秘密合意であった。協定の存在は、ほぼ二〇年後の一九二四年に、歴史家、タイラー・デネット(Tyler Dennett)によって発見され、同年の米雑誌、Current Historyで発表された(Dennet[1924])。これは、タフトが一九〇五年七月二九日に東京から当時の国務長官、エリフ・ルート(Eliha Root)に宛てた電文のコピーである。コピーは、いわゆるセオドア・ローズベルト文書に保管されていたものである(Department of State Archives[1905])。

 デネットが公表したメモ(4)には以下のことが記載されていた。
 ①日本は、米国の植民地になったフィリピンに対して野心のないことを表明する。
 ②極東の平和は、日、米、英の三国による事実上の同盟によって守られるべきである。
 ③米国は、日本の韓国における指導的地位を認める。
 ④桂は、韓国政府が、一九〇五年に停戦した日露戦争の直接の原因であると指摘し、もし、韓国政府が単独で放置されるような事態になれば、再び同じように他国と条約を結んで日本を戦争に巻き込むだろう、従って日本は、韓国政府が再度別の外国との戦争を日本に強制する条約を締結することを防がなければならない、と主張した。
 ⑤タフト特使は、韓国が日本の保護国となることが東アジアの安定性に直接貢献することに同意した。
 ⑥タフトは、ローズベルト大統領がこの点に同意するだろうという彼の確信を示した(事実、ローズベルトは、同年七月三一日、同意する電文をタフトに送ったDennet[1924], p. 19)。
 韓国では、この覚書が日本による朝鮮半島支配を拡大させた契機となり、米国による韓国への重大な裏切り行為であったという非難が出されている(http://dokdo-research.com/temp25.html)。
 ちなみに、セオドア・ローズベルトは、軍事力による武断外交の実践者であった。モロッコにおける拉致事件の解決がその一例である。

 一九〇四年五月、モロッコでアーマド・イブン・ムハンマド・ライスリ(Ahmad Ibn Muhanmad Raisuli)率いる武装勢力によって、タンジール(Tangier)で農園を経営していた元米国人の富豪、グレゴリー・ペルディカリス(Gregory Perdicaris)の息子、イオン・ペルディカリス(Ion Perdicaris)が誘拐された。ライスリはモロッコのスルタンに対し、「モロッコでの外国人の安全」という国の名誉と交換に、七万ドルの身代金と、ライスリたちのモロッコにおける安全通行権、そしてタンジールの一部地域の統治権を要求した。

 大統領選挙を控えていたセオドアは、この報を聞いて、人質を救出すべく、すぐさま大西洋艦隊の戦艦七隻もの大部隊を派遣した。ただし、ローズベルトは、ペルディカリスが南北戦争中に米国籍を放棄していて、当時はギリシャ国籍であったという事実関係を知らなかった。大統領選挙を控えていたセオドアは、「我々は、ペルディカリスの生か、もしくはライスリの死を望む」と強硬発言をし、米国民の喝采を浴びた。モロッコ政府は、同年六月二一日、ライスリの要求を受け入れ、ライスリはペルディカリスを釈放した。セオドアは、この救出劇のお陰で選挙に勝利し、さらに次の四年間、ホワイトハウスに留まることになった。救出された人質が、じつは、米国民ではなかったという事実が一般人に知られるようになったのは、一九三〇年代に入ってからにすぎないが、少なくとも一九〇〇年の初めの一〇年間は、セオドアの俊敏な行動力が賞賛されて、彼を国民的人気者にしたのである(http://www.capitalcentury.com/1904.html、二〇一〇年七月五日アクセス)。