消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 68 習合体である日本の宗教

2007-02-08 23:40:07 | 神(福井日記)

 末木氏は、土着の神が仏法を保護してきたのも日本の神のもうひとつの姿であったという。



 
氏は、その例として八幡宮を挙げる。『続日本紀』には、大仏建立のさいに、宇佐八幡宮の神が奈良の都に来訪したという記述がある。天平勝宝元年(749年)のこととされる。


 そう言えば、私が人生の大半を過ごした須磨に墓地のある那須与一は、平家の舟の扇に矢で射るときに、「南無八幡大菩薩」と念じたという。日本の神さんが仏教の菩薩になってしまっていたのである。

 八幡神は、元来が北九州の土着の神である。
 
海や銅山を守る神であった。平安初期に「八幡大菩薩」の称号が与えられている。東大寺には快慶の作とされる僧の形をした八幡像がある(僧形八幡)。仏教によって神が認知されることを「尊格」というそうである。

 梵天さんも、帝釈天も、そもそもがインドの神さんであったはずなのに、仏教において高い「尊格」を得ている。



 
梵天さんは仏教では、「色界」の「初禅天」に属する。これは護法の諸天の最高位の「天」である。帝釈天もベーダではインドラ神という最高神であるのに、仏教でも「欲界第二天」に住まわされ、梵天と並ぶ護法の神である。


 そして、仏が神の姿となって神の国にくるという本格的な本地垂迹の考え方が奈良・平安期に定着する。


  なんと、神道ではもっとも大事な天照大神は大日如来、盧舎那仏のことであるとされた。日吉(ひえ)は釈迦とされた。



 山王宮曼荼羅の絵図が奈良国立博物館に所蔵されている。
  画面下部には比叡山の鎮守である日吉神社が描かれている。画面中部には日吉神の神体山である八王子山が描かれている。画面上部に仏とそれに対応する神が描かれている。全部で21の仏がある。



 末木氏によれば、本地垂迹の発想は、道家にあったという。この発想を本格的に採用したのが、天台の『法華経』解釈であったと末木氏は理解されている。


 
以前にすでに紹介したが、歴史上の釈迦の説法を伝えるのは、人々の覚醒レベルに応じたもので、まだ本当の仏の姿ではない個所が前半部分で説明され、これを「迹門」(しゃくもん)と呼んだ。永遠絶対の仏の出現を説くのが、後半部の「本門」と呼ばれる部分である。


 そして、日本では、荒ぶる魂である「御霊」を鎮めたいとの「御霊信仰」が生まれるが、末木氏の解釈によれば、これも、天台の本地垂迹の影響を受けているのではないかという。



 
北野天満宮は延喜3年(903年)に恨みを残して死んだ菅原道真の怒りを鎮めるために建立されたことは多くの人の知るところのものである。

 身近なことなのに、意外に私たちに知られていないことがある。日本の三大祭りの祇園祭りもこの御霊信仰によるものであるということである。


 
そもそも祇園祭りの中心である
八坂神社は、神仏習合のお寺にして神社である祇園社を出自としている。


  祭られているのは
牛頭天皇(ごずてんのう)である。この神様は陰陽道における疫神である。日本では素戔嗚尊と習合している。この御霊を鎮めるのが「祇園御霊会」である。それが祇園祭りと呼ばれている。


 もとより、いろいろな説があり、こうした説話のどれが正しいかを断定してはならない。それでも、御霊信仰の一つが祇園祭りであった可能性があることは、京都ゆかりの人たちも知っていた方がいいだろう。



  祇園さんは、京都だけのものではない。それこそ、日本各地にある。京都人は残念ながら、祇園祭はコンチキチンの京都だけだと思い込んでいる。


 正直、京都優越主義には、神戸出身の私は若いときから反感をもっていた。


 
神戸にも平野の祇園さんが、れっきとして大きな存在を誇っているのである。平野という地名の区域は、京都の祇園区域よりも広い。


 
つまらないことを張り合う積もりはない。しかし、日本各地に同じような神社が、それぞれの地域の特性に応じた由来をもって存在していることに想いを馳せるべきである。これほど、日本神道の魅力を物語るものはない。


 日本の宗教は、土着の神道(これも土着であると断言はできない。外来のものである可能性も非常に高い)、明らかに外来の仏教、そして、日本人の教養を形成してきた漢籍に豊富に盛り込まれた道家、の思想と風習とが渾然一体となって習合したものである。


本山美彦 福井日記 66 本地垂迹の転換

2007-02-06 23:59:56 | 神(福井日記)
 本来の神なり仏なりが、別の仏や神に姿を変えているということを本地垂迹という。

 仏教が伝来した時の日本では、仏を「他国神」とか「蕃神」(あたしくにのかみ)と呼んでいたと、末木氏の本には紹介されているが、仏を他所からきた神として、積極的にそうした「客人神」(まれびとがみ)として、日本に幸せをもたらすものと理解する崇仏派の蘇我氏と、厄災をもたらすものと嫌悪した排仏派の物部氏が争ったのであろう。

 この頃は、神が仏の姿をとっているという意味での本地垂迹であった。
 仏教側から見れば、これと反対のことが本地垂迹である。仏が日本では神の姿をとっているというのである。本が神から仏に移行することは立場の差であって当然の事情ではある。しかし、本地が人間になると宗教は革命的な変化を遂げたことになる。

 熊野伝説は人が本地の典型例である。登場人物は4人いる。そのすべてが熊野では仏になった。登場人物はすべてインド人である。

 
4人の1人目は、善財王(ぜんざいおう)という大王、2人目が大王の千人目の后で「五衰殿」(ごすいでん)に住んでいた「せんかう女御(にょうご)」、3人目が女御が生んだ王子を助け出した「地けん聖(ひじり)」、最後の4人目が王子である。熊野権現(ごんげん)の証誠殿(しょうじょうでん)の阿弥陀如来は大王である。


 両所権現は観音であり女御のことである。
 
那智権現は薬師如来で「地けん聖」である。若王子(にゃくおうじ)は十一面観音で王子である。インドから逃れてきた大王は殺された女御の首を本尊として仏道に励んだとされている。

 物語はこうである。
 大国を治めていた大王は999人の后をもったが子供ができなかった。そこで1000人目の后が懐妊した。嫉妬した999人の后たちは、1000人目の女御を山中の岩屋に幽閉し、武士たちに命じて首をはねさせた。首をはねられるときに、女御から王子が生まれた。首を切られて死んだ女御は乳を出し続けた。王子は虎や狼に守られて成長していた。この王子を「地けん聖」が見つけ、大王の元に連れてきた。ことの次第を知った大王は世をはかなみ、王子を連れ、女御の首を抱いて、飛ぶ車にのって日本の熊野にやってきた。

 首を切られても乳を出し続けて子供を育てた偉大な母性、后の苦難を知って仏性に目覚めた大王、彼らが仏の力を借りて神となる。人が神になったのである。確かに、後の熊野三山の本宮という「熊野坐神社」にいる神が阿弥陀、新宮という「熊野速玉神社」にいる神が薬師、那智という「熊野夫須美神社」にいる神が観音を本地とする。しかし、そもそもがインドの人間が日本の神になったというのが原型でである。
 こうした物語は中世の日本でよく語られていた。これを「本地物」(ほんじもの)という。森鴎外の『山椒大夫』もその一つである。


 末木氏によれば、本地垂迹は大転換を遂げた。
 
まず、インドの王様のような大権力者が日本で神になった。つぎに菅原道真のような怨霊が神になった。そして、「さんせう太夫」のような凡夫が神(ここでは仏)になった。これは、安寿と厨子王を助ける金焼(かねやき)地蔵が、じつは実父を本地とするものであるという垂迹である。このような転換を経ると、人を本地とする神は、厄災をもたらすものではなく、恩恵をもたらすものとなった。神も仏も人間も同一のレベルに並べるという、世界で稀な精神風土が日本に生み出されたのである。日本の神道の隆盛はこうした宗教界における大転換を契機としたのではないだろうか。

 日本の神社の多くは寺院(神宮寺)を併設していた。
 
霊亀(715~717年)の頃、藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)が神託によって気比(けひ)神宮に神宮寺を建てたという『藤原家伝』がある。神が藤原武智麻呂の夢枕に現れ、自分は仏教に帰依したいので、この神社に寺を建ててくれと懇願したという。

 養老年中(717~724年)には若狭比古(ひこ)神宮寺が建てられている。これも、神が仏法に帰依したいのに寺がないばかりにその恨みで厄災を与えたというので、寺を建てたという。

 つまり、この段階では、神は迷える存在であり、仏の救済を必要とするとされていた。日本の神々は外来の仏の膝下に入っていた。

 
こうした神道にとっての屈辱を跳ね返すには、民衆に愛され、民衆に世俗的利益をもたらすように神の役割をより具体化させなければならなかったのである。その際、人を本地とするようになった本地垂迹の大転換は、神道にとって最大のチャンスであっただろう。

本山美彦 福井日記 64 33回忌

2007-02-04 15:54:18 | 神(福井日記)
 日本の葬式が10回の法要ではなく、13回となったことはすでに紹介した。なぜ、33回忌が付け加えられたのかが、柳田国男(1875~1962年)の『先祖の話』(筑摩書房、1946年)で解明されている。



 死者の魂が、初期の荒れ狂う状態から温和しくなり、子孫を見守るように成熟するのは、死後33年経過してからであるという日本人独特の死生観から33回忌はきているとうのが、柳田説である

 古代の日本人は、「魂」を「タマ」と呼んでいたらしい。そのタマが身体から離脱することが死の意味であった。

 身体から離脱した直後のタマは、荒々しく人に危害を加えるものであると理解されていた。そうしたタマを「アラタマ」という。

 当時の日本人にとって、死は最大の「ケガレ」であった。「ミソギ」や「ハラエ」によって荒ぶるタマを鎮めようと試みていたが、それでも不安な気持ちに遺族は駆られていた。

 したがって、古代の墓は両墓制(後述する)に見られるように、人々の日常的生活圏から遠く離れたところに死者を埋葬し、人々の生活圏内にアラタマを近づけないようにしていた。

 死者供養とは、荒ぶる魂を鎮める目的があった。時間の経過とともに、アラタマはかなり温和しくなり、人に危害を加えることもなくなる。これを「ニギタマ」という。

 このニギタマも、歳月の経過とともに、個性をなくして祖先の霊と同化する。これが「カミ」(祖先神)である。アラタマがカミになるのに、33年かかるとされたのである。

 見られるように、「数値」が人の心に重要な影響を及ぼしていた。私が、ピタゴラスにこだわるのも数値のもつ呪術性をピタゴラスは認識していたからである。

 日本でも、たとえば、聖徳太子(呼称問題があることは百も承知、民衆が太子を尊敬している事実を軽視してはならない)が17条の憲法を作成したのも、たんに17条の取り決めがあったからではない。17という数値に神秘性を感じていたからである。それは陰陽思想からきたものである。

 8という偶数と9という奇数の合体が呪力をもつと信じられていたからである。33年というのは、死者のことを忘れ去るに十分な期間である。

 カミ(祖先神)は人里から離れた山に住んでいて、子孫を遠くから見守っている。ときどき、山から降りてきて子孫の家を訪れる。

 旧暦の1月と7月が、カミが訪問してくれるもっとも重要な月とされた。1月はこれから農耕にかかる前の段階、7月は収穫前の段階である。古代日本人は播種と収穫の2つによって1年を二分していた。播種に備える正月が1月、収穫に備える7月が盆である。

 柳田は日本の風習を説明するのに、仏教的なものを排除しようとしてきた。
 たとえば、盆は仏教の盂蘭盆の盆ではなく、カミに収穫した食べ物を捧げるための素焼きの食器である「瓮」(フォントがないので表示できないが、ボンと呼び、冠が公ではなく、分)のことであると解釈したり、死者を「ホトケ」と呼ぶのも、「仏」からきたのではなく、同じく食物を入れる食器「ホトキ」のことを指すとも説明している。

 真偽を確証することは私には不可能であるが、古代人の生活感覚に基づく死生観を再発見しようとする柳田の努力には価値を認めるべきである。

 考えて見れば、本当の仏教では、そう簡単に仏(成仏)などできるものではない。なんの修行もしなかった人が、死んだ途端に「ホトケ」と呼ばれるのもおかしなことである。ここで、いくら正確に仏教の教えから説明しようとしても、それは空しいことであろう。

 仏教の経典を引用してどう説明を受けようが、民衆にとって、「死ぬこと」は「ホトケになること」なのである。なぜ、そうなったのかをテキストではなく、生活に根ざす日用語から説明しようとした柳田の方向性は高く評価できる。

 末木氏が、仏教が葬式仏教として位置づけられるようになったのは、仏教が、日本人にはそれほど馴染みのなかった死後の世界を、「六道輪廻」や「極楽往生」のような構図をもってきて、圧倒的な力で民衆の心を掴んだからであるという。

 ケガレやハラエだけではこころもとかった日本人の信頼を仏教が勝ち取ったのである。阿弥陀仏の力を借りてアラタマをやすらぎの魂に変えて行くこと、こうした呪術的なものに、日本人は心を奪われたのである。

 こういう私も、両彼岸には必ず先祖の墓参りをする。
 
私の子供たちも、いまはしてくれないが、私が死んだ後は同じようにしてくれるであろう。こうした風習がそれこそ千年以上も続いている。そうした持続的な風習の力強さに比べれば、「理論」など短命で、はなかいものであることに、私たちは気付くべきである。

 以下は、ウィキペディアによる説明である。そのまま転載させていただく。最近のウィキペディアは英文も含めて内容が充実してきた。しかも、やかましく著作権を云々しない。庶民が接近できるいい辞書である。

 「墓(はか)は、死者の遺体(遺骨)を葬り、故人を弔う場所。一般に墓石・墓碑などを置く。またこの墓石・墓碑のことを墓ということもある。

 王などの有力者は巨大な墓を築くことも多く、それらは単に死者を祀る場ではなく、故人の為した業績を後世に伝えるモニュメントとしての性格も帯びる。王や皇帝の墓は法令または慣習により、陵と呼ぶ。また、古代日本では墓を「奥都城、奥津城(おくつき)」と呼んでおり、これにならって、神道墓をそう呼ぶ。

 なお、墳墓は「築く」といい、その他の墓や塔は「建てる」という。建てた人という意味で建立者の名を刻む場合は、殆どが「建之」の字を当てる。

 又、「墓場」という語は、墓地(埋葬される場所)と刑場(殺害される場所)の2種類の意味があり、文脈で意味する所が異なる。例えば、特撮などで見られる「ここが貴様の墓場だ」との台詞では、墓場は「刑場」を意味する。

 また、日本でも沖縄では、亀甲墓(かめこうばか、きっこうばか)や破風墓(はふばか、家型の墓)など一風変わった墓も見られる。亀甲墓の形状について、「人は死んだらまた母親の胎内に戻っていくという趣旨で、その胎内をかたどったもの」という説明は俗説である。



 世界最大の墓は、面積では日本の仁徳天皇陵(大仙陵古墳、大阪府堺市)である。

 墓を設けるのは人類共通の習慣ではなく、これを用いない民族・文化も多い。インドやインドネシア・バリ島のヒンドゥー教においては、遺体を火葬した後に遺灰と遺骨を川もしくは海に流し、またはガンジス川に遺体そのものを流して水葬にし、墓を設けない。また墓を設けることと、それに継続的に参拝することはイコールではない。日本でも、ヒンドゥー教のように遺灰を海や墓地公園のようなところで散骨するというやり方も最近では認められつつある。キリスト教徒もかつては教会内部に死者を納め最後の審判の後に復活することを待った。

 日本における墓制は、柳田国男の民俗学の研究が土台になってきた。柳田系民俗学は、人間の肉体から離れる霊魂の存在を重要視したため、遺体を埋める埋め墓(葬地)とは別に、人の住む所から近い所に参り墓を建て(祭地)、死者の霊魂はそこで祭祀するという「両墓制」が、日本ではかつては一般的だった、としている。(葬地と石塔と隣接させるのが「単墓制」としている。) そのため、遺体を埋葬する墓所はあったが、墓参りなどの習慣はなく、従来の日本では全く墓は重視されなかったとしている。



 しかし、このような墓制には批判が出てきている。岩田重則は、『「お墓」の誕生』(岩波新書)の中で、墓制を①遺体の処理形態(遺体か遺骨か)、②処理方法(埋葬か非埋葬か)、③二次的装置(石塔の建立、非建立)の3つの基準で分類している。(現在一般的な「お墓」は、「遺骨・非埋葬・石塔建立型」)。墓に石塔が出来てきたのは仏教の影響と関係の強い近世の江戸時代あたりからであり、それ以前は遺体は燃やされずに埋葬され、石塔もなかった(「遺体・埋葬・非建立」型)。また、浄土真宗地域および日本海側では、伝統的に火葬が行われ、石塔は建立されなかった(遺骨・埋葬/非埋葬・非建立型)。このように、柳田のいう「単墓制」「両墓制」というのは特に「遺体・埋葬・建立型」に限った議論において、葬地と祭地が空間的に隔たっていることの分類に過ぎず、日本全国の多様な墓制の歴史的変遷に対応させるには無理があるとの批判である。

 なお、沖縄・南西諸島では埋葬がなく本土の墓制との議論は難しい。(現在でも沖縄の一部では、墓はただの納骨所として、祭祀の対象としていないところも存在する。)

 戦前までは、自分の所有地の一角や、隣組などで墓を建てるケースも多かったが、戦後は、基本的に「○○霊園」などの名前が付いた、地方自治体による大規模な公園墓地以外は、お寺や教会が保有・管理しているものが多い。都市部では墓地用地の不足により、霊廟や納骨堂内のロッカーに骨壷を安置した形の、いわゆるマンション式が登場している。

 人によっては生前に自らの墓を購入することもある。これを寿陵(寿陵墓)、逆修墓という。また、自らの与り知らぬ所で付与される形式的な没後の名を厭い、自らの意思で受戒し、戒名を授かることもある。この場合、墓石に彫られた戒名は、朱字で記され、没後の戒名と区別される。

 現在の日本では、火葬後に遺骨を墓に収納する方式が主であるが、土葬も法律上は禁止されていない(一部地域の条例を除く)。詳しくは土葬を参照。
 現代における墓地(ぼち)は、墳墓(ふんぼ)を設けるために、墓地として都道府県知事の許可を受けた区域をいう。なお、「墳墓」とは、死体を埋葬し、又は焼骨を埋葬する施設である(墓地、埋葬等に関する法律第2条)。なお、墓地についてその他地方税法などで優遇されているものもある

 墓地は、公衆衛生上その他公共の福祉の見地からいろいろな行政上の規制を受ける。

 墓地の経営には、都道府県知事の許可が必要である。
 墓地の経営者は管理者を置き、管理者の本籍、住所、氏名を墓地所在地の市町村長に届け出なければならない。

 墓地の管理者は、埋葬等を求められたときは、正当な理由がなければ拒否できない。
 都道府県知事は、必要があると認められるときは、墓地の管理者から必要な報告を求めることができる。
 などである。

 祭祀財産(墓所・仏壇・神棚など)については相続税について課税財産と扱わない(非課税)。純金の仏像など純然たる信仰の対象とは考えにくいものは課税財産となる。

 墓地に対する固定資産税は非課税。
 墓地に対する不敬行為等は刑法第188条、第189条により処罰される。(礼拝所及び墳墓に関する罪を参照)

 墳墓の所有権は、習慣に従って祖先の祭祀を主宰すべき者がこれを承継するものとして特例を設けている」(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%93)。

本山美彦 福井日記 63 仏教的なものの砦

2007-02-03 12:46:30 | 神(福井日記)
 私がノートを取りながら勉強させていただいている末木(すえき)文美士(ふみひこ)『日本仏教史』(新潮文庫、平成8年、原著は平成4年新潮社))は本当に説得力のある本である。

 おそらくは、まだ若い人なのであろうが、同氏の文章はこなれている。なによりも分かりやすい。

 私は、このことをもっとも重視している。思想家は文章を分かりやすく書く義務がある。

 私はレトリック*を駆使し、やたらと難解な造語をする人たちを好きになれない。たんたんと書いて、「そうだな」との情感をもたらしてくれる文を、私は、達意のものだと思う。

*(1)修辞法。修辞学。(2)修辞。美辞。巧言。(1)ことばを有効適切に用い、もしくは修飾的な語句を巧みに用いて、表現すること。また、その技術。 (2)ことばを飾り立てること。また、ことばの上だけでいうこと。


 末木氏は、若いのにその域にに達している。たとえば、次のような文章に出会う。少し長くなるがそのまま引用しよう。

 「葬式仏教は、真面目(まじめ)な仏教者によってあたかも日本の仏教の恥部のように語られ、あるいは隠蔽(いんぺい)される。少し弁の立つ論者であれば、それは仏教の難解な真理がわからない無知な民衆に対する方便だと論じる。だが、そのような論者がそれほど知恵があるのか、民衆はそれほど無知なのか、どうも疑問に思われる。葬式仏教がどれほど仏教の本旨から外れていても、それだけの必然性があって発展してきたものであれば、将来的にも決して簡単にはなくならないであろう。・・・それ(人間の生死の問題)に頬(ほお)かむりして高尚(こうしょう)な理屈を弄(もてあそ)ぶのが、日本の仏教のあるべき姿だとは、私には思われない」。

 素晴らしい文章である。同氏の叙述に対して、「仏教が分かっていない」との侮蔑の言葉を吐くのは簡単である。

 でも、民衆の生死の恐れから、心の中に入る込む神道と仏教の棲み分けや相乗りの問題領域を、浮き彫りにさせた氏の志やよし。そもそも、数千年生きてきた仏教の全体像を形ある文で表現することなど不可能である。

 私たちは、自分の「生きていたい」という意思に基づいて、「存在するであろう」「全体」の一部を切り取って、納得するものである。それでいいではないか。

 私が、なぜ、宗教をかじりだしたかの回答もここにある。
 現在の日本は、畳の上に土足で入ることを強制されているような状況にある。畳が靴には合わないから、板敷きにしろと強制されているようなものである。

 おそらく、そうはならないであろう。私たちは、畳を残すであろう。玄関で靴を脱ぐであろう。そうした、日常の生活感覚に入る込むものこそ、宗教である。

 そして、あらゆる宗教が異国の地に入るとき、土着の生活感覚に合わすべく、自らを変えてきた。その様を追うことから、ノッペラボウなグローバル的単細胞から脱却できる。

 言葉で口角泡を飛ばす議論をする必要のない感覚を同一にするところから人の「共感」は生まれる。現在の忌まわしいグロ-バリズムへの民衆の反感と行動は、必ず土着思想を土台とすることになるであろう。

 こうした思い込みから私は、私たちの心の奥底に横たわっているであろう土着的なものを寝覚めさそうとしているのである。

 そうした作業において、もっとも有害なことは、「先行研究の成果を正しく理解していない」といった類のテキスト・ファンダメンタリズムである。

 あえて断定する。
 「仏教的なもの」(神道的なものと言い換えてもよい)の再発見からしか、米国の属国状態からの脱却はできない。米国がキリスト教人脈を通じて世界を支配しているのなら、私たちは、「仏教的なもの」を踏み台とした反抗の砦を形成しうる人脈を新たに作ればよい。言葉は空しい。私は、こつこつとこの作業を継続する所存である。

本山美彦 福井日記 62 追善廻向

2007-02-02 23:27:53 | 神(福井日記)
 専門家にも素人のときがあった。それでいい。いま、私は末木氏の解説を下敷きにして、仏教の勉強をしている。これはそのノートにすぎない。次第に完全なものにして行く所存である。

 最終的には私は、社会構造を歴史的に理解する手段として宗教を使う学者になりたいと願っている。

 
学術論文でなければなにをも書いてはだめだという権威主義を私はずっと排してきた。もとより、間違いは素直に認める積もりである。なによりも先に鳥瞰図(*ちょうかんず)を描くこと、このことが学問上で最重要のことである。鳥瞰図を早期に得た後、じくり推敲を重ねるというのが、学問の方法である。誤ってもいいから、とにかく鳥瞰図を早く書いて見ることがどうしても必要である。

*高い所から見おろしたように描いた風景図または地図。鳥目絵(とりめえ)。



 我が師、小野一一郎先生が、ある時代を経済学で分析する前に、当時の大衆小説を読むように私に勧めてくださったことが、そうした考え方をするさいの、血肉になっている。

 
それを人の「考え方の鋳型」に応用しているのがいまの私であり、このブログの趣旨である。「消された思考の回路」、これを私は復権させようとしている。なにが正しいのかの判定は好事家にまかせておけばよい。私は、こぼれ落とされた者たちの思考を回復させようとしているのである。



 梶山雄一の著作に『「さとり」と「廻向」』(講談社現代新書、1983年)がある。廻向については、末木氏と梶山氏に依拠している。

 「追善廻向」(ついぜんえこう)となにげなく私たちは使っている。「廻向」は、善行を積んで、ある目的のために、そうした積んだ善を振り向けることを意味するという。その目的とは仏教の初期には自分の救済であったらしい。それが、大乗仏教の登場とともに、他人を救済することにも使われるようになった。死者は、死んでしまっているのだから、善行を積むことはできない。善行をなすことのできない死者に功徳を与えたい。そのために、死者に代わって善行を積んで(追善)、死者の功徳に応用してあげたい。これが、追善廻向である。

 インドの輪廻思想によれば、人は死んでしまった後、49日経つと別の生命に生まれ変わるという。
 
生まれ変わる前の、この49日間を「中陰」(ちゅういん)という。追善の法要がこの間に営まれるのは、生きている人間たちが、この死者に代わって善行を積み、その善行によって、死者が新しい生命を得るときに役立てようという趣旨から生まれたものである。

 この廻向は、中国で発展した。49日の間は7日ごとの法要、そして、100日法要、1周忌、3回忌となった。つまり、合計10回の法要がある。これを「10仏事」というらしい。面白いのは、日本ではこれに3回の法要を足した。7回忌、13回忌、33回忌がそれである。つまり、「13仏事」になったのである。

 それでは、「仏事」とはなにか。死者がきちんとしているかどうかを仏(王)が裁くことである。

 
死者は、初七日には「秦広王」(しんこうおう)の裁きを受けなければならない。そして、「初江王」(はっこうおう)、「宋帝王」(そうていおう)、「五官王」(ごかんおう)、「閻羅王」(えんらおう)、「変成王」(へんじょうおう)、「太山王」(たいざんおう)と続き、100日目には、「平等王」(びょうどうおう)、1周忌に「都市王」(としおう)、3回忌に「五道転輪王」(ごどうてんりんおう)の裁判がある。これは、閻魔王信仰の一つ、「十王信仰」である。インドのベーダでは、閻魔王は最初、死者の楽園の王として天界にいたのに、死者を裁く神に変化したとされている。

 日本では、この「王」が「菩薩」に代わり、13菩薩が死者を見るのである。
 「盂蘭盆会」(うらぼんえ)も中国発である。


 仏教用語に、「安居」(あんご)という言葉がある。
「ウィキペディア」によれば、「安居とは、それまで個々に活動していた僧侶たちが、一定期間、一カ所に集まって集団で修行すること。及び、その期間の事を指す」として、以下のように説明している。


 「安居とは元々、梵語の雨期を日本語に訳したものである。本来の目的は雨期には草木が生え繁り、昆虫、蛇などの数多くの小動物が活動するため、遊行(外での修行)をやめて一カ所に定住することにより、小動物に対する無用な殺生を防ぐ事である。後に雨期のある夏に行う事から、夏安居(げあんご)、雨安居(うあんご)とも呼ばれるようになった。
 釈尊在世中より始められたとされ、その後、仏教の伝来と共に中国や日本に伝わり、夏だけでなく冬も行うようになり(冬安居)、安居の回数が僧侶の仏教界での経験を指すようになり、その後の昇進の基準になるなど、非常に重要視された。
 現在でも禅宗では、修行僧が安居を行い、安居に入る結制から、安居が明ける解夏(げげ)までの間は寺域から一歩も外を出ずに修行に明け暮れる。
 日本書紀の成務天皇の項で、「百姓安居」という言葉が見られるが、これを指した物であるかどうかは定かではない。
 また、683年の天武天皇の項から、宮中で安居が行われたとの記録が複数見られる。その後、民間にも広まり、期間中は家事一切を行わない為、一部の地域では安居は「言う事を聞かない」と言う意味の方言としても使用される。この場合は「あんごさく」、「あんご」とも言うが、「安居」と記されているが当時から「あんご」と読んだのかは定かではない。万葉仮名風に読むと「あこ」または「あご」と読むことが出来る。但し、万葉仮名などを方言に用いる地方では、二文字目に濁音が入る場合、一文字目と二文字目の間に「ん」を入れることが多く地名などに見ることが出来る。この場合、「あご」は「あんご」と読む事となる」(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%B1%85)。

  さて、中国では、この安居の期間が明けるのが、陰暦7月15日である(「自放」(じし)。 

 
『盂蘭盆経』という経典がある。



 
それによると、釈尊の高弟、目連(もくけんれん)(けんの正字は牛偏)が、自分の母親が餓鬼道に落ちていることを発見、釈迦に相談すれば、7月15日に僧衆を供養すればよいと言われ、そうしたら、母は救われたとされている。

 この7月15日を盂蘭盆という。盂蘭盆とは、これも、ウィキペディアによると、
 「盂蘭盆会(うらぼんえ、ullambana、उल्लम्बन)とは、安居(あんご)の最後の日、7月15日 (旧暦)を盂蘭盆(ullambana)とよんで、父母や祖霊を供養し、倒懸(とうけん)の苦を救うという行事である。これは『盂蘭盆経 』(西晋、竺法護訳)『報恩奉盆経 』(東晋、失訳)などに説かれる目連尊者の餓鬼道に堕ちた亡母への供養の伝説による。
 盂蘭盆は、サンスクリット語の「ウランバナ」の音写語で、古くは「烏藍婆拏」「烏藍婆那」とも音写された。「ウランバナ」は「ウド、ランブ」(ud-lamb)の義であるといわれ、これが倒懸(さかさにかかる)の意である。
 近年、イランの言語で「霊魂」を意味するウルヴァン(urvan)が原語だとする説が出ているが、サンスクリット語の起源などからすれば、可能性が高い説である(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%82%E8%98%AD%E7%9B%86)。

 供養とは、文字通り、接待することである。僧衆とは僧のことである。
 日本で、なぜ、13の裁きに増えたのかは不明である。それに、彼岸会も中国にはなく、日本独自のものであるらしい。

 浄土宗の説明では、以下のようになっている。
 「彼岸は、春分と秋分を中日としてその前後三日間、菩提(ぼだい)の種を蒔(ま)く日といわれる計一週間にわたる期間をいいます。この習慣はわが国特有のものとされ、その起源は古く、一説では聖徳太子の頃といわれます。彼岸の中日には太陽が真東から出て、真西に沈む。太陽の真西に入る様子を見ながら、阿弥陀さまのまします西方浄土に想いを馳(は)せて、自分自身を反省するのにふさわしい日とされている。
 この「彼岸」とは、もともと生死流転(しょうしるてん)する此岸(しがん)から涅槃(ねはん)の彼岸に到る「到(とう)彼岸」のことで、到彼岸とは現実の世界(此の迷いの岸)から、理想の世界(彼のさとりの岸)へ渡ることで、古代インドの原語でパーラミター(波羅蜜多)といいます。この一週間は、中日の前後三日間に布施(ふせ)(めぐみ)・持戒(じかい)(いましめ)・忍辱(にんにく)(しのび)・精進(しょうじん)(はげみ)・禅定(ぜんじょう)(しずけさ)・智慧(ちえ)(さとり)という「六波羅蜜(ろくはらみつ)」(六つの正しい行い)をあてはめて実践し、煩悩(ぼんのう)の川を渡り、極楽浄土へ生まれかわりたいと願う信仰実践の期間とされています。
 また浄土宗で高祖(こうそ)と仰がれる中国の善導大師(ぜんどうたいし)(七世紀・唐の人)は、太陽が真東から出て真西に沈む春分・秋分の日には、「日想観(にっそうかん)」という行法(ぎょうほう)を行い、その日没の場所を極楽浄土と思ってあこがれの心を起こすべきである、ともお説きになっています。
 あらゆる自然の生命が若々しく萌(も)えあがる春彼岸の時期。自然をたたえ、生命をいつくしみ、南無阿弥陀仏を称えて、今日ある自分を育んでくれた数多くの祖先の追善供養など仏事につとめ、心から先祖のご恩に感謝いたしましょう。そして、わたしちたち自身の生活をもう一度反省したいものです」(
http://www.jodo.or.jp/naruhodo/event/index17.html)。

本山美彦 福井日記 60 テキスト・ファンダメンタリスト

2007-01-30 06:31:39 | 神(福井日記)
  日本で、『法華経』信仰を鼓舞したのは、最澄であった
 ただ、最澄は、『法華経』解釈をめぐる他宗との論争に精魂を尽き果たし、教団としての組織化には失敗した。比叡山が、高野山を凌ぐ大組織になるのは、最澄よりもはるかに後代になってからである。



 最澄は、空海のように、朝廷の愛顧を得て、高野山・東寺・西寺を頂く才覚には恵まれていなかった。

 
しかし、闘う最澄の下から、力のある新宗派創始者が輩出したのに、空海の下からは、これといった革新的学僧は育たなかった。空海が偉大すぎたということもあったのかも知れないが、むしろ、組織原理が個性を潰したと理解すべきだろう。

 思想とは、組織の巨大さではなく、わくわくするような闘いの中から育成されるものであることをこれは示している。

 それは、現代社会でも通じる。
 
権威を確立したマンモス組織からよりも、権威に挑戦する小さな組織から、大変な学者が輩出するものである。私が育った京大経済学部は日本では最少人数の組織で「あった」。しかし、自由闊達な組織で「あった」。大変な学者が巣立ったかどうかは後生の人たちが判定することなのだが。



 ただし、これも日本の学問の悲劇なのだが、仏教の経典が原語ではなく、漢訳から得たものであり、「加上」として原典に付け加えられた個所も漢語であることから、字義解釈学に学問が堕落してしまいかねない。日本語で理論が組み立てられていないのである。



 マルクス研究の悲劇はその最たるものである。
 
誰の編集によるテキストであるのか、マルクスの著作に散りばめられている用語を、当時のドイツ語の文脈で理解されたのか否か、等々の論争の消耗戦が、若者のマルクス離れを生み出したと私は思う。

 そもそも、過度にテキスト・クリティークにこだわるのは日本人の悪しき慣習である。

 
マルクスの真実がいかなるものであれ、資本主義社会の矛盾を現実に解消し、新たな歴史を作るにはどうしたらいいのかを、母国語で、母国の感性で考えることこそがもっとも重要なことである。

 マルクスのテキスト論争が消耗戦の末に沙汰止みになった瞬間に、日本では「マルクス的雰囲気」の研究者は一瞬にして消えてしまった。「マルクス主義」全盛時代には、「私はマルクス主義者ではない」と言っていた私が、いまなお「マルクス的なもの」にこだわっている。変な思想界である。

 最澄は、確かに闘士であった。それが若い学僧の感性を揺さぶった。しかし、最澄はもっとも日本的な翻訳解釈学の消耗戦で燃え尽きた。

 これは、最澄のものではないが、天台の良源(りょうげん)が南都の法相宗と論争した「応和の宗論」(963年)などはその典型である。

 『法華経』の「方便品」に「無一不成仏」という語句がある。もちろん、これはインドの原語からの漢訳である。この解釈をめぐって激しい論争が闘わされた。天台側の良源は、「成仏しない人は一人もない」(一として成仏せざるなし)と解釈し、法宗側の仲算(ちゅうざん)は、「仏性をもたない衆生は成仏できない」(無の一は成仏せず)と解釈した。

 ここには、権威主義が思想を支配しているどうしょうもない日本の悪弊が集約されている。

 
私など、どうでもいいではないかと思う。
 
真に「人は等しく心の中に仏性がある」と信じるのであれば、それを身近な事柄と論理の構成によって、説得的な言葉で人々に語りかけ、文章を公表すればよいではないか。よしんば、自分たちが依拠する『法華経』が自分たちの主張する内容と異なれば、「テキストではそうだが」、いまの時代には別の方向で考えたいと、率直に語ればいいのではないか。テキスト至上主義、権威主義の象徴が、日本の宗教論争を支配していた。


 そもそも、僧は、朝廷から認可され、それ以外の僧たらんとする者は「私度僧」として教団から排除された。認可される僧は、東大寺などで戒を授けらればならなかった。朝廷の権威に従属しないかぎり、平安朝の宗教は存立できなかったのである。最澄ですら、戒壇を比叡山に設置すべく朝廷にお願いしていたのである。空海は早々と設置の認可を得ていた。

 しかも、経典は、日本語に翻訳されずに、僧侶のみが読むことができたのである。民衆は僧の語る言葉だけで仏教を理解せざるをえなかった。



 ルターはそうした因習を打破したように、日本では蓮如が吉崎で民衆のためのわかりやすい日本語で布教した。しかし、新たな教団も権力に近付き、包摂された。

 普通の人々の日常の言葉で、どれだけ深みのある内容を語ることができるか。これが、思想に携わるものの、義務である。そして、矜恃をたもつこと、これが思想を語るものの最低限の資格である。

本山美彦 福井日記 59 法華経

2007-01-29 20:14:13 | 神(福井日記)
 小乗仏教の利己性に不満をもつ人たちの大乗仏教の運動がインドで紀元前後に起こり、これが中国、朝鮮に伝わったとされる。

 この運動の中で、『法華経』、『華厳経』、『無量寿経』がまず形成されたと先述の末木氏は言う(『日本仏教史』新潮文庫)。

 大乗仏教が本格的に中国に定着するのは4世紀の道安(どうあん、312~385年頃)の努力と、5世紀初め、西域から長安にきて教典の漢訳に画期的な業績を残した鳩摩羅什(くまらじゅう、350~409年頃)の業績によることが多いと同氏は説明している。時は中国の南北朝時代であった。

 朝鮮半島では、北の高句麗に372年、南の百済には中国の南朝から384年に伝わった。新羅も早くから伝わっていたはずであるが、公的に認可されたのは527年である。百済でも仏教が盛んになったのは、6世紀初めの聖王のときであった。末木氏は、その意味で、日本に百済から仏教が伝来したのは、538年で、最新の文化であったと言う。

 聖徳太子(574~622年)信仰の一つに、彼が南岳慧思(なんがくえし、515~577年)の生まれ変わりであったというものがある。

 
太子の生年と慧思の没年が異なり、太子が生まれた年にはまだ慧思は生きていたので、この説は明らかに間違いなのだが、この説は、慧思が当時、中国の仏教界ではいかに大きい存在であったかを示している。

 慧思は、天台宗を開いた随の天台智(てんだいちぎ、538~597年)の師であり、法華経解説者、および、法華経に基づく禅定の実践者として著名な人であった。それほどの著名な慧思が日本で聖徳太子として生まれ変わり、日本に仏教を広めたのであるとの説が奈良時代には語られていた。

 この説を広めたのは、日本に苦難の末に天平勝宝5年(753年)に到着した鑑真の弟子、思託(したく)であったと末木氏は断定している。

 
思託は、日本最古の僧伝、『延暦僧録』や、『大和上鑑真伝』の著者である。太子伝説は、平安時代の延喜17年(917年)に編纂された『聖徳太子伝暦』(藤原兼輔撰)に収録されている。

 その太子が『三経義疏』(さんぎょうしょ)を著したことは前回で述べたが、この三経の中に『法華経』が入っていた。

 そして、天台宗は、この『法華経』に基づいたものである。
 
中国の天台の著作を日本にもたらしたのは、5回の日本への渡航失敗と失明の末に、やっと、日本に上陸した鑑真がもたらしたものである。鑑真は大仏の前で聖武天皇に菩薩戒を授けた。この菩薩戒というのは、鳩摩羅什が訳した『梵網経」(ぼんもうきょう)という、慮舎那仏の蓮華台蔵世界(巻頭)、菩薩の修行(上巻)、菩薩の戒(下巻)を説いたもので、大仏建立はこの経典によると言われている。

 この菩薩戒は、元来が、在家者向けのものであったのに、出家者向けに替えてしまったのが最澄である。戒律を重視したからであると、末木氏は解釈する。

 初期大乗仏教の骨格をなすものが、『法華経』と『華厳経』であった。
 
紀元2世紀頃には作成されていたと考えられている。ただし、多くの仏教経典と同じく、『法華経』といっても単純なものではない。古層と新層があって複雑な構成をもっている。

 総じて、小乗仏教や原始仏教に比べて大乗仏教の経典は分かりにくい。
 
これは、江戸時代の大坂の天才、富永仲基(とみながなかもと、1715~1746年)が喝破したように、大乗仏典は釈迦自身の言葉だけでなく、後代の人間が次々に書き加えてできあがったものだからである。複雑さの度合いは年代が経つにつれて増加する。

 富永は、大乗は仏ではない。架空のものである(大乗非仏論、『出定後記』)とした。

 
明治になって、丹波出身の村上専精(むらかみせんしょう、1851~1929年)も大乗非仏論を唱えたが、その罪で真宗大谷派の僧籍を剥奪された。彼は東京帝大教授で、『日本仏教史綱要』、『仏教統一論』の著者である。

 さらに、漢訳という変容を仏教経典は被る。当然、経典には矛盾が出てくる。実際には、経典の成立時代背景の差が、そうした違いを生むのに、中国の仏教学者たちは、年齢毎の釈迦の悟りの境地の深さの差として経典の違いを理解しようとした。経典のことごとくが、釈迦の真言だと理解しようとしたのである。

 代表的な作業は、天台宗の始祖、天台智である。そして、『法華経』が釈迦の最晩年のものとされて、最高の悟りの経典とされた。

 通常、『法華経』という時、鳩摩羅什が漢訳した『妙法蓮華経』(みょうほうれんげきょう)を指している。まさに、正しい教えとは「白い蓮華の花」(サッダルマ・プンダリーカ)、つまり「正しい教え」(サッダルマ)、「白い蓮華」(プンダリーカ)なのである。

 比較的短い『法華経』は、「方便」という考え方を導入している。「方便」とは「巧みな手段」という意味である。

 釈迦は、聴衆の理解力に応じて説法方法を変えた。これを方便という。
 
したがって、方便は究極の真理ではなく、そこに至る手段だというのである。大乗は小乗と違って広く衆生(しゅうじょう)の救済を目指す。それに対して、小乗は、自己の救済のみを願う。仏の弟子(声聞、しょうもん)なのに、縁覚(えんがく)といって自分一人で悟ったとか、自分の利益しか考えないものである。

 このように小乗を貶め、大乗の優越さを誇りながらも、『法華経』の編纂者たちは、大乗と小乗との合一を目指していた。その重要な概念が「方便」であった。理解力で劣る小乗人に説明したのが小乗の教えであり、それはより正しい真理に導く「方便」なのである。まさに「嘘も方便なり」である。

 あらゆる宗派は、最終的には一切衆生が同じように仏になる。それこそ、『法華経』が示す道筋であるとしたのである。

 「方便」を、『法華経』は比喩を駆使して説明する。「火宅」の比喩がある。火宅とは火事になった家のことである。ある長者の家が火事になった。長者はいち早く地獄の火宅から外部の安全な地に逃れたが、愛する3人の子供たちはまだ火事に気付かず、家の中で遊んでいる。仕方なく、長者は、子供たちにそれぞれ別の呼びかけ方(方便)をした。それぞれに羊の車、鹿の車、牛の車をあげるから外に出てこいというのである。3人の子供たちは、羊、鹿、牛とそれぞれ好む車が異なっていたからである。3人が無事に外に出てくると、長者は、子供たち全員に大きな白い牛の車(大白牛車)を与えたというのである。

 つまり、長者が仏陀、3人の子供たちが声聞、縁覚、菩薩である。声聞がもっとも修行が足らず、縁覚が少しまし、菩薩がもっとも修行が進んでいる。修行段階に応じて、羊、鹿、牛と乗る車が異なっている。羊よりも鹿、鹿よりも牛が高級である。しかし、いずれの車も乗り物としては小さい(小乗)。そして最後は、彼らは全員を収容できる、白い牛の大きな車(大乗)に乗って唯一の真理に向かって進むのである。つまり、大乗とは、際限なく分裂をして小さくなってしまった小乗たちを包み込む大きな車なのである。こうした比喩を扱ったのが『法華経鵜の第一部である。

 第二部がまたすごい。インドで生まれ、菩提樹の下で悟りを開いた仏陀は、真実の仏陀ではない。永遠の仏陀の一つの現れでしかない、というのである。

 真実の仏陀は久遠の昔から存在し、すでに成仏していた( 久遠実成仏、くおんじつじょう)。そして、絶えず、手を替え、品を替えて教えを説き続けていたのであると。

 
因みに、『法華経』では、話のまとまり、章別構成を、「品」(ぼん)という用語で行っている。第一部分は「方便品」(ほうべんぼん)、第二部分は、「法師品」(ほっしぼん)、「嘱累品」(ぞくるいぼん)、「如来寿量品」(むりょうじゅりょうぼん)、さらに第三部で6つの「品」が語られる。

 第二部では、迫害に耐えて『法華経』を護持してきた法師、菩薩たちの実践が語られる。
 
有名な個所では、「常不軽菩薩品」(じょうふきょうぼさつぼん)がある。どれほど人々から軽蔑されても、そうした人々に対して「我、深く汝らを敬う」と語り続けた菩薩の話である。「堤婆達多品」(だいばだったぼん)も有名である。これは悪人の堤婆達多が回心して成仏した話である。

 第三部には、「観世音菩薩普門品」(かんぜおんぼさつふもんぼん)がある
  この「品」は後に、『観音経』として独立する。「薬王菩薩本事品」(やくおうぼさつほんじぼん)は後に「捨身供養」(しゃしんくよう)の根拠になったものである。つまり、薬王菩薩が両腕を燃やして仏を供養したという説話である。

 『法華経』を最終的な最高の経典として強く主張したのは先述の天台智である。彼は本来の永遠の仏陀の教えを「本門」といい、時々に姿を変えて本仏から派生した(垂迹、すいじゃく)仏の教えを「迹門」(しゃもん)と呼んだ。

 さらに一切の存在を「空」(くう)、「仮」(け)、「中」(ちゅう)の三次元から説明した。一切存在は平等である。これを彼は、「空」と呼んだ。

 
一切存在は個別性をもっている。これを彼は「仮」と呼んだ。
 
これら2つは、しかし、それぞれが一面的なものでしかない。というよりも対立的な概念である。存在するもののすべては「平等である」。同時に存在するすべてのものは個別性という「差別性」をもつ。2つは相互に矛盾している。そうした相反するものを統一的に止揚する概念、それが「中」である。これを「三諦円融」(さんていえんゆう)と名付け、そうした思想が『法華経』では説かれているというのである。

 弁証法は、ソクラテスによって許否された。彼よりも前のギリシャ哲学は、しかし、弁証法が基本であった。『法華経』もまた古代ギリシャの東方、つまり、中国から見た西方の古代思想を受け継いでいるのである。

本山美彦 福井日記 58 小 僧

2007-01-28 03:51:54 | 神(福井日記)

 日本の仏教の基礎は聖徳太子によって築かれたという説がもっとも有力である。

 
聖徳太子*は西暦574~622年の人で、用明天皇の子にして推古天皇の摂政(593年)、遣隋使派遣、冠位十二階、憲法十七条と、中央集権国家を作り上げたことで有名である。

 *(動画あり)

 太子は、日本人の書いた最古の仏教書『三経義疏』を著したとされている。

 三経とは、法華経、勝鬘教、維摩教である。法華経は日本でもっとも広く読まれている教典で「方便」(真理に導く手段)の言葉で有名である。勝鬘教は、如来思想が説かれている。維摩経は空の概念を説いたものである。この三教典の注釈が『義疏』である。



 この真贋を巡って論争があるが、A級戦犯の東条英機の教誨師を務めた花山信勝は、その著『聖徳太子御製法華教義疏』(1933年)で、少なくとも『法華義疏』は太子の手になるものであることを論証した。


 聖徳太子の著作は、強烈な小乗仏教批判が込められている。「常好座禅」という言葉がそれである。

 この言葉は、「常に座禅を好め」と解釈されることが多いが、先述の末木氏は、「常好座禅小乗禅師」という一文として読まれ、「山中で座禅ばかりしているような修行者は小乗の禅師であり」、菩薩が近づかない十種の対象(「十種不親近」)だと批判しているものとして読まれるべきであるとする。

 確かに、太子は、在家の仏教徒であった。そうした自負心がこうした強烈な主張をさせたのであろう。そして、この自負が、後の日本の仏教の強靭な背骨を形成することになる。

 奈良大仏は、民衆搾取の上に建造された。天平勝宝元年(749年)、それは完成した。大仏を作ろうと提案した、聖武天皇の言葉は背筋が寒くなるものであった。

 「天下の富を有するのは朕なり」、「国銅を尽くして象を溶かし、大山を削り手堂を構え」、「この富勢を以てこの尊像を造らん」(『続日本紀』、天正15年743年10月)の詔のわずか3年後に大仏は完成した。



 天平勝宝4年(752年)東大寺盧舎那仏開眼供養が営まれてた。前代未聞の大盛会であったという。しかし、その5年後の天平勝宝9年(757年)、大仏建立のために公民が貧窮に叩き込まれたとして橘奈良麻呂の乱が起こっている。朝廷には道鏡という怪物がのし歩いていた。聖徳太子の徳にも拘わらず、日本の仏教はまず大権力に媚びへつらうことから出発した。

 私たちが、小者のことを何気なく「小僧」と呼んでいる。これはれっきとした仏教界の用語である。

 つまり、「大僧正」の反対の言葉で、取りに足らない民衆の「自称、僧」のことである。

 
律令制時代には、僧は、官の許可を得た得度(官度)を受けたもの以外は認められていなかった。つまり、官の許可なく民衆に布教することは禁じられていた。許可を受けない僧を「私度僧」という。官度僧は官から給料を得ていた。私度僧は当然禁止された。民衆に人気のあった行基は私度僧にして小僧であった。この「小僧行基」が大仏建立に立ち上がり、「小僧」から「大僧正」に昇格した(天平17年(745年))。

 律令制度はここから崩れる。天平15年(743年)墾田永代私財令によって、荘園の私有が認められるようになった。わが越前が俄然活性化したのはこれを契機とする。



 ここからが、日本の歴史の愉快なところの開始である。天武天皇の時代に日本の公認仏教は確立させられるが、同時にこの時代に天照皇大神を頂点とする神祇体制が確立するのである。


本山美彦 福井日記 57 永平寺

2007-01-27 00:50:42 | 神(福井日記)

 永平寺の「永平」という名前の由来はなんだろうかと、昔から疑問に思っていた。

 末木文美土(すえき・ふみひこ)『日本仏教史』(新潮文庫、平成8年)によれば、中国に大乗仏教が伝来した年の年号、「永平」10年(西暦67年)に由来するという。


 同氏も感想を述べられているように、仏教というのはまことにもって変な宗教である。発祥地のインドでは見る影もない


 中国や韓国でも絶滅しているわけではないが、同じく、衰退している。インドでは巨大な影響力をもっていたのに、衰退した。中国でも日本からの多くの留学生にとてつもなき大きな精神的影響力を与え(いまの米国追随留学帰りよりもはるかに強力な)ていたのに、衰退した。


 日本でも、自分を仏教徒と認識する人はごく少数であろう。 いまや、思想的な影響力は微々たるものにすぎない。どうしてなのだろうか。思想の定着性がなぜ、仏教にはないのだろうか。上記、末木氏の著作はその疑問を解決しようとしたものである。


 空しい、なにもないという境地が、「我は居る」という開き直りの姿勢に敗北してきたのかも知れない。


 
とにかく、「空」は格好がいいが、治まり悪い境地である。そうした高踏さは、つねに、民衆のエネルギーによって打ち壊されてきた。


 観光の庭園がなく、葬式がなくなったとき、仏教は、最後の生息地の日本ですら解体して行くものと思われる。


 そうした中で、永平寺には庭園らしい庭園はない。なぜ、人は、それにもかかわらず、集まるのだろう。かくいう私もその一人である。読経の響きのすごさなのだろうか。


 釈迦とは、紀元前6世紀頃のゴータマ・シッダルタを開祖とし、彼の出身部族がシャカである(シャーキャ・ムニ)。従って、漢字はこの音読みを移したものである。釈迦牟尼(シャカムニ)、釈迦(シャカ)。悟った人をブツダという。これも漢字を当てて仏陀としたのである。

 そもそも、原始仏教は、ピタゴラス派を想起させるものである。この世を苦と捉え、そこからの超越を目指して出家集団の組織化と修行を積むことを内容としていた。

 大乗仏教とは、仏陀なき後、分裂を繰り返していた諸派(上座仏教、小乗仏教)を超える大乗=「大きな乗り物」を目指したものである。


  仏陀を敬い、在家者の修行の重要性を説き、実に多くの仏と菩薩を作り上げた。阿弥陀仏薬師仏弥勒菩薩、等々。つまり、西方のあらゆる神が集合させられたのである。

 東南アジアで流布されていた小乗仏教を超えるべく、本家のインドで大乗仏教が勃興したのであるが、この大乗仏教が中央アジアを経て、中国に伝えられる。後漢の明帝が、夢の中で黄金の仏を見て、西方に仏法を求めたと言われいる。『後漢書』西域伝の記述による。


 日本では、鎌田茂雄中国仏教史』(岩波全書、1978年)で紹介されている。


本山美彦 福井日記 39 尊い血の配当を武器とした蓮如

2006-09-12 00:28:56 | 神(福井日記)

 宗教教団の世界では、尊い血筋が権威を授けられることが古今東西、頻繁に見受けられた。宗教が、教義よりも尊い生き仏・神に心を委ねる信者が多数を占める心理状態では当然のことなのかも知れない。

 

 南北朝期の覚如以降の本願寺は、天台浄土系の寺院化を指向していた。後の時代のように、末寺を創建・育成することはまだ、目指されていなかった。後に末寺になる寺の由緒書のほとんどは、始祖を大谷一族としていないことからも、そのことが伺われる。

 

 石川県小松市興宗寺の九高僧連坐像の法系は「入西―西仏―行如」と記されており、行如の師にあたる西仏は常陸法善門下で信濃康楽寺の祖とされる人物であった(『加賀市史』通史上巻)。末寺システムを作ったのは、蓮如であった。蓮如以前には、後に本願寺系に編入される寺院のほとんどは、他の諸門流に属していたのである。

 

 本願寺系の進出は、本願寺歴代の尊い血筋を配当するという形を取って行われた。本願寺派の越前での第一歩は、足羽郡和田郷西方の本覚寺(現在は吉田郡上志比村に所在)から始まる。同寺の住職、信性の没後、長男と二男とが対立し、長男は寺を追い出された。

 

そして、長男はすぐに早世した。長男を慕う門徒衆は本願寺の第六代、如の弟である鸞芸頓円を招き、超勝寺を創建した。これが、後の、戦国期に、越前教団を本覚寺とともに主導することとなる、吉田郡藤島超勝寺(福井市)である。藤島の地は、戦国期の有力寺院であった坂井郡久末照厳寺(金津町)・砂子田徳勝寺(のち福井市了勝寺、藤島荘重藤は了勝寺の土門徒の地)が存在していて、(「照厳寺系図」『越前集成』)、一種の「古聖地」であったらしい。

 

 頓円の子、如遵は「ヨロツ父ノ道ヲマナフ事マレ」な人、つまり、俗物であり、その子、巧遵も「法流ニウトウトシ」、つまり、勉強しなかった(『反古裏書』)、おそらく蓮如の吉崎下向時までは、それまでの高田系に属していたのだろう。

 

 

 一方の本覚寺はすでに存如の代に「三帖和讃」などの各種聖教・典籍類の下付を受けており(「遺徳法輪集」『集成』八)、本願寺血縁の寺である藤島超勝寺より一歩早く本願寺系に属したものと思われる。

 

 超勝寺住持となった頓円自身も本覚寺門徒戸からは、「法流ツフサナラサリシ」、つまり、やはり勉強しない人であったと批判され、兄貴よりもはるかに優秀な弟、玄真周覚という人物が、旧本覚寺門徒団により、頓円に代わって「申ウケラレ」た、つまり、本願寺から頂き(「反古裏書」)、吉田郡荒川興行寺を創建した。応永年間(13941428年)のこととされる(興行寺蔵「由緒書」『越前集成』)。

 

 その周覚の子孫が、また各地に配当されて行った。長男、永存は丹生郡石田西光寺(鯖江市)を創建し、長女・二男は時衆となり、二女は照護寺、良空の妻となる。この照護寺は、足羽郡稲津桂島(福井市)に所在し、は六角堂とも称されていて、それまでは、越前の守護代、甲斐一族が住持していた非本願寺系の寺であった(『反古裏書』、大谷大学蔵『親鸞奉讃奥書』)。三女は存如の弟で、もと山門の僧侶だった宣祐如乗に嫁ぎ、加賀二俣本泉寺に住した。四女は、当時今立郡山本荘へ下っていた毫摂寺、善智へ嫁ぎ、三男は興行寺を継ぎ、四男は平泉寺に入り、五男は斯波氏に属し、六男は毫摂寺善智の養子となっている(「日野一流系図」『集成』七)。

 

 蓮如以前の本願寺の血筋は、本願寺門流への帰属意識は存在していなかった。血縁と法縁とは別との認識であった。福井市成福寺の「由緒略記」は「玄真(中略)法流ヲ天台ニ酌ミ、(中略)五代目乗玄マデ代々天台ノ教ヘヲ遵法」すると記してはいるが(『越前集成』)、真宗に酌むとは記していない。招請する側も、養子入りはもっぱら天台宗青蓮院系寺院の「貴種」をもらい受けたとの認識だったのだろう。

 

 他派の寺院に入寺していた本願寺の血筋が、本願寺のもとへ結集し始めるのは、蓮如が長禄元年に本願寺住持となり一宗創立を決意した後であった。本願寺の血筋の参入によって本願寺派の勢力は一挙に拡大した。蓮如は各地の一族の要の諸寺院に改めて自分の子女を配し、その再掌握を図って行ったのである。嗚呼!尊い血筋が法を圧迫する。庶民の浄財で、尊い種が維持・増進される。