消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 20 「お水取り」とは

2006-07-10 01:44:43 | 水(福井日記)

奈良東大寺のお水取りについては、誰しも知っている、春を呼ぶ伝統的行事である。しかし、主役の水は、若狭からきた水であるとされていることを知る人はそれほど多くはないのではないか。地形的に見て、そのようなことはあり得ないことである。でも、中央政権の権力の権化である東大寺が、なぜ、遠い若狭の水を神聖視しなければならないのだろうか。越前・若狭の地が、奈良の大寺院の荘園として開かれたことはすでにこの日記で見た。しかし、自己の支配地の水が、神事に使われるほど神聖ななものであるとされた事情は、なんだろうか。奈良の権力者たちの出自が、越前・若狭にあったと見なす方が自然であろう。

 私たちが、「お水取り」といっている東大寺の行事は、正式には「修二会」という行法である。毎年、2月20日から3月15日まで行われる。関西地方では、お水取りが済まなければ本格的な暖かさは来ないという合い言葉がある。不思議なほどこの合い言葉は当たっている。三寒四温であった天候が、お水取りが終わるや否や、しっかりと暖かくなる。修二会のクライマックスは、3月12日に二月堂で行われる松明の儀式である。毎年、テレビがその模様を日本中に放映する。

 この修二会は、天平勝宝4年(752年)に始まった。千数百年続いている行法である。この業法に使われる水のことを「香水」という。その香水は若狭の国の遠敷川の水であるとされる。遠敷川の神水が、地下を通って奈良の都まで運ばれると信じられている。

 修二会の行法は、一日を6分割して行われる。これを「六時行法」という。そして6分割する道具が「香時計」である。現在でも、香時計が修二会で使用されている。写真がその香時計である。


 福井県大飯郡おおい町名田庄納田終111-7に暦会館という資料館がある。安倍晴明の陰陽道を中心とする天文学を解説する資料が集められた会館である。香時計がこの会館に展示されている。現在は大飯郡おおい町と地名変更してしまったが、どうしてこの地区は、歴史的な名前を捨ててしまったのだろう。ものすごい勢いで市町村合併が昨年に進行したが、単純なコスト・ベネフィット効果の算出だけで合併が強行された。どの地域も歴史的遺産を踏みにじり、町名は単なる記号になってしまった。もったいないことである。大飯郡に変更される前は、福井県遠敷郡だったのである。



  この名田納田終には、「天社土御門神道本庁」という陰陽道の本庁がある。現在は、藤田義仁氏が司官を務められている。同氏は、今月の7月6日のNHKテレビで七夕祭りの元祖としての陰陽道の天文学について解説しておられた。ただし、私は、福井でその番組を見たので、全国放送ではなく、福井だけのローカル番組であったのかも知れない。藤田氏が、七夕祭りの短冊の五色は陰陽道の五行から来ていると解説されたことに強烈な示唆を私は受けた。

 天社土御門神道本庁の入り口には、星のマーク、五芒星が描かれた提灯が掲げられている。床の間には松明をかざす式神と安倍晴明の画像が掛けられている。

 ここは、土御門家(安倍一族)の旧所領地で陰陽道祭祀の地である。応仁の乱の戦火を逃れて土御門家が、自己の知行地であった名田庄に分霊を遷宮し祀った。安倍家が関わる神社は、この地以外に、善積川上神社がある。この神社が安倍家の御霊社である。

 賀茂神社貴船神社のような格式の高い神社ですら安倍家由来のものである。鬼門封じとしてこれら神社を安部家が天皇に勧請して、いまの地に配置されたものである。
 これは非常に面白い。日本の官幣神社の多くが、安倍家のような陰陽道を基盤として成立していたらしいことは、日本の神道の対民衆対策として軽視していいものではない。日本の神道の神官のみならず、仏教までもが、民衆の敬意を得るべく、陰陽道の天文学的占いを大きな武器にしてきたと副島隆彦氏が最近強調されるようになった。氏の着想が非常に貴重なので、後日、稿を改めて紹介したい。

 安倍晴明は延喜21年(921年)に生まれ、寛弘2年(1005年)9月26日に逝去している。85歳まで生きたとされる(真相は不明、晴明死後、数百年経過して作成された『土御門家記録』による)。

 晴明の出自にもいろいろな説明がある。『臥雲日件録』では、父母はなく、「化生之者」と記されている。晴明が信田明神である狐の子であったという伝承はかなり古くからある。浄瑠璃では、晴明(清明と表記される)の母は「葛の葉」という白狐であったが、晴明に狐である姿を見られたので、「恋しくば尋ねてきてみよ和泉なる信太の森野うらみ葛の葉」と書き残して信太の森(大阪府和泉市信太山付近)に隠遁した。恋しくて尋ねてきた晴明に、母の白狐は霊力を授けた。晴明は、大唐の白道上人から『金烏玉兎集』(きんうんぎょくとしゅう)を授与された。その後、天皇の病を治したので五位に叙され、「晴明」と名乗ることを許されたとある。

 その反対に、そもそも貴族であったという説明もある。『尊卑分脈』では、右大臣・安倍御主人(みうし)から数えて9代目の安倍益材(ますき、大膳大夫)の子として紹介されている。同書は、晴明を天文博士、従四位下であると記し、大善大夫、左京権大夫、穀倉院別当、等々を歴任したとされる。

 「あべ」という表記は、二種類ある。「安倍」と「阿部」である。有名な『竹取物語』の中でかぐや姫に求愛した貴公子の一人が「右大臣・阿部御主人」とされている。これは、安倍御主人と同一人物と見なしてもいいものと思われる。

 『公卿補任』(くぎょうぶにん)、「大宝3年(703年)閏4月1日」の項では、右大臣・阿部御主人を「安倍氏陰陽先祖也」と紹介されている。
 出生地については、讃岐ではないかとされている。『讃陽簪筆録』(さんようしんぴつろく)では、讃岐国香東(こうとう)郡井原庄に生まれたと記されている。『西讃府志』(せいさんふし)では讃岐国香川郡由佐の人とされている。

 私の知人に、高松の名家、「安倍」姓の某氏がいる。機を見て、おずおずと話を聞いてみようと思っている。

 安倍家は、住居を定めた土御門の名を取って土御門家と言われる。平安京を悪霊から守護するという役割を与えられていた。

 安倍晴明が活躍した頃の平安京は、今の京都の中心地よりもかなり西寄りに位置していた。都の中心となる南北の大通りである朱雀大路は現在の千本通りである。平安京の中心部は、今の千本丸太町であった。朱雀大路の北の門である朱雀門は、現在の二条城付近にあった。朱雀大路の南端が羅生門であった。都の北端は一条大路、南端は九条大路であった。朱雀大路の両脇が東大宮大路と西大宮大路であり、もっとも外側が東京極(ひがしきょうごく)大路と西京極大路であった。朱雀大路の南端の羅生門の近くには東寺(いまのもの)と西寺(せいじ)があった。東寺は朱雀大路の東、朱雀大路を挟むその反対側(西側)に西寺があった。現在、東寺だけが残されている。

 安倍晴明の屋敷は、土御門にあった。平安京の表鬼門(北東北)を守る意味があってそこを屋敷にしたのである。土御門は、現在の上京区の、上長者町と西洞院が交錯する地点にある。これは、東寺の陰陽寮の近くであった。この寮は、暦を作る任務を負っていたのであるが、宮中で陰陽道が正式に認められていたことがここからも分かる。

 安倍晴明は、真如堂で死亡したとされる。嵯峨野に葬られた。晴明墓所という。
 平安京の時代、それこそ無数の死者や動物の死骸が嵯峨野に捨て去られていた。そのために、京の人々は、嵯峨野を悪霊や怨霊の渦巻く地として恐れていた。東寺の弘法大師がこれら無数の骸を集めて埋葬し、供養したのが、「化野(あだしの)の念仏寺」である。

 陰陽道につては、簡単に述べることができないほど、複雑なものであるが、陰と陽、五行(水・金・土・火・木)を組み合わせて、自然現象と運勢を占うものである。とくに、天文学の知識が基本になっている。陰陽寮で、地相、天文、暦、占い、等々が研究されていたのである。この陰陽寮の研究生として晴明は修行していた。陰陽師になったのは、やっと40歳代後半であった。50歳を過ぎて陰陽頭に昇進した。陰陽道を修得するにはそれほどの時間がかかったのであろう。天文博士の最高位が陰陽頭であるが、それでも最高位は従五位程度であった。しかし、晴明はさらに昇進し、従四位の中級貴族になった。

 晴明は家紋に晴明桔梗を使用した。これは、いわゆる五芒星である。私たちが子供の頃からよく書いていた五角形の星のマークである。

 五芒星というのは、ギリシャではビーナス(金星)、あるいはペンタゴンである。平和の女神ビーナスが米国防省のシンボルになっているのは異様な光景である。

 それはさておき、晴明桔梗の五芒星は北極星を意味している。土御門家が北極星を主神として祀っていたのは、中国の陰陽道を受け継いだものとして不思議でもなんでもないが、日本のもっとも基礎の位置にある伊勢神宮でも「太一信仰」が密かに存在していたとされる。北国星はそこでは、「太一(たいち)星」と呼ばれていた。私ごとで申し訳ないが、私も長男に「たいち」という名を着けた。名前が大きすぎたといささか反省してはいる。

 五芒星の頂点はから左に回った最初の頂点は「水星」を指す。後、左回りに、それぞれの頂点が、「金星」、「土星」、「火星」、そしてもっとも上の頂点は「木星」である。この頂点の並びについては覚えやすくて、左上の頂点から「水・金・地・火・木」(すいきんちかもく)という昔、覚えた順序で唱え、地球の「地」に代えて、土(ど)星を挿入すればよいのである。

 土御門家の人々は、の名田庄に移住した後も、朝廷における陰陽寮の長官として、都と名田庄を頻繁に往来し、朝廷や将軍家のための占術、伊勢神宮・斎宮斎女(サイグウサイジョ)に関わる天文占いなども行ってきた。

 土御門家の記録は、度重なる戦火にあい焼失したものも多いが、宮内庁書陵部(ショリョウブ)や東京大学、京都資料館に数多く保管されている。他にも各地に未整理のまま散乱している資料も多い。

 そこでこういった資料を集め、名田庄に保存されていた古暦、文書、史蹟の保存をし、展示すべく、暦の資料館が名田庄にできたのである。写真にある、当時用いられていた「香時計」などの作暦・天文観測用具などが、保管展示がなされている。貴重な資料館である。

本山美彦 福井日記 08 血液としての用水

2006-06-09 00:06:45 | 水(福井日記)
 取水の事情を知らない都市の人間は、洪水を防ぐには、堰を頑丈に作ればいいではないかと、つい簡単に考えてしまう。しかし、事実はそうではない。暴れ川のもっとも基本となる堰は、大堰と呼ばれている。これを頑丈に作って、下流への水の氾濫を防ぐことができれば、洪水を制御できると思い勝ちだが、ことは、そう簡単にはいかない。大堰から引かれる大幹線用水の下流には、分水すべく、もれ水を引く二番手、三番手の堰が控えている。大堰、あるいは、大堰から直接取水する大幹線用水を完璧に作ってしまえば、下流のもれ水をたよりにする地域は干上がってしまう。しかたなく、洪水のために壊れることを覚悟した華奢な堰堤が、意図して設計されなければならなかったのである。

 それでも、このもれ水に頼るという仕組みが、過去の農村の紛争の種であった。6月7日の日記でも説明したが、宝暦元年(寛延4年ともいう、1751年、正確な年次は確定されていない)、御陵用水を使っている五領ヶ島(御陵用水)の農民が、十郷大堰を切り崩すという事件を起こした。毎年8月、大堰の一部を切り落とすという従来の慣例に反し、この年、そのような堰の切り落としがなかったからである。しかし、十郷用水側の118か村はこれに怒り、江戸評定所に提訴、裁判は5年もかかった。

 農民のこうした苦境に拍車をかけたのが、城下町に引き込む上水路であった。十郷大堰の左岸下流に取水口をもつ芝原用水は、「御上水」(ごじょうすい)という別名をもち、福井藩53万石の城下町の命綱であった。

 徳川家康の次男の結城秀康が越前藩の初代藩主になった(1601年)。彼が、城下町の飲料水確保のために、芝原の上水を開削した。これは、江戸の神田上水(1590年)と並ぶ、日本でもっとも古い大水道ということになっている。

 芝原用水は、十郷大堰の左岸(河口に向かって左)4キロメートル下流に取水口があり、用水はすぐ外輪(そとわ)用水と内輪(うちわ)用水に分水される。外輪用水は、城下町北部から九頭竜川左岸(九頭竜川は東西に流れていて、城下町は、九頭竜川の南部に位置している)にかけての農地に引き込まれ内輪用水は城下町の上水道と堀用水になる。

 この芝原用水には、「分水量長御定杭」といわれる目印が立てられている。取水口から分水される地点(志比口の荒橋上流)に立てられたこの目印は、流量を計るもので、水量が下がると農業用水への放流は止められ、飲料水のみに回されたのである。
 芝原用水の管理は、家老直属の上水奉行が担当していた。理由なく水に触れたり、雨水の外部からの流入も禁じられていた。大雨の時には、村の長が流入を防ぐという義務を負っていた。

 用水は飲料水だけに使われるのではない。洗濯、風呂、掃除、防火、融雪、産業用と種々の用途ごとに区分されていた。そのすべてが上水奉行を含む水奉行が管理していた。そうした用水の区分は幕末で95か所あったとされている。

 芝原用水のもれ水を利用する桜用水では、水面幅で7対3の分水をしていた。7が上水、3が農業用水である。流量が低下すれば、農業用水にはまったく吐き出されない構造になっていた。弘化2年(1845年)、渇水に怒った桜用水に頼る4つの村(現在の丸山町)が、岩を投げ込み、上水そのものの取水を妨害した。藩は村に修復を求めたが、直後、洪水が起こり、用水自体が破壊されてしまった。再建にあたって、藩は、農民の労働奉仕に頼らざるをえず、農民の主張を認めてしまった。

 城下町を作るということは、水路を造ることと同義であったのである。それは、洪水との戦いでもあり、分水紛争の調停でもあった。

 九頭竜川の氾濫で大堰を大修復しなければならなかった回数は、享保7年(1722年)から安政2年(1855年)の133年間で14回という記録が残っている。

 寛政2年(1798年)の洪水では、大堰修復後わずか2日後に大雨で再び堰が壊されてしまった。天保13年(1842年)の復旧工事は、延べ18万8000人の農民と2万3000本弱の竹、1万7000本強の杭、1万8000本の雑木、250束の粗朶(そだ)、3千400貫の藤(とう)、100枚の莚(むしろ)を投じた大工事であった。

 当時の十郷大堰は、三角錐に組んだ櫓(やぐら)に粗朶を置くという粗末なものであった。それでも、この十郷大堰は千年の寿命を保ってきたのである。

 農業用水は、人間の血管に似ている。堰は心臓、幹線水路は動脈、分水路は毛細血管、そして、排水路は静脈なのである。用水は血の一滴である。自然の位置エネルギーだけを頼りに引き込み、平野をくまなく潤す壮大な水路網。これこそ、わが先人たちが心血を注いで作り上げてきた手作りの資産である。

 水田は、ダムに劣らない洪水調整機能、地下水の涵養、土壌の殺菌、脱窒効果、空気を冷やす、等々のすばらしい効能をもっている。にもかかわらず、高いコメを食べさせられる日本の消費者は可哀想だ、コメを自由化すればはるかに高い消費者余剰を得られるはずだとする新古典派経済学者は、のっぺりとした顔でとくとくと経済的合理性の必要性を説き回る。

 流血を繰り返して千年、やっと作り上げた精密な社会秩序は、茶碗一杯のご飯の価格100円を30円にするというつまらない消費者余剰のために、一瞬にして崩壊させられるべきものではない。

 降れば洪水、照れば渇水という急峻な国土、暴れ馬のアジア・モンスーンをもつこの国土では、水田、水路作りが、社会秩序の真の基盤であった。この歴史の重みを捨てるべきではない。

 明治初期、日本政府に招かれたオランダ人の技師、ファン・ドールンは、日本の川を見て、これは川でなく滝だとうめいたという。ゆったりと流れる川が当たり前のヨーロッパに対して、日本の川は、とくに日本海側の川は3千メートル級の峻厳な山から一気に海にまで駆け下る。九頭竜川は717メートルから河口まで116キロメートルしかない。ローヌ川は400メートルから降りて、河口まで500キロメートルもゆったりと流れる。メコン川に至っては400メートルを2千キロメートルかけて、ゆうゆうと下る。

 最大流量の最小流量に対する倍率で見ると、九頭竜川は249、ローヌ川は35である。日本では、梅雨の集中豪雨の後、夏の2か月も雨が降らなくなる。

 わが先人たちは、水路を造って分水、貯水してきた。山に植林して保水能力を高めてきた。過酷な風土からここめで豊かな国土に仕立て上げた。そのことに思い馳せよう。

 土壌を殺し回り、農薬で汚染の限りを尽くす米国の農産物の低廉さを手放しで自慢する新古典派経済学の稚拙なモノロークにいつまでもつきあっている必要はない。彼らはかなり近い将来、自滅するのだから。(利用した資料は、前日のものと同じ)

本山美彦 福井日記 07 複雑・緊密化する水路

2006-06-08 00:20:42 | 水(福井日記)
これまで十郷用水のことについて、たびたび触れてきた。十郷とは、平安時代の越前にある興福寺領荘園、河口荘に属する、本庄、新郷、王見、兵庫、大口、関、溝江、細呂宜、荒居、新庄といった10村のことである。平安時代の天永元年(1110年)に十郷用水は開削された。この水路は現在も現役である。

 十郷大堰からの取水といっても、10村に公平に分水できたわけではない。10の村が同じ高さの土地をもつわけではないし、水路の分かれ目の断面積によって、分水される水量は異なる。上流が多く取水すれば、直ちに下流は不利になる。そこで、下流の村は絶えず上流の村の取水状況を監視しなければならなくなる。

 水路は、こうした紛争を避けるべく、権力によって、じつに細かく形状を決められていた。例えば、朝倉氏の支配下では、天文6年(1537年)に、水路の幅が6尺1寸、水深が3尺2寸1分と定められていた。朝倉時代には、十郷用水には横落堰と呼ばれる調整堰が設置され、そこから下流の村々に分水する規定が細かく作られていた。権力が派遣する監督官の下で水路には厳重な管理体制が敷かれていたのである。

 十郷大堰から新江(しんえ)用水(1679年)、高椋(たかぼこ)用水(1455年)を分水した後、一番堰から七番堰にかけて磯部用水(十郷用水と同じ時期に設立)などが分かれ、高椋村、春江村と分水して後、十郷用水の幹線水路になる。その後も、兵庫川へ水を落とす形で分水していた。

 わずか10の村で分水していた用水は、江戸時代には118か村にまで増大した。九頭竜川の水流は変わらないのであるから、渇水時になると、堰が切って落とすために、農民たちが殺気だってにらみ合い、各時代の権力者が調停に乗り出した。

 十郷用水の末端地区である芦原町内(現あわら市)だけでも、江戸時代に約30回の水利紛争が記録されている。文化10年(1804年)には死者が出て、江戸出訴にまで発展した。
 こうして、水路は1ミリの変更も許されない複雑かつ緊密なものになっていったのである。

 本稿は、北陸農政局九頭竜川下流農業水利事業所発行のパンフレット『千年の悲願』平成16年3月、の記述に依存した。

本山美彦 福井日記 05 水路に関する高度技術と権力

2006-06-07 13:23:17 | 水(福井日記)
私の下宿は、兼定島という地にある。不可思議な地名だが古老に聴いても、名前の由来は知らないという。兼定島が九頭竜川の中州であったことは確かである。下宿から、ものの数分歩いた所に下合月(しもあいづき)という地域がある。この地域が江戸時代の天宝年間に起こした水争いのことが、この地の石碑に記されている。

 石碑は大正15年9月に刻まれたもので、かなり、風化していて、文字の判読が困難である。元の文書は福井のどこかの資料館に保存されているはずなのだが、まだ私は所在をつかめないので、辛うじて判読できた範囲で石碑の中身を紹介したい。現代風に文章を改め、要約していることをお断りしておきたい。

 碑の題は「用水功労者記念碑」である。元・大庄屋・戸枝太左衛門と他3名の事蹟を記したものである。
 保元元年、九頭竜川に鳴鹿堰ができ、そこから、十郷用水路が引かれ、坂井郡の水田110余の区画を潤すことになった。さらにそれから160 年後、鳴鹿堰の下流に春近用水路向けの堰が作られた。こうして、上合月以下、37区の水田が養われることになった。

 そこに、天宝年間、大干魃が生じた。鳴鹿堰は完全に閉じられ、下流の春近堰に水が行くことはなかった。鳴鹿堰を基とする十郷用水に頼る地域は水を確保できたが、春近堰の合月地区は干上がってしまった。そこで、下合月の庄屋の戸枝太左衛門、名主の伊兵衛、上合月の百姓の惣左衛門、下合月の百姓の喜兵衛の4人が、村人の先頭に立ち、鳴鹿堰を切断して、下流37区の危急を救った。

 しかし、十郷の118区の代表者たちが怒り狂い、上記4名の告発を江戸幕府に対して行った。裁判は5年の長期に及んだが、命をかけた4名の大活躍によって、春近側の農民の全面勝利となった。以後、毎年8月、長さ48間の鳴鹿堰の南側(九頭竜川は福井平野を東から西に流れている)24間をそのままにして、北側の24間を開けることになった。以後、明治中ばまで、合月地区は毎年、8月14日を休業日とし、龍神に祈り、雨乞いの儀式をするとともに、先人の事蹟に感謝する日と定められた。

 明治に入って、水田が増えたことから、深刻な水不足に悩まされることになった。明治36年、五領が島村長の多田金三郎を中心として、春近、芝原、合月の村長が協議し、明治40年、御領普通水利組合が結成され、用水を地域農民の協議の下で運営することになった。こうした事蹟の重要性を、工学博士・仙石亮がこの碑に刻んだ。そして、いまでも、この地の水路は水利組合によって監督されている。福井の強さの現れである。

 水路の建設は道路建設よりもはるかに難しい。
 取水する川は、その地域のもっとも低いところを流れているので、取水口は村の標高よりもはるかに高い所に設定されねばならない。まず、水路通すことについて、上流の地域住民の許可を得ることができるかが問題になる。
 さらに、等高線がきちんと測られなければ水を引くことはできない。その等高線を測ることが至難の業である。夜中、大勢の農民が松明を同じ高さに立てて、火が一直線に並ぶ場所を探して等高線を探っていたという。

 苦労して水を引いても、水は余所の村を通る。当然、その地への補償がいる。春近用水では、水を引くために潰れる余所の地を補償するのに、俵を並べたらしい。良い土地は俵を横に並べ、条件の落ちる土地は俵を縦に並べ、その数の米を補償として渡したという(森田町史)。

 土手を石垣などで固め、水が地中に染み込まないように、粘土を底に張らねばならない。そうした労力は大変なものである。
 ところが、ようやく完成した用水路が逆に村にとって命取りになりかねない。大雨のときには、この水路を通って洪水が押し寄せるからである。洪水を恐れて水の取得を少なくすれば、夏の渇水時に水の取得ができない。しかも、川の水量は一定しない。しかも、前回に書いたように、無数の枝別れを水路は必要とする。

 もっとも、重要な難問は、水の分け合いである。一本の水路を分け合うことは、それこそ、血を見る争いごとになる。上の石碑がそれを示している。越前平野だけでなく、日本の農民を苦しめたのは、他ならぬ、千年にわたる水争いであった。
 継体天皇が権力を維持できたのは、こうした水争いを治めたからであろう。強力な権力が複数の村の水争いを治め、その成功がまた権力基盤を強化する。
 灌漑技術において劣っていた大和が、継体の技術に教えを請うという事態はけっして不思議なことでもなんでもないのである。轟音を立てて山から駆け下る九頭竜川という「崩れ川」を目の当たりにするとき、私は、渡来人が大和朝廷の中枢に入り込むことができた素地に納得してしまう。

本山美彦 福井日記 04 継体天皇のこと

2006-06-06 13:59:49 | 水(福井日記)
福井に来て受けたもっとも大きな衝撃は、農村が高度技術によって、作り出されたという史実である。田畑には用水路が張り巡らされている。これは当たり前の風景である。しかし、よくよく観察すると、用水路の精巧さに感嘆させられる。眼には平坦に見えても、実際には、農地には、微妙な高低差がある。高度差のある土地のすべてに、用水を引き入れ、かつ、排水する。用水路自体が、土地の形状に合わせて見事に高低差をもつ。水は数ミリの高低差に直ちに反応して、低い土地に流れるので、高度差のある用水路を無数に造らなければならない。取水口を土地の高さに応じて多数作り、用水路を血管のごとく縦横に張り巡らせなければならない。しかも、用水路は、設計段階だけでなく、維持にも大変な労力を必要とする。「結」(ゆい)とは、そうした村人の共同作業のことであり、権力がそうした結を指揮する。つまり、農村は自然発生的に出来上がったものではなく、人間社会の大変な労力の結晶である。おそらく、古代の権力は、そうした高度技術をもつ専門家集団を擁し、そうした集団を各地に派遣したのであろう。

 水道しか知らなかった私には、芸術品の用水路をまじまじと見ることは驚きであった。そして、権力のもつ意味について考え直さざるを得ないと思うようになった。権力が軍事力を根幹としていることは当然である。しかし、武力で民衆を慰撫することは不可能である。むき出しの暴力は民衆反乱を呼び起こすだけのことである。権力は、民衆に慕われる正統性をもたねければならない。古代権力は、その意味で、治山治水事業を権力基盤にしたのであろう。

 私は、以前から継体天皇が大和朝廷に迎えられたことが疑問であった。6世紀の初めに第26 代天皇として越前から継体は迎えられた。しかも、迎えがきて大和に入るのに20年も要している。そもそも、越とは、木の芽峠の向こう、つまり、夷の住む野蛮な地域という蔑称である。九頭竜川の南の丘陵地帯の松岡、吉野が夷を従わす前線基地であったことは、松岡に春日、神明という地名があることからも明らかである。この夷の地から天皇が迎えられる。『日本書記』によれば、応神天皇(第15代)と血がつながっているとはいうものの、それより5代も下る遠い血筋である。なぜなのか。そして、なぜ、大和に入るのに、20年もかかったのか。

 この謎を解く鍵は、治水事業にある。『続日本記』によれば、越前の三国(みくに)地域は大きな湖の水国(みくに)であった。継体天皇が水国の岩山を切り裂いて湖の水を海に流し、広大な農地を作ったとある。つまり、継体は大土木事業を遂行したのである。暴れ川、くづれ川として猛威を奮う九頭竜川を治め、干拓し、農業用水を作ることは大変な技術を必要としたはずである。司馬遼太郎も『街道をゆく―越前の緒道』でも指摘されているが、越前の灌漑技術は当時から図抜けていた。

 継体は、三国の坂中井(さかない)出身であり、足羽山(あすわやま)に建てられている石像は韓国の寺院に見られる巨大な図体をし、巨大な顔をもつ。しかも、韓国の方に顔が向けられている。おそらくは、高い灌漑技術をもつ渡来人の専門家を配下にもっていたのが継体だったのであろう。飛鳥時代の大和朝廷はつねに、水不足に悩んでいた。この苦境を脱するには、三国の継体の力が必要だったのだろう。飛鳥で治水事業に継体は20年もかかった。そうした事業が完成した後、継体が正式に大和に迎えられたと理解するのは突飛すぎるだろうか。

 757年(天平宝字元年)、『越前国使等解』には、桑原荘内で、溝の開削、樋の設置に関する計画書が記されている。奈良時代には五百原(いおはら)堰が作られ、平安時代の1110年十郷用水が開設され、五百原堰と結ばれた。28キロメートルもあった。大和平野や河内平野には「大溝」と呼ばれる用水路が作られていたが、五百原堰とか十郷堰とかの固有名詞はこの2つの堰が日本最初である。
 私の下宿近くの福井県丸岡町の足羽神社には継体天皇がまつられている。